前田光高が金沢城内に東照宮を造営したのは、寛永二十年(1643)であるが、その後岡山、広島、鳥取と外様雄藩の東照宮勧進が続く。徳川家光の東照大権現への傾倒に対する迎合であり、徳川幕府への忠誠の表明である。典型的な例は、今はないが、福岡黒田藩の荒戸山東照宮であろうか(承応元年、1652年造営)。
慶長六年(1601)から始まった伊達政宗による仙台城および城下造営は慶長十六年(1610)にほぼ終わる。忠宗の代となり二ノ丸を完成させたのは寛永十五年(1638)、泰平の世となり、仙台城は山城から平山城に変わった。東照宮造営を請願したのは慶安三年(1650)、完成は承応三年(1654)である。
(注)1963年10月撮影
他藩と同様、拝・幣殿+独立本殿といった木原木工允義久設計を踏襲している。拝・幣殿は昭和十年(1935)に焼失(手水舎に痕跡が残る)。本殿前の中門は、平唐門ではなく向唐門と、また各所に、棟梁の梅村彦作之三の、嘗つて豊臣家御抱え大工であった梅村一門の伝統、桃山の気風が出ている。尤も華麗・豪壮というよりは、洗練された、といったほうがいいかもしれない。同時代の、幕府主導の仙波、滝山・鳳来山や他藩、金沢・岡山・鳥取といった所の東照宮とは一線を意識し画しているようである。(参照:石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室編「金沢東照宮(尾崎神社)の研究」2006年3月)
(注)2014年5月撮影
「奥羽観蹟聞老志」によれば、勧進の意図は「治府」にあるという。わざわざ菅原道真の「菅神廟」(「封内風土記」では「天神宮」と呼ぶ)を遷しての造営である。門前町、宮町を造成、城下町の東への展開の軸線としている。城下町拡大への、「東照宮」の積極的利用である。
慶長六年(1601)から始まった伊達政宗による仙台城および城下造営は慶長十六年(1610)にほぼ終わる。忠宗の代となり二ノ丸を完成させたのは寛永十五年(1638)、泰平の世となり、仙台城は山城から平山城に変わった。東照宮造営を請願したのは慶安三年(1650)、完成は承応三年(1654)である。
(注)1963年10月撮影
他藩と同様、拝・幣殿+独立本殿といった木原木工允義久設計を踏襲している。拝・幣殿は昭和十年(1935)に焼失(手水舎に痕跡が残る)。本殿前の中門は、平唐門ではなく向唐門と、また各所に、棟梁の梅村彦作之三の、嘗つて豊臣家御抱え大工であった梅村一門の伝統、桃山の気風が出ている。尤も華麗・豪壮というよりは、洗練された、といったほうがいいかもしれない。同時代の、幕府主導の仙波、滝山・鳳来山や他藩、金沢・岡山・鳥取といった所の東照宮とは一線を意識し画しているようである。(参照:石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室編「金沢東照宮(尾崎神社)の研究」2006年3月)
(注)2014年5月撮影
「奥羽観蹟聞老志」によれば、勧進の意図は「治府」にあるという。わざわざ菅原道真の「菅神廟」(「封内風土記」では「天神宮」と呼ぶ)を遷しての造営である。門前町、宮町を造成、城下町の東への展開の軸線としている。城下町拡大への、「東照宮」の積極的利用である。