古四王神社は新潟から秋田までの日本海沿いまた日本海に注ぐ川沿いに分布する。分霊もあり創建時期にばらつきもある。古くは兵士として、或いは柵戸として移ってきた人々、また近くは敗走してきた人々によって祀られたという仮説が成り立つような分布である。
大曲の古四王神社は菅江真澄の「月出羽路」に「田中に座り、・・・、斎主富樫刑部左衛門」とあるのみである。この富樫氏は南北朝の動乱時、加賀から、雄物川流域の神宮寺に敗走してきたという。その地に氏神である白山権現を勧請した。その子孫は元亀元年(1570)大曲高畑村に移り孔雀城を築いた。この時に古四王神社も造営したといわれている。この地方に白山神社は少ないとはいえないのにも拘らず、何故か古四王神社なのである。
斗栱に、「古川村大工甚兵衛」と墨書があるとのことであるが、甚兵衛は飛驒の大工で彫った鯉が逃げ出したのを探し諸国を廻ったと伝わる。その斗栱の形状は「奇抜で他に例を見ない意匠」と言わしめている(文化財建造物保存技術協会編著「重要文化財古四王神社本殿保存修理工事報告書」2003)。組物を意匠とし、和様をベースにしていながら、様々な様式を取り込む。甚兵衛には「様式の区別は意図の外にあった」と云える(藤原義一「日本古建築図録」)。
(注)2016年11月撮影
飛騨は都に近すぎ「意図」を実現できなかったのであろうか。飛騨古川を流れる宮川は神通川となって日本海に注ぐ。
大曲の古四王神社は菅江真澄の「月出羽路」に「田中に座り、・・・、斎主富樫刑部左衛門」とあるのみである。この富樫氏は南北朝の動乱時、加賀から、雄物川流域の神宮寺に敗走してきたという。その地に氏神である白山権現を勧請した。その子孫は元亀元年(1570)大曲高畑村に移り孔雀城を築いた。この時に古四王神社も造営したといわれている。この地方に白山神社は少ないとはいえないのにも拘らず、何故か古四王神社なのである。
斗栱に、「古川村大工甚兵衛」と墨書があるとのことであるが、甚兵衛は飛驒の大工で彫った鯉が逃げ出したのを探し諸国を廻ったと伝わる。その斗栱の形状は「奇抜で他に例を見ない意匠」と言わしめている(文化財建造物保存技術協会編著「重要文化財古四王神社本殿保存修理工事報告書」2003)。組物を意匠とし、和様をベースにしていながら、様々な様式を取り込む。甚兵衛には「様式の区別は意図の外にあった」と云える(藤原義一「日本古建築図録」)。
(注)2016年11月撮影
飛騨は都に近すぎ「意図」を実現できなかったのであろうか。飛騨古川を流れる宮川は神通川となって日本海に注ぐ。