夜中にまた眼ざめ考えた。心の深い部分に「さみしさの湖」を抱えて生きて
いることに気づいたのは、「人生の修羅場」と思えた中三の15歳だった。
自分では全く覚えていないのに、生育時のトラウマか、それは今でもしっかり心の中
に存在している。そんな感情にもがき苦しんだのは、20代の後半で幸せな子育てをし
ているときだった。色々な本を読み漁って知ったのが、一遍上人の言葉「生まれるのも
一人死せるも一人、人間みなひとりなり」。また「愛別離苦」確か(自分が長く生きる
ほど愛する人との別れが多くなる)「同床異夢」(同じ寝床で寝ていても、同じ夢は見ら
れない)と言う言葉だった。
昔親しかった精神科医がこう言ったことがあった。「あなたの心の中には大きな穴が
空いていて、それを埋めたくて、いろいろやるんだね」と・・・私は大いに納得したの
を忘れない。死ぬのは少しも怖くはないが、一人がとても恐ろしい。
夫をいつまでも長生きして欲しいと、一所懸命工夫し努力するのは、愛情や責任感
だけではなく、そんな感情に支配されているのかも知れない。
心は一筆書きのようなものではなく、同じ人間が決して存在しないように、心もまたひとり一人が
違うものだ。私のあまりにも感じやすく細い神経は、天性の天真爛漫さと明るさで無意識にカバー
している。でも、もしも精神的な研鑽、心理学、ヨーガに出合わなかったら、私はもうとうに
あの世に旅立っていただろう。それでも絶えず逡巡して生きてきたが、激しさと繊細さとを併せ持つ
自分の内面、そんな自分に未だに辟易しながら生きているが、これもまた人生かも知れない。