中津宮本殿は永禄九年十二月(1566)大宮司氏貞が造営した。氏貞は庶子と猶子との間の家督相続を制し大宮司八十代(七十九代?)となった。造営に先立って氏貞は官位の沙汰を乞い、永禄八年(1568)吉田兼右から「中納言は往古より不審、傍例に委すべき」との回答で、宗像氏本流であること表す「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」を名乗ることになる。本流最後の当主の誕生である。
中津宮本殿の鰹木は、吉田神社大元宮の鰹木を模した形をとる。大元宮の祭神は宇宙の根元神であるとする虚無太元尊神である。宗像三女神も吉田神道に組み込まれたことの象徴であろうが、中津宮本殿が向き、海上の参道を通して先にある、天正五年(1577)造営の辺津宮本殿ではその置札に「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」と書くものの、中津宮本殿の形は模すが、鰹木は大元宮のそれを採らない。
吉田神社大元宮
(注)2023年5月撮影
中津宮本殿の鰹木は、吉田神社大元宮の鰹木を模した形をとる。大元宮の祭神は宇宙の根元神であるとする虚無太元尊神である。宗像三女神も吉田神道に組み込まれたことの象徴であろうが、中津宮本殿が向き、海上の参道を通して先にある、天正五年(1577)造営の辺津宮本殿ではその置札に「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」と書くものの、中津宮本殿の形は模すが、鰹木は大元宮のそれを採らない。
吉田神社大元宮
(注)2023年5月撮影