江戸黄檗宗最初の創建の伽藍である。開基は青木甲斐守重兼、摂津麻田藩1万石の2代藩主である。その江戸屋敷に一精舎を営んだ。これが瑞聖寺となる。今「江戸名所図会」に描かれる伽藍で残るのは大雄宝殿と裏門であった山門である。
山門
青木甲斐守重兼は興味を惹く経歴を持つ。「寛政重修諸家譜」によれば、寛永18年(1641年)36歳の時に仁和寺の造営奉行を命じられたのを皮切りに、寛文3年(1663年)には摂津多田院(現多田神社)、そして寛文7年(1667年)重兼62歳で万福寺、多分大雄宝殿、天主殿、の造営奉行を務めている。日本における黄檗宗の開祖隠元とは隠元が普門寺に居る時に帰依、万治2年(1659年)には麻田藩領内の仏日寺創建時開山としている。重兼が臨済禅に触れたのは、仁和寺造営奉行をしている時、妙心寺に参禅してからのようである(Wikipediaからだが、その出典不明)。寛文11年(1671年)瑞聖寺創建、開山は隠元の弟子木庵である。寛文12年致仕、端山と号した。さらに延宝6年(1678年)領内の方広寺、木庵を招請し再興。天和2年(1682年)77歳で卒。なお3代重成(婿養子)は寺院造営により藩財政を窮乏させたと言われているが、実は重兼では?
今ある伽藍は、青木重兼が創建した時のものとは大きく異なる。宝暦7年(1757年)建築の大雄宝殿もどこまで創建当時の姿を残しているかも不明である。黄檗様を其処かしこに残しているものの、裳階の上の白い小壁は、どこか簡素な和様を思わせる。正面の吹き放ち部分が禅宗様であることを強く印象づける。
(注)2011年11月撮影
真近まで民家が迫り、マンションが背景となっている現在の伽藍では、大雄宝殿はその中で侘しさを醸し出している。この様な情景は京都の街中の寺社にも見られるのだが、どこか違う。華やかさがないのである。鎌倉以来の都鄙問題はまだ解決されていない。