「無題」 (七)―⑤

2012-08-27 18:45:15 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                  「無題」


                   (七)―⑤


 バタバタとした生活が片付いた時には目の前に連休が迫っていた。

メンタル・カウンセラーからの許可も得て、その先生が言うには、

同居してれば自傷を思い止まらせることになるかと言えば、その気

になれば何処だってやる。むしろ、その気を起こさせないためにも

本人が望む独り暮らしをさせた方がストレスは少ないと言うことだ

った。こうして、再び美咲は家を出て独り暮らしをすることになっ

た。

 私は、これまで仕事に感(かま)けて、彼女には本当の父親のよう

に向き合おうともせず小さい頃から寂しい想いをさせたことを詫び

たい気持ちでいっぱいだった。彼女にしてみれば、本当の父親は出

て行き、さらに母を知らない男に奪われ、その男は自分には何一つ

関心を示してくれないお父さんという他人だった。つまり、彼女は

親という存在に縋っては何度も見捨てられたのだ。私は躰を壊して

仕事を離れるまでそんなことにはまったく気付かなかった。仕事を

奪われた病院のベッドの上で、ある夜眠れずに目が冴えて考えごと

をしているうちに言い知れぬ不安に襲われた。その不安とは再び職

場に戻った自分を部下たちはこれまでどおり迎えてくれるだろうか

?元通りに回復しなければ時間に追われる職場では私はまったく役

に立たないだろう。これまでとは違った冷たい世界を想像すると暗

闇の病室にその冷たい不安が充満した。そして、その冷たい不安は

美咲が幼かった頃に私を見詰める時の無表情と重なった。あっ!彼

女の無表情やまるで他人事のような言葉遣いは幼いながらもその孤

独から遁れようとして精一杯堪えていたからではなかったのか?私

はその子どもらしくない冷めた態度に何故気付いてやれなかったの

か。彼女は心の中で必死で救いを求めて叫んでいたのではなかった

か。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、私はすぐに病室

を抜け出して美咲のもとへ駆け付けて謝らなければならないと思っ

た。信じていた父親がいなくなって新しい父親が現れても、野球チ

ームの監督を代えるように誰が納得して、まして子どもであれば尚

更、言うことのまったく違う新しい父親の意見に従うことができる

というのか。

「いいか、美咲、独りじゃないんだから困ったときはいつでもここ

に戻って来いよ。ママも、それから私も待っているからな」

「ありがとう、お父さん」

「これまでお前には本当に淋しい思いばかりさせて悪かった。

お父さんを許してくれ」

私がそう言うと、美咲は私の胸に顔を埋めて泣きだした。もちろん、

私だって冷静でいられるはずがなかった。


                                  (つづく)


「無題」 (八)

2012-08-26 02:59:20 | 小説「無題」 (六) ― (十)

           「無題」


            (八)


 美咲が置いていったキルケゴールの本のおかげで通勤電車で退屈

しなくてすんだ。とはいっても、ポテトチップスをサクサク食うよ

うなわけにいかず、スルメイカをいつまでも噛みしめているようで、

わかったつもりで先へ進むと咀嚼されずに飲み込んだイカは嚥下

されずに再び口元へ吐き出されて、飲み込めない箇所に後戻りして

何度も読み直さなければならかった。例えば、「罪とは、神の前で

絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶

望して自己自身であろうとすること、である」と書かれているが、

それじゃあ、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなかった。

ところが、何回も同じところを咀嚼するうちに、「自分自身であろ

うと欲しないこと」というのは、自分との対話の中で、自分自身と

の関わりを放棄することであり、「自分自身であろうとすること」

とはそれとは反対に独我論に陥ることではないか。そこから「罪」

とは罪の意識から逃れることであり、或いは、罪の意識そのものを

認めようとしないこと、なのではないか。例えば、人を殺しておい

て自分は知らないと虚偽することであったり、或いは、あんな人間

を殺してなぜ悪いと自分を正当化することである。ところが、「神

の前で」が意識されなくなった時、相対化した世界の中で絶対への

意志からもたらされる絶望がなくなり、絶対は存在しないのだから、

虚偽や詭弁を用いることの疚しさを感じなくなる。恐らく、キルケ

ゴールは神への信仰が失われた時、つまり現代だが、絶望(精神)か

ら逃れた我々は、彼は冒頭で「精神とは自己である」と言っている

ので、自己を失い同時に絶望が消え失せ、しかし絶望とは自己にと

ってのある一つの基準なのだ、その基準を失った世界は矮小化し虚

偽と詭弁がたしなめられず、そして、遂には虚偽と詭弁を根拠に精

神を失くした自己を正当化するようになり、やがて人間は堕落する

に違いないと思ったのではないだろうか。ほら、自己(精神)を失っ

て嘘と詭弁を繰り返す原子力村の人々ように。

 おお、何時の間にか電車はもう降車駅に着いた。


                                 (つづく)


