一葉一楽

寺社百景

中禅寺 ー 里のお堂

2015-01-30 14:02:12 | 寺院
何時の頃か不明だが、山の上から現位置に移ったという。現薬師堂に解体の痕跡はなく、現位置で建立されたのであろう。永享年中(1429-1441)に、薬師堂を除いて焼失したようであるが、他にどの様な堂舎があったのか分からない(長野県小縣郡役所「小縣郡史」1923)。造営は塩田庄が最勝光院領の時と推定されるが(「吾妻鏡」)、武家政権が始動、地方が声を出し始めた頃といってもいいだろう。方三間の小振りな仏堂が各地に作られ、寺院が民衆の身近になった。
側柱12本のうち、大面取りの角柱のなかで、背面の1本は円柱である。昭和二十七年(1952)の解体修理の際、4本あった円柱のうち3本を角柱に取り替えた。四天柱の円柱4本も含め、円柱は当初材と推定されるそうだ(「重要文化財中禅寺薬師堂修理工事報告書」重要文化財中禅寺薬師堂修理委員会編 1953)。四天柱用だと考えると、いろいろな推測が可能となる。


 仁王門

   薬師堂

室町から江戸時代にかけて何回かの修理があったようだが、享保十九年(1734)は解体に近い、前山村あげての大修理であったようだ。薬師如来坐像の台座蓮弁は薬として切り取られたとのこと、まさに村のお堂、薬師堂である。

(注)2014年10月撮影


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前山寺 ー 視線の先

2015-01-18 20:37:57 | 寺院
門を入って正面に見えるのは、未完成と云われる三重塔である。大日如来を本尊として安置する本堂は左手、南面する。
元弘年間(1331-1333)長秀上人再興と云われるが、実質創建であろう。塩田北条氏が滅亡したのは元弘三年(1333)で、関与したとするのは難しいのではなかろうか。大壇越は福沢氏であった。二世祐俊上人が伽藍を整備したと伝える。三重塔があったのか否かは分からない。塩田城に入ったのは、村上氏の代官、福沢氏である。武田信玄により落城するのは天文二十二年(1553)である。三重塔の再建は永正十一年(1514)と伝えられている。
ここでは、伽藍の中心は塔である。大日如来と書かれた扁額を二層目に掲げ、1層目には金剛界の四仏の名号の扁額を掲げる。もっとも智積院末となった貞享年中(1684-1687)に扁額が掲げられた可能性があるが、完成した塔とし、根本大塔に倣ったのか。


   三重塔

 本堂

(注)2014年10月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北口本宮富士浅間神社 ー 本殿三代

2015-01-16 13:44:53 | 神社
甲斐国に浅間明神を祀ったのは、「日本三代実録」貞観七年(865)十二月の条に「勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝禰宜。随時致祭」とあり、この時であろう。しかし、これは「北口本宮富士浅間神社」のことではない。「甲斐国志」では二社候補を挙げる。「小室浅間明神」であり、河口の「富士浅間神社」である。
「北口本宮富士浅間神社」はこのうち「小室浅間明神」を勧請した。その社殿が現在の「東宮本殿」である。永禄四年(1561)武田信玄造営とのことである。


   東宮本殿

西宮本殿は文禄三年(1594)、当時の谷村城主の浅野氏重造営である。

  西宮本殿

現本殿は元和元年(1615)鳥居成次の造営だが、この前に鳥居成次は富士御室浅間神社の本宮(山宮)本殿を慶長十七年(1612)に造営している。

 拝殿  本殿

それぞれの世代の本殿を残し、三代が並立する形となっている。初代は武田氏が小山田氏を支配下においた時、次代は豊臣政権下、そして徳川政権下となる。前代より大型化、且つ装飾も華麗になっている。明らかに前代を凌駕することを意図しているようである。破却することなく並立させている。前代を否定してはいない。それぞれの世代が御師の取り込みを図ってのことか。

(注)2014年11月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山本宮浅間大社 ー 飾りとしての高さ

2015-01-12 20:49:14 | 神社
「日本の建築的空間の特徴の一つは水平線志向」であると、加藤周一は言う(「日本文化における時間と空間」岩波書店 2007)。浅間大社はその本殿を重層とし、高さを志向したように見える。文久元年(1861)刊の「駿河志料」に「当社の神殿は内陣の上に楼閣あり、・・・貞観六年(864)、神造の社宮ニ重高閣とあるに依れる制作なり」とある。「日本三代実録」貞観七年十二月九日の条に、「中有一重高閣、以石構営、彩色美麗」とあるのを指しているのであろう。なお「国府浅間神社」の条に「此神造の社宮とあるは自然になれる物にて、甲斐国河口浅間の社地に石の形をなせる也」。少々小さいが美麗石のことであろうか。
本殿・拝殿そして楼門は慶長九年(1604)徳川家康による造営と云われている。現在本殿棟紋は「菊」の御紋となっているが、寛文十年(1670)の「浅間大社境内絵図」によれば、「葵」とともに「棕櫚」の紋が描かれている。「棕櫚」は富士氏の家紋である。富士氏は浅間大社の宮司であると同時に、この地域の領主でもあった。本殿を重層としたのは、「日本三代実録」に依ったというのも、否定は出来ないが、富士氏の領主としての矜持を表現したと考えられないだろうか。この時代から鑑んがみると、天守閣に倣ったのでは。


 

  

なお現在は両下造の幣殿で、複合社殿となっているが、寛文十年(1670)の絵図では、本殿と拝殿の間は繋がっていない。宝暦七年(1757)、社殿大破のため修理したとある(「宝暦集成絲綸録」)。現在の構成となったのは、この時であろうか。

(注)2014年10月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする