ビビッド能里子トーク・サロン

医学的にも珍しい満十年の認知症介護について。自己分析や気分転換、幸せを感じる心の癖の付け方、メチャ料理など楽しく書きます

ヨーガと私(1)

2024-06-14 04:24:45 | エッセー
 これは何年も前に連載していたが、昔を思い出しながらながら、また
時折書きたい思いました。
 
 ソシアルダンス教師だった私がヨーガを始めたと知って、友人達は皆驚き、「続くはずなんてないよ」「派手なあなたが信じられない」などと言われた。
私はダンス教師になってすぐに(これは一生できる仕事ではない)と感じた
のは、自分にその素質がないことだった。また、東京都公認社交ダンス教師
資格を取っても、その頃はホステスもダンス教師も、世間では同じような
目で見られ社会的な地位もなかった。それから一生できる仕事はないかと
模索し、出合ったのがヨーガだったが、その時代は宗教臭が大変強かった。   初めは肩こりが強い夫と二人で通ったが、夫はそれが嫌だと4か月で止めた。

 その頃ヨーガはほとんど知られていなかったが、ヨーガに出合った途端に
私は「これを仕事にしたい」と思った。その頃は忙しく、1週間1度しか
通っていなかったが、間もなく経営者の先生に「これからヨーガは必ず普及
するはずで、あなたはダンスの先生で指導力もあるはずだから、ぜひ、イン
ストラクターになってくれないか」と声をかけられた。
 私は即「お引き受けいたします」と返事をしたのは、その精神性にだんだん惹かれていっただけではなく、内心新しい仕事を求めていたからだった。

 その頃代々木駅前にあった「東京高等ダンス学校」で、昼間は個人指導を
していたが、毎週3回の夜クラスレッスンを指導していた。
 そのダンス学校は、普通のダンススタジオとは全く違う雰囲気で、まるで
学校そのものでで、教えるのがとても楽しかった。それ以降クラスレッスン
指導の後に、毎週3回「インストラクターとしての特訓」を受けることに
話がまとまった。夫の同意を得て、私は毎週3回代々木から、丸ノ内線
新宿3丁目にある「東京ヨガセンター」へ通うことになった。
 私が指導を受けていたのは、インド人の先生だったが、インストラクター
のための特訓は経営者の先生だった。先生はその時間まで私を待っていて
下さって、夜9時頃から約1時間色々と教えて頂いた。
 特別レッスンはすべて無料だったが、その条件として、そこで指導者と
して勤務することだった。


コメント
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