「無題」 (八)―②

2012-08-26 00:58:43 | 小説「無題」 (六) ― (十)


                 「無題」


                  (八)―②


 連休に入ると忙しくなるのは売場だけではなかった。足し算くら

いならできる手の空いた者は猫の手の代わりに店頭に駆り出されて、

人手を取られた事務所には私だけでは処理できないほどの伝票の山

が積み上げられていた。そんな朝早くから、かつての部下だった営

業の男、この男は吉田と言って私が店先で始めた野菜の百均市を引

き継いでくれていたのだが、彼からデンワが掛かってきた。もちろ

ん、それまでにも何度も並べる商品についての遣り取りはしていた

が、そして、その中には例のチョイ悪親父のトマトもあった。私が

「むかしのトマト」と表示するように言って並べさせたところ瞬く

間に売り切れて今では百均市の人気商品だった。それは今年は、と

は言ってもこのところ例年のことだが、春先の不安定な気候のせい

で品薄から野菜が高騰したことが大きな要因でもあった。私は、さ

らに、チョイ悪親父に薦められて、瓜のように巨大な地這いキュウ

リまでも置いたところ評判が良く月曜の百均市は盛況していた。た

だ、いくら良く売れるからといってもすぐに作れないのが自然の恵

みだった。

「どうした吉田?」

「すみません朝から。実は、仕入れの担当者からコンプレ(不満)受

けまして」

「何て?」

「勝手に増やすなって」

「ちゃんと仕入れを通してるだろ」

「それが、捌けるもんだから通さずに増やしたんですよ」

「どれだけ」

その量は当初よりは倍増していた。とはいってもチョイ悪親父も

三棟のハウスでまかなうには限界があった。吉田は、

「木下さんも、もうこれ以上は出せないってとは言ってました」

木下さんとはチョイ悪親父の名前だった。

「だろ?その程度なら問題ないさ」

私は、かつて任されていた仕事だったので事情はよく解った。つま

り、新たな仕入れ先からのものが売れるとこれまで取引していた仕

入れ先がいい顔をしなくなって仕入れしにく くなるということだろう。

「それで、店内のトマト落ちてんの?」

店先の百均市のトマトが売れると店内のトマトの売れ行きが落ちる

のは当然の成り行きだった。

「いや、そんなことはないですけど、ただ、今はものが少ないんで

様子が見えないですから」

「そうだよな」

さっきも言ったように、自然の恵みは思い通りにはならない。生産

者にしてみれば作った野菜をどこに出すかは前年実績に従って割り

振るしかない。小売業者にしてみれば仕入れを減らすことはこれか

らの仕入れが難しくなるのでそれだけはどうしても避けたい。流通

システムの中でそんな持ちつ持たれつの関係が築かれ、新規参入者

を締め出す装置になってしまっている。況して、それがオーガニッ

クや無農薬を謳うなら、農薬に頼った既存の生産者は厳しい目を向

ける。オーガニック野菜が人気になってもスーパーの店頭に並ばな

いのは量が足らないということもあるが生産者が量産できずに困る

ので締め出しているからなのだ。もっとはっきり言えば、農薬が売

れなくなる組合が困るから出荷の独占を盾にして締め出しているの

だ。もちろん薄利多売のスーパーもそれに同調している。しかし、

それらを根底で支えているのは消費者の購買動向である。


                                  (つづく)


「無題」 (八)―③

2012-08-24 04:30:26 | 小説「無題」 (六) ― (十)



