ハイデガー「存在と時間」上・下
(9)
ハイデガーは、プラトン・アリストテレス以来の存在概念〈存在=現
前性=被制作性〉、つまり、自然とは〈作られたもの〉〈なお作られう
るもの〉としての制作のための単なる〈物質〉にすぎないという人間中
心主義(ヒューマニズム)的文化をくつがえして、始原の存在概念〈存在
=生成=自然〉としての自然観を取り戻そうと企んだが、またそれが彼
をナチズムへの共感に向かわせたのだが、そして、人間中心主義的文化
をくつがえすということは当然のことであるがアンチ・ヒューマニズム
であることは避けられない。〈存在=生成〉という存在概念は事実存在
としての〈生成=誕生=「死」〉であり、〈存在=生成〉という存在概
念は決してヒューマニズムではありえない。そして、ナチズムに対する
最大の非難とはアンチ・ヒューマ二ズムに対する非難にほかならない。
ここで、木田元のハイデガーがナチズムへ加担したことへの感想を記す
ると、「彼(ハイデガー)に一種の文化革命の理念があったと思っている。
二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、〈生きた
自然〉の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうと
いうその意図を、『地と大地』に根ざした精神的共同体の建設というナ
チズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを
領導しておのれの文化理念に近づけうる夢想した、その心理は理解でき
るように思うのである。」(木田元『ハイデガーの思想』)と語る。ハイデ
ガーが始原の存在概念である〈存在=生成〉によって、ゆきづまりにき
ている人間中心主義的文化、つまり近代科学文明社会をくつがえそうと
する企ては、「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとっておこ
なうというのは、明らかに自己撞着であろう」(同書)と気付いて挫折せ
ざるをえなかった。ただ、存在者を本質存在と事実存在に二分する形而
上学的思惟(プラト二ズム)から演繹される存在概念〈存在=現前性=被
制作性〉に対する批判は変わらなかった。「では、この形而上学の時代、
存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか。失われた存在を追想
(アンデンケン)しつつ待つことだけ、と後期のハイデガーは考えていたよ
うである。」(同書)
(つづく)