一葉一楽

寺社百景

福徳寺 ー 蛍が生息する川のほとり

2015-02-24 10:38:58 | 寺院
秩父街道或いは高麗川から「北ノ方へ入リシ谷間虎秀川ト云ヘル小流ニ添ヒテ住シ・・・」と「新編武蔵風土記稿」は虎秀村を描く。この虎秀川には今も蛍が生息するようだ。阿弥陀堂は川へと落ち込む山の斜面に立つ。あたかも村持ちの阿弥陀堂のように。
寄棟造・茅葺を宝形造・茅葺型銅版葺に、また柱間装置を復旧し、切目縁を設けたのは昭和三十一年(1956)である。鎌倉中期(本尊鉄造阿弥陀三尊を鋳造した時期)と推定される創建時の姿になった。和様である。浄土信仰を背景にした典型的な方三間の阿弥陀堂建築である。しかし内陣は禅宗様で室町時代と見られている。この時期に禅宗に改宗した影響であろうか。秩父街道沿いには、臨済宗の寺院が多いところから見ると、臨済禅がこの時期に入りこんだ、伝播してきたと考えてもいいかも知れない(飯能市史編集委員会編「飯能市史 資料編I」1976)。


 

  

(注)2015年2月撮影
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高倉寺観音堂 ー 屋根の変遷

2015-02-17 12:17:11 | 寺院
観音堂は、「新編武蔵風土記稿」に「相伝フ此堂ハ昔シ故アッテ新座郡(高麗郡の間違い)白子村ヨリ引来リシ由」とある。享保十九年(1734)老中黒田直邦(武蔵七党の一つ丹党の末裔)が弟延貞の供養のため、観音堂を建て替えた。この時高倉寺が古い観音堂を請い移築したものである。この移築の時、そして昭和二十六-二十九年(1951-4)の解体修理の際に、小屋組、柱間装置を変えたため、外観は全く現在と異なっていたようである。総反りの入母屋造・茅葺型銅板葺の今の形は昭和の解体修理の結果である。「紀要」にある修理前の写真を見ると、トタン葺(大正十一年(1922)に茅葺から替えたようである)宝形造で、縁もない(参照 「入間市博物館紀要 第9号」2011年)。多分移築時の姿であろう。
創建時の姿を考える上で、白子の隣、虎秀にある同じ臨済宗(長秀寺は臨済宗から曹洞宗に江戸時代に改宗している)の福徳寺阿弥陀堂(鎌倉中期、1290年代の造営と推定されている)を参考にしなければならなかったであろう。残念なことに、この阿弥陀堂は解体修理されたのは昭和三十一年(1956)で、観音堂修理時は、茅葺・寄棟造であった。現在は宝形造と創建時の姿となっている。白子長秀寺観音堂は、この阿弥陀堂を見て建てられたであろうことを、また遅れて禅宗様が浸透してきたことを考慮すべきであろう。因みに建長寺は建長五年(1253)、円覚寺は弘安五年(1282)創建である。禅宗様仏堂であるが、土間ではなく床を持つということも含めて、村という単位で見なければならないだろう。


     

(注)2015年2月撮影
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甚目寺 ー 網にかかった観音像

2015-02-05 13:37:23 | 寺院
「張州府志」(宝暦二年(1752)完成)に「此地有漁人甚目龍麿者。下網海中得此像。因建寺」とあり、善光寺阿弥陀像とともに百済より伝来とある。同じ様な伝承が浅草寺にもあるが、いずれも仏像が朝鮮半島より伝来したことを物語る。甚目寺の秘仏は、これまた秘仏の十一面観音の胎内仏となり観音信仰の核となっている。
堂舎が造営されたのは白鳳八年(668)と伝わる。現に白鳳期の瓦が出土しており、現在の境内は古代の伽藍を踏襲しているようである。塔の心礎が残るが、これも現三重塔の場所にあったとのことである。康和五年(1103)再営後、天治元年(1124)地震で倒壊。建仁元年(1201)聖観上人が再興している。類型的ではあるが「一遍上人絵伝」(正安元年(1299)完成)に描かれた伽藍であろう。「絵伝」に描かれた楼門は、建久七年(1196)梶原景時奉行で建立された南大門である。


  南大門

天正十三年(1586)にも地震あり、本堂が倒壊。寛永四年(1627)に三重塔、寛永十一年(1634)に東門が再建されている。三重塔は名古屋両替商の寄進である。いわば民間の力での再興である。康和また建仁期でも、在地官吏とみられる大江氏による再建であり、地元の経済力が寄与したのではないかと見られる。地元の観音信仰の強さが背景にあるのは、言うまでもない。

  三重塔

 東門

(注)2014年8月撮影
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