ここで国家とは、甲斐国、武田氏を意味する。「甲斐国社記・寺記」には窪八幡神社は甲斐国惣鎮守と称する。甲斐には今一社甲斐惣社と称する神社、府中八幡宮がある。その祭神は所謂八幡三神で、本殿は三間社であったようである。窪八幡神社では八幡三神の内、現在比咩三神は末社として池の中島に祀られている。もともとは本殿に合祀されていたとの伝承もあるが、天文二十二年(1553)の古図には弁財天とある(「山梨県史 文化財編」山梨県 1999)。比咩神の代わりに仲哀天皇を祀るのは武田八幡宮でも同じである。地主神?が相殿されているが。
拝殿(庁屋)
本殿
若宮八幡神社
竹内大神
高良神社
比咩三神
(注)2016年12月撮影
窪八幡神社は「甲斐国志」によれば、貞観元年(859)宇佐八幡宮を勧請したとある。同年石清水八幡宮も宇佐八幡を勧請している。宇佐八幡宮は三間社が三棟並列、石清水八幡宮は十一間社の双堂式であるが、内部に三間社を三棟、間に単なる空間を造り合いとして置き、連続し並べる。窪八幡神社は双堂式ではないもの、宇佐・石清水の両八幡宮を強く意識しているのであろう、流造の屋根の下に三棟並列の八幡宮の正規の形式を継承する。しかし造り合い、合いの間は屋根裏まで吹き抜けの土間とし、独創的である。
窪八幡神社創建時の堂舎の形は不明、現在の堂舎は応永十七年(1410)武田信満の再建である。(「重要文化財窪八幡神社修理工事報告書」重要文化財窪八幡神社修理委員会 1957.12)
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(注)2016年12月撮影
窪八幡神社は「甲斐国志」によれば、貞観元年(859)宇佐八幡宮を勧請したとある。同年石清水八幡宮も宇佐八幡を勧請している。宇佐八幡宮は三間社が三棟並列、石清水八幡宮は十一間社の双堂式であるが、内部に三間社を三棟、間に単なる空間を造り合いとして置き、連続し並べる。窪八幡神社は双堂式ではないもの、宇佐・石清水の両八幡宮を強く意識しているのであろう、流造の屋根の下に三棟並列の八幡宮の正規の形式を継承する。しかし造り合い、合いの間は屋根裏まで吹き抜けの土間とし、独創的である。
窪八幡神社創建時の堂舎の形は不明、現在の堂舎は応永十七年(1410)武田信満の再建である。(「重要文化財窪八幡神社修理工事報告書」重要文化財窪八幡神社修理委員会 1957.12)