一葉一楽

寺社百景

瑞聖寺 ー ある大名の信心の仕方

2011-11-25 21:06:03 | 寺院

江戸黄檗宗最初の創建の伽藍である。開基は青木甲斐守重兼、摂津麻田藩1万石の2代藩主である。その江戸屋敷に一精舎を営んだ。これが瑞聖寺となる。今「江戸名所図会」に描かれる伽藍で残るのは大雄宝殿と裏門であった山門である。

              

              山門

青木甲斐守重兼は興味を惹く経歴を持つ。「寛政重修諸家譜」によれば、寛永18年(1641年)36歳の時に仁和寺の造営奉行を命じられたのを皮切りに、寛文3年(1663年)には摂津多田院(現多田神社)、そして寛文7年(1667年)重兼62歳で万福寺、多分大雄宝殿、天主殿、の造営奉行を務めている。日本における黄檗宗の開祖隠元とは隠元が普門寺に居る時に帰依、万治2年(1659年)には麻田藩領内の仏日寺創建時開山としている。重兼が臨済禅に触れたのは、仁和寺造営奉行をしている時、妙心寺に参禅してからのようである(Wikipediaからだが、その出典不明)。寛文11年(1671年)瑞聖寺創建、開山は隠元の弟子木庵である。寛文12年致仕、端山と号した。さらに延宝6年(1678年)領内の方広寺、木庵を招請し再興。天和2年(1682年)77歳で卒。なお3代重成(婿養子)は寺院造営により藩財政を窮乏させたと言われているが、実は重兼では?

今ある伽藍は、青木重兼が創建した時のものとは大きく異なる。宝暦7年(1757年)建築の大雄宝殿もどこまで創建当時の姿を残しているかも不明である。黄檗様を其処かしこに残しているものの、裳階の上の白い小壁は、どこか簡素な和様を思わせる。正面の吹き放ち部分が禅宗様であることを強く印象づける。

         

    

(注)2011年11月撮影

真近まで民家が迫り、マンションが背景となっている現在の伽藍では、大雄宝殿はその中で侘しさを醸し出している。この様な情景は京都の街中の寺社にも見られるのだが、どこか違う。華やかさがないのである。鎌倉以来の都鄙問題はまだ解決されていない。

 

 

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正福寺地蔵堂 - 地蔵信仰に支えられて

2011-11-18 14:34:53 | 寺院

京都は都、鎌倉は鄙、京都では足利義満、鎌倉では足利満兼の共に晩年の頃である。都鄙不和が深刻化する直前、応永14年(1407年)、鄙の北の地に円覚寺舎利殿に酷似する仏殿が建立されたとされている。しかし疑問が残る。この応永14年というのは昭和8年(1933年)の解体修理の際発見された墨書銘からの推定で、北条時宗開基ということであれば弘安年間(1278-1287年)の建立ということも有り得る(墨書銘を見つけた解体修理の報告書「国宝正福寺地蔵堂修理工事報告書」ではこの弘安説を採る)。尾垂木尻持送と墨書銘が見つかった場所から考えると建立でなければ大修理であるが。この墨書銘には僧の名しかなく、資金源の名がない。大工棟梁の名もない。しかしその類似性から旧太平寺仏殿(円覚寺舎利殿)と、少なくとも大工棟梁は同じ系列と考えるのが自然と思える。三間四方と仏殿としては大きくないが、裳階をつけた姿は鄙にある堂宇と一言に片付けられない。定型的ではあるが。 

     

(注)2010年10月撮影

本尊は地蔵菩薩、そして千体地蔵と本寺である建長寺を真似る。江戸時代からの話かも知れないが、この地蔵信仰が、鄙の力が屋根の葺替・修理を可能にし、この地蔵堂を守ってきたのではないだろうか。全く都を意識していないところがいい。

   

(注)2011年11月撮影

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円覚寺 - 世俗との共存

2011-11-11 20:00:39 | 寺院

円覚寺、建長寺も同じだが、主要伽藍は開放しているものの、塔頭に拝観を断っているところが多い。修行の場という性格を守るためであろう。寺院経営という観点から見ると難しい問題を抱えていると推察される。堂塔の修復、再建には借りなければ、それもままならない。度々の炎上も時の権勢の援助で再興されてきた。仏殿は寛永2年(1625年)、僧堂であった今の選佛堂は元禄12年(1699年)、このあたりまでは、武士階級に寄進する力があったのであろう。しかし今専門道場となっている正続院が再建を果たしたのは天明4年(1784年)、佛日庵は文化8年(1811年)と、塔頭再興には時間を要している。世俗の力を借りなければままならなかったからであろう。

