ハイデガー「存在と時間」上・下(7)―改稿

2020-08-02 22:09:41 | 「ハイデガーへの回帰」

       ハイデガー「存在と時間」上・下

            (7)―改稿

 ハイデガーは、「存在と時間」の上巻を刊行した後、「現存在が存

在を規定する」という存在概念から「存在が現存在を規定する」へと

思索を転回(ケ―レ)させて、続稿(すでに書き上がっていた)である下巻

の刊行を断念した。分りやすく言えば、「人間が世界を規定する」と

いう考えから「世界が人間を規定する」へと考えを改めたということ

だが、そもそも人間とはいずれ死んで居なくなる〈生成としての存在

者〉にほかならないが、つまり「世界が人間を規定する」のであるが、

ところが我々の理性は、世界(自然)を被制作性とする存在概念によって

作り変えようとする。それは、我々の理性による形而上学的思惟からも

たらされた存在概念が、存在を本質存在と事実存在に二分して、事実存

在としての生成の世界は絶対不変の真の世界ではなく、仮象の世界でし

かないということから、仮象の世界の事実存在である自然は人間がイデ

アの形相(エイドス)を模倣して制作するための単なる材料として扱われ

る。それは「人間が世界を規定する」ことにほかならないが、いま、正

にわれわれは生成の世界に身を預けながら、世界を被制作性として扱う

ことの矛盾に気付かされ始めている。つまり、われわれが制作した世界

は生成としての自然を追い遣り、〈生成としての存在〉であるわれわれ

自身の存在を脅かし始めている。これは明らかに「世界が人間を規定す

る」ことにほかならない。ところで、百年前のハイデガーはいまの科学

技術文明と自然との対立を予測していたかどうかは知らないが、「存在

とは〈生成〉である」とそれまでの「もっとも中心的な概念である、」

(木田元「同書」)〈存在了解〉ないし〈存在企投〉という考え方を転回

(ケ―レ)させた。ハイデガーは「現存在が存在を了解するときにのみ、

存在はある」と言い、〈存在〉という概念は人間が思い巡らす時にだけ

ある(存在する)。こうして初期のハイデガーは〈存在了解〉は人間によ

って規定されると考えたが、つまり「人間が存在を規定する」と考えた

が、木田元によれば、「存在という視点の設定という出来事は、たしか

に現存在のもとで起こるにはちがいないが、けっして現存在がおこなっ

ているわけではなく、むしろその時どきの〈存在の生起〉の仕方によっ

て、現存在のあり方が規定されると、考えるようになるのである。そう

なれば、人間がおのれの生き方を変えることによって存在の意味を変え

ることなどできるわけはなく、むしろ存在という視点が設定されるその

つどの仕方に応じて、人間のあり方が変えられるということになる。」

それは、「存在が現存在を規定する」ことにほかならない。

 

                         (つづく)