一葉一楽

寺社百景

相国寺 ー 七重の大塔

2018-05-02 10:32:15 | 寺院
足利義満が「吾新欲建小寺」と相国寺建立を思い立ったのは永徳二年(1382)であり、「金殿玉堂、朱楼宝閣。周垣廿余町也」(「相国寺供養記」)と完成したのは、明徳三年(1392)である。(浜中邦弘・永野智子編「相国寺史料編年集成」 同志社大学歴史資料館館報第15号(2011))。この時開基の義満の塔所である鹿苑院には三重塔、そして本寺相国寺にも大塔がその基礎を固めていた。この大塔の供養は相国寺伽藍の再建後の応永六年(1399)であった。高さ360尺、109mであった。
この大塔は応永十年(1403)落雷により焼失。翌十一年には場所を変え、北山第で立柱。幕府というよりは、権力、権威、そして日明貿易からの利潤といった財力を掌中にした義満が造営というのに近い。義満没後(応永十五年)の応永二十三年(1416)またも落雷のため焼失。「看聞日記」には「造営未終功之処又焼失」とある。続けて「相国寺被遷可被建立之由」と、義持により、元の位置での造営が始まる。
応仁元年(1467)山名方の攻撃で相国寺伽藍焼失、一面焼野原のなかに、この七重大塔は残る。文明二年(1470)またも落雷で焼失し、この後再建されることはなかった。
今の相国寺には経蔵として使われている宝塔のみが残る。もっとも安永九年(1780)刊行の都名所図会には、天明八年(1788)に焼失した、後水尾上皇寄進の三重塔が描かれている。また徳川家康が改易した小早川秀秋の余米を寄進し造営した三門もこの時焼失している。残ったのは、豊臣秀頼寄進の法堂である。
焼失しても再建し伽藍を保持してきた。相国寺の場合には「権威」と「権力」の後ろ盾が必要であったようである。無くなった時、跡地だけが残る。


 宝塔(経蔵)

 勅使門   浴室

    法堂

 三門跡  仏殿跡

(注)2017年12月撮影
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