函館は大火の多いところだった。函館市消防本部のデータによると、明治は二、四、六、十二、二十九、三十二、四十年と7回、大正は二、五、十年の3回、そして昭和九年(1934)の大火がリストに載る。
明治十二年(1879)の大火で明治天皇の行在所ともなった函館別院が焼失、明治二十三年に現在地で再建したものの、明治四十年(1907)に再焼失した。この時函館町会所も焼失しているが、豪商相馬哲平の寄付を得て、下見板張り木造の擬洋風建築となって明治四十三年(1910)に再建されている。旧函館区公会堂である。
函館別院は耐火建築を目指し、鉄筋コンクリート造として明治四十五年(1912)に起工している。木造でという反対意見を退け、耐火建築を推進したのは、金森合名会社の三代目渡辺熊四郎であった。その当時の檀家総代であった。燃えてもよしとする諦観あるいは保守的な考えとは無縁の、合理性を追求する函館の商人の気概であろうか。設計は尾張の棟梁、九世及び十世伊藤平左衛門、施工は木田保造であった。九世伊藤平左衛門は東本願寺御影堂を明治二十二年(1889)再建している。伊藤平左衛門は進取の気風あり、当時洋風建築に興味を持っていたようである。形は京大工の木子棟斎設計の京都東本願寺阿弥陀堂を模した。初めての鉄筋コンクリート造の阿弥陀堂である。

(注)2016年1月撮影 ⒸKanju
Massive fires have occurred frequently in Hakodate. Burnt Higashi-Honganji to the groud in 1907. Rebuilt by adopting reinforced concrete, indtead of traditional timber construction. But still traditional the form is. Just building materials have changed.
明治十二年(1879)の大火で明治天皇の行在所ともなった函館別院が焼失、明治二十三年に現在地で再建したものの、明治四十年(1907)に再焼失した。この時函館町会所も焼失しているが、豪商相馬哲平の寄付を得て、下見板張り木造の擬洋風建築となって明治四十三年(1910)に再建されている。旧函館区公会堂である。
函館別院は耐火建築を目指し、鉄筋コンクリート造として明治四十五年(1912)に起工している。木造でという反対意見を退け、耐火建築を推進したのは、金森合名会社の三代目渡辺熊四郎であった。その当時の檀家総代であった。燃えてもよしとする諦観あるいは保守的な考えとは無縁の、合理性を追求する函館の商人の気概であろうか。設計は尾張の棟梁、九世及び十世伊藤平左衛門、施工は木田保造であった。九世伊藤平左衛門は東本願寺御影堂を明治二十二年(1889)再建している。伊藤平左衛門は進取の気風あり、当時洋風建築に興味を持っていたようである。形は京大工の木子棟斎設計の京都東本願寺阿弥陀堂を模した。初めての鉄筋コンクリート造の阿弥陀堂である。



(注)2016年1月撮影 ⒸKanju
Massive fires have occurred frequently in Hakodate. Burnt Higashi-Honganji to the groud in 1907. Rebuilt by adopting reinforced concrete, indtead of traditional timber construction. But still traditional the form is. Just building materials have changed.