「江戸名所図会」に渋谷八幡宮とあるが、「新編武蔵国風土記稿」では「金王八幡と号す、古より中渋谷村の鎮守なり」とある。金王丸伝説が前面に出て、あたかも金王丸を祀っているようにみえるが、あくまでも八幡社で応神天皇を祭神とする。現在の社殿造営の時期には、元別当寺の東福寺鐘銘に依拠する元禄元年(1688年)と、春日局と青山伯耆守忠俊寄進とし慶長17年(1612年)の二説があるようである。「新編武蔵国風土記稿」は鐘銘「疑ふへし」とするが、「東京都の近世社寺建築」(東京都、1989年)では絵様から鐘銘を採る。
「江戸名所図会」では権現造として描く。拝殿・幣殿とは同一床高で、異様に奥行のある幣殿の先に木階、一間の本殿がある。幣殿を後から付加し権現造としたのであろう。神社建築として、権現造が普及、或いは流行となったのであろうか。
社殿は、向拝の彫刻、彩色を除き、疎垂木に見られるように極めて簡素であるが、小壁を大きくとる。拝殿正面の小壁には「虎」と「獏」の彫刻があり、このために小壁を大きくしたのではないか思わせるほどである。
(注)2012年10月撮影