ハイデガー「存在と時間」上・下
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さて、ハイデガーと彼の思想を読み解く木田元の著書「ハイデガーの
思想」から長々と引用しましたが、そもそも形而上学的思惟から導き出
されたイデア論によって本質存在(イデア)と区別された事実存在(自然)
は〈被制作性〉として了解され、人間中心主義的文化の下で科学技術文
明が構築されてきましたが、しかし「存在とは生成である」(二ーチェ)
とすれば、生成変化しない科学技術によって生成循環が遮られた世界は
いずれ行き詰まることは明白である、というのがハイデガーの考えであ
ると木田元は説く。そこで、いずれ行き詰る科学技術文明を見直して、
〈存在=生成=自然〉、言ってみれば「自然に帰れ!」と訴えたが、す
こし時期尚早だったことは否めない。それでは「われわれに何がなしう
るのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけと後期のハイデガーは
考えていたようである。」(木田元)
私はこの「待つことだけ」という文章を読んで、これまで自分が考え
続けてきた「世界限界論」に繋がったことに驚いた。つまり、ハイデガ
ーはいずれ人間中心主義的文化による近代科学文明社会が行き詰まるこ
とを百年も前に予測していたからだ。そして木田元は、ソクラテス/プ
ラトン/アリストテレスの下で始まったこの形而上学(プラト二ズム)は、
「ハイデガー自身が、この〈哲学〉の解体を企てている以上、彼の考え
では、まだ到来していないにしても、その下限もあるにちがいないのだ
。」(同書)と、ハイデガーは、誤まった存在了解による存在概念〈存在
=現前性=被制作性〉によって始まった人間中心主義的文化はいずれ生
成循環の再生可能性(サスティナブル)が滞って限界「下限」が到来する
ことをすでに予言していた、と言うのだ。しかし、これは木田元による
ハイデガー論にほかならない、と言うのもただいま読書中の「存在と時
間」には(今のところ) 現象学的存在論に関する内容ばかりでそのよう
な文明批判的な記述は一ヶ所も出てこないし、一般にハイデガーが自然
への回帰を哲学者だとは思われていない。木田元によれば〈存在=生成
=自然〉という存在概念はニーチェへの強い共感によるものだと言って
いる。実際、ハイデガーは自身の大学で講義した「ニーチェ」論を書籍
化していて、ニーチェ自身の文章からは何を言ってるのかサッパリ解ら
なかったことが、彼の言葉によれば、こんなにも明解に解説されている
ことに驚かされる。私のニーチェ論はハイデガーのニーチェ論にほかな
らない。
(つづく)