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一葉一楽

寺社百景

真宗大谷派函館別院 ー 鉄筋コンクリート造の阿弥陀堂

2016-03-31 09:55:53 | 寺院
函館は大火の多いところだった。函館市消防本部のデータによると、明治は二、四、六、十二、二十九、三十二、四十年と7回、大正は二、五、十年の3回、そして昭和九年(1934)の大火がリストに載る。
明治十二年(1879)の大火で明治天皇の行在所ともなった函館別院が焼失、明治二十三年に現在地で再建したものの、明治四十年(1907)に再焼失した。この時函館町会所も焼失しているが、豪商相馬哲平の寄付を得て、下見板張り木造の擬洋風建築となって明治四十三年(1910)に再建されている。旧函館区公会堂である。
函館別院は耐火建築を目指し、鉄筋コンクリート造として明治四十五年(1912)に起工している。木造でという反対意見を退け、耐火建築を推進したのは、金森合名会社の三代目渡辺熊四郎であった。その当時の檀家総代であった。燃えてもよしとする諦観あるいは保守的な考えとは無縁の、合理性を追求する函館の商人の気概であろうか。設計は尾張の棟梁、九世及び十世伊藤平左衛門、施工は木田保造であった。九世伊藤平左衛門は東本願寺御影堂を明治二十二年(1889)再建している。伊藤平左衛門は進取の気風あり、当時洋風建築に興味を持っていたようである。形は京大工の木子棟斎設計の京都東本願寺阿弥陀堂を模した。初めての鉄筋コンクリート造の阿弥陀堂である。


  

(注)2016年1月撮影 ⒸKanju

Massive fires have occurred frequently in Hakodate. Burnt Higashi-Honganji to the groud in 1907. Rebuilt by adopting reinforced concrete, indtead of traditional timber construction. But still traditional the form is. Just building materials have changed.
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正行寺 ー 下見板の寺

2016-03-25 10:03:51 | 寺院
日本最東端にある重要文化財建造物である。その指定説明には「移築にあたって加えられた改造も、北海道の気候風土に合わせていて興味深い。北海道の開拓にともなう建築文化の普及動向を知る上で貴重な存在である」(文化財建造物保存技術協会編著「重要文化財正行寺本堂保存修理工事報告書」2009)。
真宗大谷派は明治以前より、松前藩との関係から道南地方を中心に布教されていた。反対に本願寺派は布教が禁止されていた。明治に入ると、消極的であったようで、政府からの強制で布教は始まる。しかし交通の要地であった厚岸から根室にかけては明治十年(1877)までは大谷派は一寺もなかった。仮説教場が民家を借りて開設されたのは、明治十二年(1879)であった。
明治四十二年(1909)新潟糸魚川の真宗本願寺派満長寺本堂を購入、厚岸に移築した。満長寺本堂は寛政十一年(1799)の建立、江戸後期の一般的な中規模の真宗本堂であった。移築にあたって、北海道仕様に改造された。寒冷地にふさわしく、外縁を内に取り込んで外陣の一部とし、その下屋外壁は押縁のない下見板張りとなっている。糸魚川では雪囲いをしていたのであろうが、厚岸では恒久的な雪囲いである。流石にペイントされていないが、必要性から、北海道では一般的な、旧来の寺院建築にはないイギリス下見とした。




  

(注)2016年2月撮影 ⒸKanju

Shogyo-ji was the first temple as the Otani school of Shin-Buddhism in Akkeshi Hokkaido, transiting port to Chishima at a time in the past. The current main hall was moved from Mancho-ji in Niigata Prefecture and reconstructed to fit to climate in Hokkaido. The outer veranda was planked by western style weatherboards for instance. The need broke down the wall of tradition.
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赤神神社 ー 鬼の社

