一葉一楽

寺社百景

明通寺 ー 縁起の目的

2014-03-31 15:53:10 | 寺院

明通寺は山間にある。かといって山奥ではない、嘗ての若狭国府からさほど離れてはいない。山内に阿弥陀堂・潅頂堂・護摩堂・法華堂等々あった(元禄六年頃(1693年)刊行された牧田近俊「若狭郡懸志」による)山岳寺院といってよいのだが、仁王門を通る東西の軸線と、三重塔・本堂とはズレがある。地形に合わせた伽藍配置とは言い切れない。数多くの子院は、伽藍のある枝尾根の南北の谷沿いにあったそうだから、本堂へのアプローチは今とは違っていたのかもしれない。

                

                     仁王門

「明通寺縁起写」(「福井県史資料編」福井県 1990年9月)に、これら三重塔・本堂、それぞれ文永七年(1270年)、文永二年(1265年)再建されたと記す。この「縁起」応永七年(1374年)に書写されたものだが、原本は三重塔再建後すぐに書かれたようである。道教的な伝承から始まる。そして坂上田村麻呂が伽藍建立と云う。田村麻呂は「公卿補任」弘仁二年条に「毘沙門化身。来護我国云々」と書かれているように、鎮護国家、異国降伏の象徴であった。文永五年(1268年)蒙古の意を受けて高麗の使節が来日、元の恐怖が現実化し始める。朝廷は二十二社に異国降伏の加持祈祷を命じ、また東寺も始めている。明応九年(1500年)、当時の若狭国守護であった武田氏への陳情書「明通寺衆徒等言上」にも嘗て「異国降伏祈念御教書等、自関東被成下候」と誇る。この「縁起」の目的は、或いは三重塔・本堂再興の目的が、異国降伏にあったのであろう。

              

          

                      本堂

              

              

                     三重塔

(注)2013年11月撮影

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羽賀寺 ー 奥州十三湊繁栄の痕跡

2014-03-15 21:10:56 | 寺院

平成25年(2013)9月の台風18号は幸いにして、天暦元年(947)「大雨傾盆�疲山擘埋谷。堂閣翻然悉没泥中」(「羽賀寺縁起」 群書類従)とまではならなかったものの、本堂床下まで土砂が流入したそうである。その本堂は昭和41年(1966)の修理までは、吹き抜けの外陣で、羽賀寺に小学校があった頃子供の遊び場であったそうである。何時吹き抜けとなったのかは分からないが、現状は文安四年(1447年)再建当時の姿を復元したものである(「重要文化財羽賀寺本堂修理工事報告書」 1968年)。創建当初は「真言の門」、建武の末(1334-1336年)には「台宗代りて営興に務む」、現在の本堂が再建されて宝徳二年(1450年)「再び真言の門を開く」ではあるが「猶ほ青蓮院に属するがごとし」とある。再建時、また元禄、そして文政の大規模修理には青蓮院の意向が反映されているのかも知れない。

                  

                  

                     

                     

 

(注)2013年11月撮影

「羽賀寺縁起」によれば、「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」が再興とある。康季が「文武該達、仏乗献忠、惜名者也」であるので、「帝下勅賜寺於康季家」とある。後陽成天皇の奥書のある誠仁親王の親筆、別本(群書類従)には「捧加莫大之貨銭」とある。三河・若狭・丹後、そして山城の四カ国の守護である一色義貫ではなく、日本海交易で繁栄していた十三湊を拠点にした安藤水軍の棟梁に、勅を下した。安倍康季、永享十一年(1439年)南部氏に追われ蝦夷地に、そして本尊遷座の文安四年(1447年)の前年に、失地回復のため、津軽に出兵したものの陣没、完成をみることはなかった。しかし羽賀寺は「自是作安倍崇祠。勅願之外務願」となる。一方十三湊は南部氏により、焼かれ、また岩木川の土砂流入で湊として機能果たせず、砂の下になった。(参照 国立歴史民俗博物館編「中世都市十三湊と安藤氏」 新人物往来社 1994年)。

         

                          十三湖

(注)1966年9月撮影

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