      

     選佛堂            佛日庵(時宗廟)

三門、天明3年(1783年)(「新編相模国風土記稿」には寛政元年、1799年、の再造とある)の再建である。天明3年は浅間山が大爆発を起こし、この前年からの飢饉の被害を拡大させた年である。この飢饉の最中、「天明集成絲綸録」には天明2年に円覚寺が、伊豆、甲斐、信濃、陸奥、上総、下総に大殿、三門の修復・再建のため勧進をしたことが載っている。

            

            三門

関東大震災は正続院の禅堂、舎利殿、そして仏殿を全壊させた。仏殿の再建が成ったのは昭和38年(1963年)であった。一方舎利殿は大震災後大正14年(1925年)に再建。舎利殿は永禄6年(1563年)の元々の舎利殿が焼亡後、鎌倉尼五山の第一位太平寺仏殿を北条氏康が天正年間(1580年代?)に昭堂として移築と伝えられているようである。舎利殿を最初に真近に見たのは昭和39年の正月であったと記憶している。茅葺であった。�達葺になったのは昭和43年(1968年)、�達葺であった証拠が見つかったからだという。また建立時期は形の似ている正福寺地蔵堂からの類推であるそうだ。内部が丹塗されていたようだが(毎日新聞「不滅の建築7」)、そこまでは復元されていない。赤い舎利殿を想像するのも楽しいではないか。解体修理した時、何処までを修理というのか。更には禅宗様建築のモデルとしての「国宝」としての問題はないのだろうか。いずれにしても世俗の問題で、禅の本質に関わる問題ではない。

              

              舎利殿

(注)2010年11月撮影

            

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建長寺 - 近代の禅宗伽藍

2011-11-05 22:15:22 | 寺院

東日本大震災前のことである。2010年11月建長寺境内で聞こえてくるのは中国語で、時たま日本語であった。建長寺創建の頃、南宋からの僧で溢れ、ここ北鎌倉も斯くやと思わせる。この頃の建物は残っておらず、1732年写の元弘元年(1331年)の「建長寺指図」で想像するしかない。これとても建長5年(1253年)の供養から80年弱後の様子である。時の権力の庇護を受けている間は、「一宇も残らず灰燼となる」ことがあってもー応永21年(1414年)「鎌倉管領九代記」-再建は可能であった。鎌倉が歴史の舞台から降りてからの、醍醐寺座主義演が慶長15年(1610年)に鎌倉を訪問した時の、様子が「義演准后日記」に書かれている。「先円覚寺一見、古跡也。建長寺、同鐘アリ貞時鋳云々、古松老檜如形。伽藍度々一乱ニ焼失云々。只跡計也、草堂少々アリ」。江戸時代に入り一応の再興はなったものの、関東大震災である。山門、法堂は倒壊免れるも半壊。他の主要建築は全壊であった。復旧には大正、昭和、そして平成まで待たねばならなかった。今目にすることができるのは近世、近代の伽藍である。(関口欣也「鎌倉の古建築」参照)

                

                山門

非公開の昭堂ー寛永11年(1634年)建立、但し大正13年(1924年)全壊後の解体修理ーを除いては、仏殿と唐門が古い。共に関東大震災で全壊した後、復原されたのだが、大震災にも残ったのであろうか、仏殿の2重折上格天井、欄間は剥落しているが、往時の絢爛さが窺い知れる。とても禅宗寺院のものとは思えない。「新編相模国風土記稿」によれば、仏殿は久能山御宮拝殿、或いは崇源院御霊屋拝殿から旧殿を賜ったとの二説がある。唐門は仏殿と同じく移築である。「鎌倉市史」は前者を採るが、他多くは後者である。以下「徳川実紀」によれば、久能山は当初東照社として建立を計画、元和3年(1617年)東照大権現の神号を得て東照宮として造営された神社なのである。この神社、何故かその基本形は禅宗様である。造替があったのかどうかは不明、従って移築があったのかどうかも不明。崇源院御霊屋の場合は、寛永5年(1628年)法会があったので、その前には建物は出来ていたであろう。その19年後、家光の代になっているが、正保4年(1647年)3月に「三縁山崇源院霊牌所造営成功」とある。建替えがあったのであろう。しかし仏殿には拝殿ではなく本殿が移築されたのであろう。いずれにしても、建長寺とは関係がないが、徳川家の霊廟に何故禅宗様が選ばれたのであろうか。

      

    仏殿

(注)2010年11月撮影

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