ハイデガー「存在と時間」上・下
(8)
ハイデガーの思索の転回(ケ―レ)は、現存在による〈存在了解〉とい
う概念の捉え方が見直されたからで、「この概念には、それが現存在の
在り方と連動するものであり、したがって現存在がその在り方を変える
ことによって変えることのできるものだという合意がある。そのかぎり
では、前期のハイデガーは〈現存在が存在を規定する〉と考えていた、
と言ってもいいかもしれない。しかし、そこからあの自己撞着をはらん
だ企ても着想されたのである。」(木田元「ハイデガーの思想」)
では、「あの自己撞着をはらんだ企て」とはいったい何のことなのか。
どうしても木田元の解説に頼るしかないのですが、「ハイデガーは人間
を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、お
そらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生き
て生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかに
ゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえ
そうと企てていたのである。」(木田元「同書」) 私が驚いたのは、今か
らおよそ100年前に、すでにハイデガーは〈存在=現前性=被制作性〉
という存在概念によって構成された近代科学文明社会が「明らかにゆき
づまりにきている」と思ったことである。今でこそ「物質的・機械論的
自然観と人間中心主義的文化」(同書)から産まれた科学技術は、温室効
果ガスによる異常気象や環境破壊によって、明らかにゆきづまりにきて
いると断言することができるが、様々な近代科学技術が生れた黎明期に
すでにそのゆきづまりを予言していたことに驚いた。それでは、ハイデ
ガーはどのような世界を企てようとしていたのだろうか?それは「人間
を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、お
そらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生き
て生成するものと見るような自然観を復権すること」である。つまり、
「自然に帰れ!」と言うのだ。
そもそも西欧形而上学(メタ・ピュシカ)とは存在の本質を問う学問で
あり、それはギリシャのプラトン/アリストテレスによって思索の端緒
が開かれた。しかし存在の本質を問う限り、存在は本質存在と事実存在
に区分され、プラトンは本質存在こそが永遠不変の真の存在であるとし
てその世界を「イデア」と呼んだ。そして生成消滅を繰り返す事実存在
は仮象の世界としてイデアの世界を模して作られ、この世界の被制作性、
つまり自然とはイデアに模して世界を作り変えることができる無機的な
質料でしかないと考えた。これは今日まで人間中心主義的文化の下で自
然を単なる無機的質料と見る物質的な自然観に引き継がれ近代科学文明
社会の発展がもたらされた。では、そもそもソクラテス(プラトン/アリ
ストテレス)以前の思想家たちは、いったい〈存在〉をどう考えていたの
だろうか?ハイデガーは、
「ピュシュス(自然)とはギリシャ人にとって存在者そのものと存在者の
全体を名指す最初の本質的な名称である。ギリシャ人にとって存在者と
は、おのずから無為にして萌えあがり現われきたり、そしておのれへと
帰還し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現われきたっておのれへ
帰還してゆきながら場を占めているものなのである。」(『ニーチェ』)
それは〈存在=生成=自然〉としての、形而上学的思考によって忘れ去
られた始原の存在概念であり、ハイデガーの企てとは〈存在=生成〉と
いう存在概念によって「もう一度自然を生きて生成するものと見るよう
な自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近代
ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。
」
(つづく)