         「無題」


          (八)―③


 私は、さっそく仕入れの責任者にデンワした。そのポストは躰を

壊すまで私が任されていた。私に代わって就いた男はバカ息子の息

のかかった若造で、実は、仕入れの経験はあったがこと青果に関し

ては何も知らなかった。

「あっ、竹内さん、おはようございます。どうしました?」

竹内とは私のことである。

「百均市のトマト、まずいかね?」

「あっ!あれね、実は、もう社長まで上がってるんですよ」

「お前が上げたんだろ?」

彼は黙っていた。バカ社長は私がやっている百均市を嫌っていた。

始めのうちは店内の売れ残りや在庫を並べていたので文句は言わな

かったが、そのうち、近隣農家と掛け合って直売させたり(運賃も

人手も要らない)、または規格外やオーガニック野菜を並べ始める

と、と言うのも、毎度同じものばかりだと客も飽きてしまって寄り

付かなくなっていたので、すると、途端にバカ息子の態度が変わっ

た。それでも、私が仕入れを任されている間は何も言わなかったが、

躰を壊して入院すると止めさせるまではしなかったが、さっそく以

前のように売れ残りの処分市に戻させた。そして、再び客は寄り付

かなくなってしまったので、私が再びテコ入れに乗り出したところ

だった。

「竹内さん、社長から何か聞いてます?」

「別に」

「もう止めるんですよ、百均市」

「えっ!何で?」

「わざわざ店先でやらなくても店内でもできるだろって。それに、面倒

な割に儲からないから」

確かに、価格変動の激しい生鮮野菜を何でも百円の値を付けて売る

には、野菜を切り売りするわけにもいかず、赤字覚悟で並べるもの

も少なくなかった。しかし、トータルで見れば決して損はしていな

いはずだった。それに、確かに処分品なら何もわざわざ店先で売ら

なくとも値引きして並べれば済むことだが、そもそも、彼らは百均市

の本来の主旨を理解していなかった。

「儲けにはならないけど客は呼べるやろ?」

「それもここんとこ減ってますしね」

「それはお前らが処分品ばかり出すからじゃないか」

「それが面倒なんですよ、売れるのを探すのが」

「もう、わかった」

実際、私も普段の仕入れの仕事以外に何か目新しいものはないかと、

時には自然農法を実践している生産者を訪ねたりもした。すでに人

気を得てるものはとても百円の単価では出せなかったので、寝て果報

を待つことはできなかった。そんな水溜りにさえも竿を垂らすような徒

労を繰り返して躰を壊してしまったので、彼にもそれ以上強いる気には

ならなかった。


                                      (つづく)


「無題」 (八)―④

2012-08-23 02:21:31 | 小説「無題」 (六) ― (十)



               「無題」


                (八)―④


 私は自分の仕事そっちのけで早速社長にデンワした。

「おはようございます、社長。竹内です」

「あっ、竹内さん。おはようございます。躰の具合どうですか?」

「ええ、お蔭で随分良くなりました。ところで、社長、百均市やめ

るんですか?」

「あっ、その件。竹内さんにはまだ言ってなかったのかな、実は、

この前の店長会議で決まったんですよ。もうすぐ回覧板が回ると思

いますけど」

回覧板とは社内報である。

「何で止めるんですか?」

「んー、ほら、いましんどいでしょ。それで、事業仕分けで見直すこと

になったんですよ」

しんどくなった最大の原因はお前がイカサマを命じて信用を失った

からじゃないかと心の中で叫んでいたが、まさか声にするわけには

いかなかった。

「竹内さん、デンワ入ったんで切りますよ」

いまや小売業界は日ごとに干上がっていく池の中で、生きもの同士

がぶつかり合って泳ぐこともまゝならず、遂には、横にしていた体

を縦にして水面から頭をもたげて辛うじて息を継いでいた。最早い

かなる試みも時機を逸し小手先の安売りで凌いでいたが、一つ沈み

二つ沈みすると待ち構えていた大手がそれを飲み込んだ。提案され

る企画も大手の後を追う新鮮味のない二番煎じで、ジリ貧の業績を

上昇させる予感さえ抱かせなかったし、たとえ斬新な企画が提案さ

れても身に滲み着いた全体主義から排他され、プレゼンの段階で身

内の敵に足を引っ張られて潰された。何よりも、淀んでいく池の中

ではどう足掻いたとしても、ぬるま湯の釜に浸かったカエルのよう

にすでに抜け出す術もなく、ただ運命に身を任せるしかなかった。

やがて、何時しか職場には閉塞感から抜けられない諦めから自分を

守るために排他的な無関心が支配した。水面に口を突き出して天を

見上げながら救いを求めたが、天は無慈悲にも釜の下の焚き木に

火を点けた。流れを変えると公約して期待していた民主党はあろうこ

とか消費税の増税法案を成立させた。我が国は、既得権益に巣食う

アンシャン・レジームを淘汰できずに失われた時代の「継続」を選択し

たのだ。

                                    (つづく)