秩父街道或いは高麗川から「北ノ方へ入リシ谷間虎秀川ト云ヘル小流ニ添ヒテ住シ・・・」と「新編武蔵風土記稿」は虎秀村を描く。この虎秀川には今も蛍が生息するようだ。阿弥陀堂は川へと落ち込む山の斜面に立つ。あたかも村持ちの阿弥陀堂のように。
寄棟造・茅葺を宝形造・茅葺型銅版葺に、また柱間装置を復旧し、切目縁を設けたのは昭和三十一年(1956)である。鎌倉中期(本尊鉄造阿弥陀三尊を鋳造した時期)と推定される創建時の姿になった。和様である。浄土信仰を背景にした典型的な方三間の阿弥陀堂建築である。しかし内陣は禅宗様で室町時代と見られている。この時期に禅宗に改宗した影響であろうか。秩父街道沿いには、臨済宗の寺院が多いところから見ると、臨済禅がこの時期に入りこんだ、伝播してきたと考えてもいいかも知れない(飯能市史編集委員会編「飯能市史 資料編I」1976)。
(注)2015年2月撮影
寄棟造・茅葺を宝形造・茅葺型銅版葺に、また柱間装置を復旧し、切目縁を設けたのは昭和三十一年(1956)である。鎌倉中期(本尊鉄造阿弥陀三尊を鋳造した時期)と推定される創建時の姿になった。和様である。浄土信仰を背景にした典型的な方三間の阿弥陀堂建築である。しかし内陣は禅宗様で室町時代と見られている。この時期に禅宗に改宗した影響であろうか。秩父街道沿いには、臨済宗の寺院が多いところから見ると、臨済禅がこの時期に入りこんだ、伝播してきたと考えてもいいかも知れない(飯能市史編集委員会編「飯能市史 資料編I」1976)。
(注)2015年2月撮影