藤原義一の「日本古建築図録」(星野書店 1947)に昭和7年(1932)、修理前であるが、著者が撮った写真が載っている。前・背面の扉はとれ、来迎壁はなく、堂の前方に民家まで見える。当然別な所に保管されているのか、阿弥陀三尊像も法燈国師像も見当たらない。大正九年(1920)法堂の焼失は、無宿者の失火せあった。実質的にこの時安国寺は無住であった。「備陽六郡志」によれば、無住となったときが過去にも何回かあったようである。毛利輝元・安国寺恵瓊により再興された時は「釈迦堂計残して寺は断絶したりける」状態であった。権力によって安国寺となった寺院にとり、権力が衰退すれば当然のことかもしれない。
現在釈迦堂には阿弥陀三尊像(文永十一年(1274))の他、「備陽六郡志」には釈迦三尊像とあるが、法燈国師像(建治元年(1975))があり、釈迦堂はこの時の造営と思わせる。また脇壇には安国寺となった時の開山、愚谷和尚の座像が残る。安国寺は法燈国師創建の金宝寺を転用したのであろう。
従って法燈国師抜きの釈迦堂は考えられない。紀州から備後、中国地方への法燈派布教の拠点として、金宝寺は建立されたものとして考えてよいだろう。釈迦堂には紀州の番匠が関与したのであろう、燧梁にその名残が残る。(山岸常人「塔と仏堂の旅」朝日新聞社 2005)。
(注)2016年10月撮影 ⒸKanju
現在釈迦堂には阿弥陀三尊像(文永十一年(1274))の他、「備陽六郡志」には釈迦三尊像とあるが、法燈国師像(建治元年(1975))があり、釈迦堂はこの時の造営と思わせる。また脇壇には安国寺となった時の開山、愚谷和尚の座像が残る。安国寺は法燈国師創建の金宝寺を転用したのであろう。
従って法燈国師抜きの釈迦堂は考えられない。紀州から備後、中国地方への法燈派布教の拠点として、金宝寺は建立されたものとして考えてよいだろう。釈迦堂には紀州の番匠が関与したのであろう、燧梁にその名残が残る。(山岸常人「塔と仏堂の旅」朝日新聞社 2005)。
(注)2016年10月撮影 ⒸKanju