ハイデガー「存在と時間」上・下
(11)
ようやく「存在と時間」の上巻を、読んだというよりも目を通した
程度で書棚に戻しました。私は、木田元の「ハイデガーの思想」を読
んで、どうしてもハイデガーの「存在と時間」を読みたいと思ったの
ですが、これまでのところ、木田元のハイデガー論とは、つまり〈存
在=生成=自然〉とする存在概念によって〈存在=現前性=被制作性〉
による「人間中心主義的文化をくつがえそう」という企てはいまだ何
一つ語られていません。たぶんそれは木田元のハイデガー論に他なら
ないのではないかと思えてきました。ただ、ハイデガーによる現象学
的存在論は精緻を極め、一般的な世界認識論とは視点が異なるという
ことは良く分りました。たとえば、われわれの世界観とはわれわれの
理性が創り出す世界観でしかなく、われわれが存在しなければそのよ
うな世界「観」、それだけでなく「世界」さえも存在しない、だとか、
また、「存在とは何か?」という問いを但し「一行で答えろ」と言わ
れたとすれば、その設問そのものが答えを限定するように、また、そ
れとは反対に無限に叙述される答えも真理には的中しないように、つ
まり、「存在」という言葉そのものがすでに「答え」を限定している
とすれば、言葉の限界が認識の限界であり、われわれの理性を超えた
世界認識など決して得られるわけがない。つまり、世界の隅々までも
認識できる「絶対的な理性」というものがあるとすれば、われわれの
理性とはせいぜい明かりの届く手元だけの限られた理性に過ぎないと
いうことである。それらは「絶対的な理性」から見ればしょせん誤謬
でしかない。
(つづく)