ハイデガー「存在と時間」上・下 (9)

2020-08-07 10:53:13 | 「ハイデガーへの回帰」

        ハイデガー「存在と時間」上・下 

            (9)

 ハイデガーは、プラトン・アリストテレス以来の存在概念〈存在=現

前性=被制作性〉、つまり、自然とは〈作られたもの〉〈なお作られう

るもの〉としての制作のための単なる〈物質〉にすぎないという人間中

心主義(ヒューマニズム)的文化をくつがえして、始原の存在概念〈存在

=生成=自然〉としての自然観を取り戻そうと企んだが、またそれが彼

をナチズムへの共感に向かわせたのだが、そして、人間中心主義的文化

をくつがえすということは当然のことであるがアンチ・ヒューマニズム

であることは避けられない。〈存在=生成〉という存在概念は事実存在

としての〈生成=誕生=「死」〉であり、〈存在=生成〉という存在概

念は決してヒューマニズムではありえない。そして、ナチズムに対する

最大の非難とはアンチ・ヒューマ二ズムに対する非難にほかならない。

ここで、木田元のハイデガーがナチズムへ加担したことへの感想を記す

ると、「彼(ハイデガー)に一種の文化革命の理念があったと思っている。

二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、〈生きた

自然〉の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうと

いうその意図を、『地と大地』に根ざした精神的共同体の建設というナ

チズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを

領導しておのれの文化理念に近づけうる夢想した、その心理は理解でき

るように思うのである。」(木田元『ハイデガーの思想』)と語る。ハイデ

ガーが始原の存在概念である〈存在=生成〉によって、ゆきづまりにき

ている人間中心主義的文化、つまり近代科学文明社会をくつがえそうと

する企ては、「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとっておこ

なうというのは、明らかに自己撞着であろう」(同書)と気付いて挫折せ

ざるをえなかった。ただ、存在者を本質存在と事実存在に二分する形而

上学的思惟(プラト二ズム)から演繹される存在概念〈存在=現前性=被

制作性〉に対する批判は変わらなかった。「では、この形而上学の時代、

存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか。失われた存在を追想

(アンデンケン)しつつ待つことだけ、と後期のハイデガーは考えていたよ

うである。」(同書)

                          (つづく)