一葉一楽

寺社百景

長寿寺 ー 床面の同一化

2015-05-22 16:55:40 | 寺院
長寿寺もまた織田信長の焼打ちにあっている。残ったのは本堂などと、三重塔であったが、三重塔は焼打ちを免れたものの、安土に持ち去られ、見寺三重塔として残る。

 三重塔跡

本堂は純和様。建立時期は不明だが、弘安十年(1287)の不断念仏田の寄進状に「社堂仏前」とあることから、境内社の白山神社ともども、この頃には建てられていたのであろう(「重要文化財白山神社拝殿修理工事報告書」滋賀県教育委員会事務局社会教育課編 1962)。また寿永二年(1183)源頼朝の寄進状もあるが、偽文の可能性もあり、そこまで遡るか否かは分からない。
外陣は板張り床であるが、内陣は当初土間床であったと云われている(「重要文化財長寿寺弁天堂修理工事報告書」滋賀県教育委員会事務局社会教育課編 1957)。内陣の天井は切妻形式の化粧屋根裏、外陣は寄棟形式の化粧屋根裏であり、嘗ての「正堂」「礼堂」を一体化したと思わせる内部空間である。古代寺院の「金堂」と「講堂」の一元化とも云え、「仏の場」と「人の居住空間」が同一空間になった瞬間でもある。密教の儀式に即した内部空間となったのだが、単に中世密教寺院への過渡期の建造物といって片付けるわけにはいかない。(参照:井上充夫「日本建築の空間」鹿島出版社 1969、中川武「建築様式の歴史と表現」彰国社 1987)。
土間床が外陣と同じ板張りとなったのは、仏壇修造の貞治五年(1366)か今の厨子にある墨書がいう文明十二年(1480)の頃かは断定する材料がないが、「報告書」は後者ではないかと推定しているが、常楽寺、善水寺再建の時期と重なる前者は捨てきれない。床高が同一となっても、内外陣は格子戸と菱欄間で区別され、「仏の場」と「人の居住空間」と峻別される。


     本堂

白山神社は長寿寺の境内社。日吉大社の摂社に白山宮に対応するのであろうか。白山宮の拝殿は格子戸のない吹き抜けである。昭和の修理前はこの白山神社拝殿も吹き抜けであった。
白山神社拝殿

 弁天堂

(注)2014年12月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする