一葉一楽

寺社百景

仙台東照宮 ー 政治的建造物

2014-07-31 10:47:32 | 神社
前田光高が金沢城内に東照宮を造営したのは、寛永二十年(1643)であるが、その後岡山、広島、鳥取と外様雄藩の東照宮勧進が続く。徳川家光の東照大権現への傾倒に対する迎合であり、徳川幕府への忠誠の表明である。典型的な例は、今はないが、福岡黒田藩の荒戸山東照宮であろうか(承応元年、1652年造営)。
慶長六年(1601)から始まった伊達政宗による仙台城および城下造営は慶長十六年(1610)にほぼ終わる。忠宗の代となり二ノ丸を完成させたのは寛永十五年(1638)、泰平の世となり、仙台城は山城から平山城に変わった。東照宮造営を請願したのは慶安三年(1650)、完成は承応三年(1654)である。


     
(注)1963年10月撮影

他藩と同様、拝・幣殿+独立本殿といった木原木工允義久設計を踏襲している。拝・幣殿は昭和十年(1935)に焼失(手水舎に痕跡が残る)。本殿前の中門は、平唐門ではなく向唐門と、また各所に、棟梁の梅村彦作之三の、嘗つて豊臣家御抱え大工であった梅村一門の伝統、桃山の気風が出ている。尤も華麗・豪壮というよりは、洗練された、といったほうがいいかもしれない。同時代の、幕府主導の仙波、滝山・鳳来山や他藩、金沢・岡山・鳥取といった所の東照宮とは一線を意識し画しているようである。(参照:石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室編「金沢東照宮(尾崎神社)の研究」2006年3月)




(注)2014年5月撮影

「奥羽観蹟聞老志」によれば、勧進の意図は「治府」にあるという。わざわざ菅原道真の「菅神廟」(「封内風土記」では「天神宮」と呼ぶ)を遷しての造営である。門前町、宮町を造成、城下町の東への展開の軸線としている。城下町拡大への、「東照宮」の積極的利用である。

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陸奥国分寺 ー 草堂一宇

2014-07-17 12:48:50 | 寺院
「宮城野の萩の名に立本荒の里はいつより荒れ始めけむ
・・・この所は昔の人住みけるを、今はさながら野ら藪になりて、草堂一宇より外は見えず」と、宗久の「都のつと」にある(新日本古典文学大系 岩波書店 1990年)。観応年間(1350-52年)のことである。この草堂一宇は陸奥国分寺を指すと解釈されているが、現国分寺には、鎌倉時代前期の作とされている十二神将像、不動明王・毘沙門立像が遺存しているが、何処に安置されていたのであろうか。享保二年(1717年)に書かれた「国分寺縁起」には草堂に秘仏薬師如来と白山神社の神体を安置したと書かれているが。

仁王門 薬師堂白山神社
(注)1963年10月撮影

今の国分寺は、天正年間(①573-92年)この地を領有していた国分氏、国分盛重(伊達晴宗の子、政宗の叔父)再建から始まる。現薬師堂の前身、仁王門等であろう。「封内風土記」(田辺希文編 明和九年(1772)完成)には、そこに薬師脇持菩薩及十二神将を安置したとある。現薬師堂は棟札によれば、盛重が伊達家を出奔した後、白山神社とともに、慶長十二年(1607)政宗の造営である。簡素、鄙びた雰囲気の仁王門とは対照的に重厚さが目立つ。大工は泉州駿河守宗次とある。政宗にとっては上方からの技術導入が重要だったのであろう。城下町としての仙台というよりは、奥州の都を建設するという意図があったのかもしれない。
 仁王門
  薬師堂
 鐘楼 
 白山神社
 准胝観音堂
(注)2014年5月撮影
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高蔵寺(角田) ー山間の阿弥陀堂

2014-07-08 10:15:02 | 寺院
「和名抄」陸奥国に伊具郡の名がある。その郡衙は阿武隈川沿いにあった。二、三の苑池をもった阿弥陀堂が、その周辺にあったことが知られている。しかし高蔵寺は山間に入ったところに、今も残る。「奥羽観蹟聞老志」に載る棟札写によれば、藤原氏、安部氏、鳥取氏、上野氏等々土着化したと思われる官吏が寄進し伽藍を建立、他の寺院が跡かたもなくなる中、御堂とよばれ、中世には北沢氏、近世には石川氏とその時の統治者の庇護を得て、平安末期の姿を残す。「吾妻鏡」に藤原清衡が白河関から青森外浜まで阿弥陀像が描かれた笠率都婆を立てたとあり、奥州は阿弥陀信仰に覆われていたといえよう。伊具郡もその影響下にあった。
    

(注)2014年5月撮影

 高蔵寺への仏像の寄進者は棟札写によれば、必ずしも本尊の阿弥陀像ということではない、藤原秀衡の妻とある。正室の藤原基成の娘の可能性もあるが、伊具郡の在地豪族藤原氏の出というのが無難であろう。いずれにしても奥州藤原氏の関係者ということである。同じく藤原清衡とも基衡の娘と云われている岩城則道の妻徳尼が建立した白水阿弥陀堂との比較が面白いのではなかろうか。 平面図上の寸法は白水阿弥陀堂が31.03尺、高蔵寺阿弥陀堂が30.685尺とほぼ同じだが、見た印象は全く異なる。屋根である。高蔵寺阿弥陀堂は茅葺で「むくり屋根」に、白水阿弥陀堂は栩葺で、明治35年(1902)当時は茅葺、「てり屋根」に見える。高蔵寺阿弥陀堂は大正二年(1913)の修理で小屋組が変更され、治承元年(1177)創建時の姿は分からないが。周囲の環境から、白水阿弥陀堂は視角を小さくすることができるが、高蔵寺阿弥陀堂は木に囲まれた上に、山腹にあり、常に見上げることになる。また高蔵寺阿弥陀堂は平成十四年(2002)の屋根葺き替え時、屋垂みを付けなかったことも、「むくり屋根」が目立つようになったのかもしれない。解体修理時の方針が印象を左右していると云える。いずれにしても、都ぶりと鄙ぶりと、奥州藤原氏関連とはいえ印象の差がある。
(参照:文化財建造物保存技術協会編「重要文化財高蔵寺阿弥陀堂保存修理工事報告書」2003年10月)        

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