一葉一楽

寺社百景

新宮熊野神社 ー 拝殿と長床

2014-10-30 10:10:04 | 神社
寛文十二年(1672)完の「会津旧事雑考」等によれば、源頼義・義家が前九年・後三年の役の折、天喜五年(1057)八幡社同様熊野社も勧請したと伝える。ここ会津に拠点があったとも伝える(文治五年(1189)鎌倉幕府が御家人佐原義連に会津四郡を与えたことにより、その社領が没収された時、その回復のため、源氏との因縁を述べたという。うがった見方をすれば、この時に源氏と繋がりが出来たともいえる)。長床或いは拝殿は応徳二年(1085)現在地に遷座したときに造営されたか否かは分からない。「新宮雑葉記」(宝永七年(1710))に「治承三年(1179)己亥新宮前殿鰐口鋳造銘」が載っており、少なくとも平安末期には存在していたことを示している。当初全面開放、その後土壁や板壁で囲われたようだが、慶長十六年(1611)の地震で倒壊。再建時には再び開放となったが、江戸時代に入ると間仕切りがされたようである(「重要文化財熊野神社長床修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 1974)。一般に拝殿は全面開放で始まったのでは、熊野神社長床はその姿を伝えているのかも知れない。


  

  長床(拝殿)

文化六年(1809)完の「新編会津風土記」には挿絵、熊野宮図の中でも拝殿として載る。文化三年(1806)改造後の姿であろうが、実際とは異なり、仙台の大崎八幡宮の長床にも似た割拝殿のように見える。「新宮雑葉記」に「慶長十九年(1611)蒲生忠郷新宮三所之前殿修補シ玉フ」とあり、「棟札」を引用し「・・・新造長床供養・・・」とある。拝殿或いは前殿と長床とは区別されていない。しかし桁行九間梁間四間の大きさの必然性は奈辺にあるのだろうか。

  本殿

2014年6月撮影
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勝常寺 ー 徳一伝説

2014-10-17 15:18:36 | 寺院
縄文・弥生時代の遺跡がある所に初期勝常寺が建立されたようである。その伽藍は第ニ期或いは現在の伽藍とは25度傾いた軸線を持っていた。徳一創建と云われる伽藍跡であろうか。(「堂後遺跡現地説明会資料」湯川村 2010-2013年)この頃のものと思われる、何処か奈良・京都とは雰囲気の異なる、厳しさを醸し出した仏像も残る。
現存する薬師堂は、寛文十二年(1672)向井吉重編の「会津旧事雑考」に応永五年(1398)修復とあることから、この年再建とされている。徳一創建の恵日寺の寺侍出身と云われている、葦名氏重臣の富田氏が奉行したらしいが、どこまで伽藍が復興したのかは分からない。もっともこの前身の、第二期伽藍も何時造営されたのかも不明であるが。再建伽藍も、薬師堂を除き、伊達政宗の会津侵攻で焼失。徳一像も切りつけられたと云う。
勝常寺修復供養は蒲生氏を経て加藤氏の時代、寛永十五年(1638)である。保科正之が会津に入ったのは、寛永二十年(1643)である。保科正之は吉川神道を信奉しており、仏都会津にあった寺院は整理の憂き目にあっている。民間の薬師信仰や観音信仰に、或いは真言宗に転宗し、徳一ならぬ空海に依存し生き残ることになる。会津藩の支援は、各寺院の画一的な仁王門に象徴される。薬師堂とは釣り合わない。


  仁王門

    薬師堂

2014年6月撮影
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