寛文十二年(1672)完の「会津旧事雑考」等によれば、源頼義・義家が前九年・後三年の役の折、天喜五年(1057)八幡社同様熊野社も勧請したと伝える。ここ会津に拠点があったとも伝える(文治五年(1189)鎌倉幕府が御家人佐原義連に会津四郡を与えたことにより、その社領が没収された時、その回復のため、源氏との因縁を述べたという。うがった見方をすれば、この時に源氏と繋がりが出来たともいえる)。長床或いは拝殿は応徳二年(1085)現在地に遷座したときに造営されたか否かは分からない。「新宮雑葉記」(宝永七年(1710))に「治承三年(1179)己亥新宮前殿鰐口鋳造銘」が載っており、少なくとも平安末期には存在していたことを示している。当初全面開放、その後土壁や板壁で囲われたようだが、慶長十六年(1611)の地震で倒壊。再建時には再び開放となったが、江戸時代に入ると間仕切りがされたようである(「重要文化財熊野神社長床修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 1974)。一般に拝殿は全面開放で始まったのでは、熊野神社長床はその姿を伝えているのかも知れない。
長床(拝殿)
文化六年(1809)完の「新編会津風土記」には挿絵、熊野宮図の中でも拝殿として載る。文化三年(1806)改造後の姿であろうが、実際とは異なり、仙台の大崎八幡宮の長床にも似た割拝殿のように見える。「新宮雑葉記」に「慶長十九年(1611)蒲生忠郷新宮三所之前殿修補シ玉フ」とあり、「棟札」を引用し「・・・新造長床供養・・・」とある。拝殿或いは前殿と長床とは区別されていない。しかし桁行九間梁間四間の大きさの必然性は奈辺にあるのだろうか。
本殿
2014年6月撮影
長床(拝殿)
文化六年(1809)完の「新編会津風土記」には挿絵、熊野宮図の中でも拝殿として載る。文化三年(1806)改造後の姿であろうが、実際とは異なり、仙台の大崎八幡宮の長床にも似た割拝殿のように見える。「新宮雑葉記」に「慶長十九年(1611)蒲生忠郷新宮三所之前殿修補シ玉フ」とあり、「棟札」を引用し「・・・新造長床供養・・・」とある。拝殿或いは前殿と長床とは区別されていない。しかし桁行九間梁間四間の大きさの必然性は奈辺にあるのだろうか。
本殿
2014年6月撮影