2016-03-17 09:33:57 | 神社
天和元年(1681)の「赤神山本山縁起」によれば、円仁慈覚大師が貞観二年(860)赤神山日積寺永禅院を創建、赤神権現、赤木明神、眼光鬼、首人鬼、押領鬼が祀られていたこの地に仏教が入ったという。菅江真澄は、文化七年(1810)「牡鹿の嶋風」また「男鹿奴寒風」で「赤神はいと遠きむかしに、もろこし人や斎ひたり」と書き、「渤海、鉄利の人」という。「続日本紀」には神亀四年(727)、以降天平十一年(739)、天平十八年(746)と渤海から出羽国に来着したと記されており、特に天平十八年の項には「渤海人及鉄利惣一千一百余人慕化来朝。安置出羽国給衣糧放還」とあり、蕃神を祀ったというのはあながちあり得ないことではなかろう。しかし社殿があったというわけでもなく、せいぜい祠があった程度であろう。取り込む形で本地佛をあてたといっていいのだろう。(建保四年(1216)五社堂を建立し山王上七社を勧請したとある。五社には本地佛を祀る。天和の頃の別当であろうか、堯範は五社は赤神権現、赤木明神、眼光鬼、首人鬼、押領鬼ではないという。菅江真澄は、文化七年(1810)「牡鹿の嶋風」で十禅寺、赤木明神、阿伽神、二の宮、八王子とする。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財赤神神社五社堂保存修理工事報告書」2002)。しかし今なお鬼伝説はこの地に残る。







(注)2015年11月撮影 ⒸKanju

社殿は正面は入母屋造で、背面は切妻造となっている。正面にのみ意を尽くしている。わざわざ参道の方向を変え、南南東を向くのは何故か。この形式が何時からかはわからないが、赤神権現堂内の逗子は室町後期と言われており、この頃にはこの形式となったのであろうか。


Folklore on "Oni" is still there in Oga area, where the foreign deities worshipped. These indigenous deities were syncretized by Buddhism came later. The five buildings were built according to San-nou Shinto, in each of which enshrines the original Buddhist identity of Shinto deity.
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三輪神社 ー 中央とのつながり

2016-03-01 12:34:36 | 神社
秋田西馬音内の三輪神社は、創建は養老年中(717-724)といい。大和大神神社を勧請したと伝える(重要文化財三輪神社及び境内社須賀神社本殿修理委員会編「重要文化財三輪神社及び境内社須賀神社本殿修理工事報告書」1964)。雄勝は雄物川を通じ出羽柵につながる位置にある。出羽柵を秋田高清水岡に移したのは、「続日本紀」によれば天平五年(733)、同時に雄勝郡を置いている。海路主体であったと推定されるが、多賀城からの陸路開発を大野東人が天平九年(737)に試み、天平宝字三年(759)に至ってようやく藤原恵美朝獦により雄勝柵が置かれた。柵戸は北陸や坂東からの移住であった。中央からと考えられるのは、奈良麻呂の乱に加担した民の移住である。柵戸による神社創建は、したがって、考えにくく、国土開拓と意志を持った人々が関わったのであろう。

社殿が三棟南面し並列する。いずれも三間社であるが、三輪神社は流造、須賀神社は入母屋で妻入、八幡神社は入母屋で平入と三社三様である。
八幡神社は佐竹義処を檀那、番匠は西馬音内と地元で、延宝六年の造営である。八幡神は源氏佐竹氏の氏神であり、このときが創建であろう。
須賀神社、今は祭神を素戔嗚命とするが、長く蔵王権現とされていた。正保四年(1647)の棟札には蔵王権現の本地仏を載せる。圧縮された唐破風を向拝とするが、仏堂の雰囲気である。檀那は佐竹義隆、大工は奈良彦左エ右衛門、佐竹氏に仕えた番匠であろう。
三輪神社は前室付社殿で、今は前室は塞がれ外陣を広くとるが、当初再建時は吹き抜けであったようである。前室付流造は近江から若狭にかけ多く見られ、開放型は湖東に顕著に見られる(滋賀文化財保護協会「滋賀文化財だより No.162」1989.3)。菅江真澄「雪の出羽路」には、文禄年間(1593-96)に焼亡したあと、藤原秀衡の後裔小野寺義道による再建とある。小野寺氏は室町幕府の御伽衆で中央とのつながりはあったが、近江とは疑問である。福井出身の別当職がいた別当寺の吉祥院が関与したのでは推定される。また秋田から若狭小浜に杉材を送ったこともあった。建築様式が若狭から流れたということもあったかも知れない。




 三輪神社

鐘楼 須賀神社  八幡神社

(注)2015年11月撮影 ⒸKanju

Each of the three shrines has its own style
Three shrine bbuildings are arranged in parallel, and each has its own style. However, no given style for three deities.
They were made at the behest of the powerful feudral lords at that time. Two of three, Suga-jinja and Hachiman-jinja, were constructed by master carpenters who belonged the local lords in the early Edo period.
But main hall of Miwa-jinja was rebuilt in the late Muromachi period, which style has no provincialism. The style is dominant in Shiga prefecture. It seems that the style might be transfered from Shiga prefecture through Wakasa. The trade between two area was there such as building materials, cedar.
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