一葉一楽

寺社百景

金地院東照宮 ー 小堀遠州による神仏混淆具現化

2012-01-30 10:00:02 | 神社

「黒衣の宰相」と呼ばれ、「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名された崇伝により、金地院境内に造営された東照宮である。元和度東照宮と寛永度東照宮との間に位置する寛永5年のことである。この東照宮はあだ名から想像もつかない風情を持つ。崇伝は中井大和所(正侶か?)に、小堀遠州に作事を、そして拝殿天井画は狩野采女(探幽)に頼んでいる。小堀遠州は頻繁に見にきたようである。入母屋造、檜皮葺の本殿は壁、軸部は彩色され、彩画と神社建築そのものである。しかし拝殿は本殿と対照的に黒漆で塗られ、内法長押の上に円形の彫刻を置く。扁額の代わりに仏像を浮き彫りにした華鬘を掲げる。仏堂そのものである。石の間とともに本瓦葺で神社本殿に仏堂を取り付けたようである。(参照:山田幸一「金地院東照宮について」「本光国師日記に見える建築関係の記録1,2,3,4」日本建築学会研究報告)

         

          

(注)2011年9月撮影

方丈、庭園とほぼ同時期の造営で、方丈から庭園越しに東照宮が望めることを計算されていたようである。それも本殿は見えず、拝殿のみではなかったのか。方丈から見えるのは手前の庭園「鶴亀の庭」と、背景の本瓦葺、仏殿でなければならなかった。

                  

今彩色、黒漆に剥落が見られるが1965年当時は修理から余り時間が経っていないので、拝殿の黒と石の間・本殿の極彩色とはよりコントラストがあり、遠州の「綺麗さび」を際立たせていたであろう。拝殿の黒に一間に一つの極彩色の彫刻、また本殿と、まるで「雪の日は紅梅一輪」の発想から出ているように見える。

            

(注)1965年8月撮影

 

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久能山東照宮 ー 大明神造?権現造?権威の表象

2012-01-18 13:44:49 | 神社

久能山東照宮は、久能山礫層から成る有度山が海に落ちる狭い尾根にある。ロープウェイのなかった当時、海岸から1159段の階段を登るしか行き着くことが出来ない。何故この地を選んだのか、家康の言葉に素直にはうなずけない。


              


              久能山


久能山東照宮の創祠については「徳川実紀」に詳しい。といっても「梵舜日記」からの引用である。梵舜は豊国社の社僧であったが、久能山東照宮はこの梵舜の差配であったようである。「日記」によれば大明神造とあり、大明神すなわち秀吉を祀る豊国社をモデルにしたのは間違いないであろう。中井大和守正清の発想ではない。後に天海との論争に負け、家康は権現となり、権現造となる。本社造営なるのは元和3年(1617年)、寛永4年(1627年)に本地堂(現日吉神社)、楼門、鐘楼(現鼓楼)、宝蔵。今は塔跡のみであるが五重塔は寛永12年(1635年)である。神饌所は正保4年(1647年)と日光東照宮の寛永造替以降にまで造営が続いていた。ところで五重塔の大工棟梁は甲良出雲と言われており、残っていれば中井、甲良の比較が出来、面白かったであろう。 


                     


                                      本殿                                                            拝殿     


                                               


                                                                                        唐門


    


                   鼓楼                  神庫             神楽殿


                 


                                                                                     塔跡


(注)2012年1月撮影


餝金具が、彩画が、黒漆の中で目立つ。しかし彫刻は斗�痴、蟇股、木鼻等々と彩色できらびやかであるが常識的である。また屋根は銅瓦葺である。中井大和守正清の晩年の建築と言われているが、一寸正清とは印象がことなる。元和度日光東照宮や先行した大崎八幡宮が檜皮葺であることを考えると、当初は檜皮葺であったろう。寛永17年(1640年)修理奉行が任命されているが、この修理の際銅瓦葺に変更され、家光好みに金箔の多用や彩色もされたのではなかろうか。和様の、しかも古木を残した寛永度久能山東照宮との印象である。
<追記>2019年7月に神庫修理の際棟札が見つかっている。「御宝蔵」と呼ばれ寛永三年(1626)造営、「秀忠公御寄進、駿河大納言(忠長である)作之」とあり、奉行は大草松平家の松平壱岐守正朝であった。


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世良田東照宮 ー 元和度東照宮への道

2012-01-06 23:22:40 | 神社

長楽寺境内に勧請された世良田東照宮、今残るのは本殿、唐門そして拝殿であるが、唐門、拝殿は、明治に入って撤去された本地塔と合わせて、日光に秀忠により建立された東照宮の奥宮からの移築と言われている。

毛呂権蔵の著した「上野国志」(安永4年-1774年-完成)には「東照宮 寛永21年慈眼大師 世良田の長楽寺に勧請し奉る」とある。天海が遷化したのは前年の寛永20年(1643年)で、正遷宮に立ち会えなかったものの、徳川家発祥の地とするための天海最後の仕事である。先ず本殿を建立したようである。「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、忍城主阿部豊後守忠秋に長楽寺の堂塔を修復させ、東照神祠を造立させたとある。これを裏付けるのは綱吉修復時元禄9年(1696年)の棟札である。寛永16年(1639年)家光建立、遷宮には酒井讃岐守(忠勝)代参とある。この遷宮も何時のことなのか判然とせず、「徳川実紀」に記載なく、建立時期を断定するのが難しいのが、ここ世良田東照宮である。この本殿、軒下の彫刻・彩色はそれだけを見れば寛永度日光東照宮への前段と言ってもおかしくない。しかし壁の朱、扉の黒とのコントラストは本殿に落ち着きを与えており、もしかすると元和度東照宮の雰囲気を伝えているのかも知れない。言い換えると中井大和守正清の世界である。

              

    

 本殿

(注)2011年7月撮影

拝殿の蟇股上巻斗に「日光ヨリ被下申候也」との墨書があるそうである。日光の奥宮拝殿の移築である。この移築、天海の力を感ずる。天海存命中の寛永20年以前のことであろう。今屋根は銅瓦で葺かれているが、寛政8年(1796年)以前は檜皮葺であった。また軸組部は素木か丹塗であったとのこと(北野信彦他「初期の日光社寺建造物に使用された赤色塗装材料に関する調査」、保存科学No.49、2010)。丹塗の半蔀で囲まれ、内法長押より上だけの彩色。こう見ると、極めてありふれたオトナしい神社建築と見えてくる。奥宮だからかも知れないが。

     

     拝殿

(注)2010年4月撮影

          

(注)2011年7月撮影

 

     

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