明通寺は山間にある。かといって山奥ではない、嘗ての若狭国府からさほど離れてはいない。山内に阿弥陀堂・潅頂堂・護摩堂・法華堂等々あった(元禄六年頃(1693年)刊行された牧田近俊「若狭郡懸志」による)山岳寺院といってよいのだが、仁王門を通る東西の軸線と、三重塔・本堂とはズレがある。地形に合わせた伽藍配置とは言い切れない。数多くの子院は、伽藍のある枝尾根の南北の谷沿いにあったそうだから、本堂へのアプローチは今とは違っていたのかもしれない。
仁王門
「明通寺縁起写」(「福井県史資料編」福井県 1990年9月)に、これら三重塔・本堂、それぞれ文永七年(1270年)、文永二年(1265年)再建されたと記す。この「縁起」応永七年(1374年)に書写されたものだが、原本は三重塔再建後すぐに書かれたようである。道教的な伝承から始まる。そして坂上田村麻呂が伽藍建立と云う。田村麻呂は「公卿補任」弘仁二年条に「毘沙門化身。来護我国云々」と書かれているように、鎮護国家、異国降伏の象徴であった。文永五年(1268年)蒙古の意を受けて高麗の使節が来日、元の恐怖が現実化し始める。朝廷は二十二社に異国降伏の加持祈祷を命じ、また東寺も始めている。明応九年(1500年)、当時の若狭国守護であった武田氏への陳情書「明通寺衆徒等言上」にも嘗て「異国降伏祈念御教書等、自関東被成下候」と誇る。この「縁起」の目的は、或いは三重塔・本堂再興の目的が、異国降伏にあったのであろう。
本堂
三重塔
(注)2013年11月撮影