一葉一楽

寺社百景

津島神社 ー 軸線と動線

2014-12-22 09:50:52 | 神社
尾張造は南北を軸線に社殿を配置する。南北の軸線上に南門はあるが、楼門は東門とも云うべき位置にあり、津島湊からの入り口にふさわしい。楼門は豊臣秀吉の寄進で、墨書によれば天正十九年(1591)、また南門は秀頼寄進で、慶長三年(1598)造営である。楼門の造営された天正十九年には諸社殿の修理が行われており、多分この動線が確立されたのであろう(「津島市史 資料編(ニ)」津島市史編纂委員会 1972.3)。しかし楼門は拝殿の側面にぶつかり、その前面には出ず、動線としては完結していない。あくまで軸線を基調とすることに変わりはない。「牛頭天王島渡り祭文」によれば、牛頭天王と八王子は先ず伊勢に上陸、八王子を伊勢に残し、天王は津島に渡ったとある。軸線はこの伊勢の方向なのであろうか。

  楼門

 南門

張州府志に蕃塀は描かれていない。東海道名所図会、尾張名所図会では存在する。宝暦二年(1752)以降寛政九年(1797)以前の造営であろう。伊勢との関係はあるのだろうか。

 蕃塀

拝殿は慶安二年(1649)、祭文殿、廻廊は文政期(1823-1825)の造営である。本殿は三間社流造、棟札には、「奉造立牛頭天王社」とあり、松平忠吉妻女が願主となり、慶長十年(1605)、地元、津島・清須の大工による造営である。尾張造の成立はここからは分からない。
本殿を囲む透垣の中に人の入る祭文殿をおく。加えて廻廊、拝殿と参拝者中心と尾張造はなっていることから、成立は近世になってからか。


 拝殿

 廻廊

  本殿

   摂末社

(注)2014年9月撮影
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当麻寺(2) ー 軸線の行方

2014-12-02 13:49:21 | 寺院
当麻寺には南北と東西の二つの軸線がある。一つは金堂の弥勒菩薩であり、今一つは本堂の当麻曼荼羅、阿弥陀三尊である。鎮護国家、そして浄土信仰である。曼荼羅堂が本堂になった時、鎌倉中期であろうが、国家から個人にと転換したともいえよう。
治承四年(1180)兵火で、金堂は講堂焼失の影響を受け、安置する仏像にも被害を蒙った。金堂は寿永三年(1184)再建、講堂は乾元二年(1302)に再建された。共に今の本瓦葺ではなく、流板葺であったようだ(近藤豊「古寺巡礼奈良 当麻寺」淡交社 1979)。あくまで旧規に則った弥勒菩薩像の再興であり、先ずは安置する堂舎の確保であったのであろう。


  金堂
  講堂

当麻曼荼羅を安置する本堂は、永暦二年(1161)の改築である。その二次前身堂は曼荼羅を祀るため、二棟の一次前身堂の古材を使用し、平安初期に建てた。その下には鉄剣等々の鉄製品を含む副葬品が出土した古墳があったとのことである(「国宝当麻寺本堂修理工事報告書」奈良県教育委員会 1960)。前庇を設け、礼堂と改築しと、参拝者が念頭にある。すでに実効的に軸線は替わっていたのであろう。

本堂

二つの軸線を無視し、現在では伽藍から離れた所にあるのが、薬師堂である。主要堂舎が奈良から平安にかけての造営であるのに対し、棟木下端墨書銘によれば、文永四年(1447)の建立である。しかも、天井も張らず、廻縁のままと未完成である。銘には「満寺衆徒幷万民等」とあり、来世ではなく現世の利益を追求する、信徒の浄財によるものらしい。途中で費用が足りなり、これでよしとしたのであろうか(「重要文化財当麻寺薬師堂修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所 1978)。

  薬師堂
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