「黒衣の宰相」と呼ばれ、「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名された崇伝により、金地院境内に造営された東照宮である。元和度東照宮と寛永度東照宮との間に位置する寛永5年のことである。この東照宮はあだ名から想像もつかない風情を持つ。崇伝は中井大和所(正侶か?)に、小堀遠州に作事を、そして拝殿天井画は狩野采女(探幽)に頼んでいる。小堀遠州は頻繁に見にきたようである。入母屋造、檜皮葺の本殿は壁、軸部は彩色され、彩画と神社建築そのものである。しかし拝殿は本殿と対照的に黒漆で塗られ、内法長押の上に円形の彫刻を置く。扁額の代わりに仏像を浮き彫りにした華鬘を掲げる。仏堂そのものである。石の間とともに本瓦葺で神社本殿に仏堂を取り付けたようである。(参照:山田幸一「金地院東照宮について」「本光国師日記に見える建築関係の記録1,2,3,4」日本建築学会研究報告)
(注)2011年9月撮影
方丈、庭園とほぼ同時期の造営で、方丈から庭園越しに東照宮が望めることを計算されていたようである。それも本殿は見えず、拝殿のみではなかったのか。方丈から見えるのは手前の庭園「鶴亀の庭」と、背景の本瓦葺、仏殿でなければならなかった。
今彩色、黒漆に剥落が見られるが1965年当時は修理から余り時間が経っていないので、拝殿の黒と石の間・本殿の極彩色とはよりコントラストがあり、遠州の「綺麗さび」を際立たせていたであろう。拝殿の黒に一間に一つの極彩色の彫刻、また本殿と、まるで「雪の日は紅梅一輪」の発想から出ているように見える。
(注)1965年8月撮影