「無題」 (八)―⑤

2012-08-22 18:08:52 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」

         
            (八)―⑤


 私は、デンワを離さず、かつて一緒に働いていた店長に繋いだ。

「おはようございます、竹内さん」

「おはよう、店長」

「どうかしました?」

「悪いね、忙しい時に。あのー、百均市だけど、店長会議で止める

ことに決まったの?」

「えっ!あれは確かに事業仕分けの対象にはなりましたけど、僕ら

反対しましたからね、今まで続けてきたし竹内さんも頑張ってるか

ら。それに、いまトマトとか売れて客増えてますからね」

「うん」

「それで、ちょっと言い合いになって、そこで社長が預かると言い

出して、まだ結論は出てないはずですけど」

「いや、いま社長にデンワで聞いたら店長会議で中止が決まったっ

て言ってたよ」

「えっ?何で・・・。また社長の独裁ですよ」

「店長、よくわかった。ありがとう」

もちろんスーパーの店長は「名ばかり店長」では務まるわけがない

が、しかし、我々の店長会議は「名ばかり店長会議」と呼ばれてい

て、社長の意に沿わなければ社長が預かって決裁する。我々の会

社では大事な事案は齟齬の中に裁定される。かつて、それに憤懣

を堪えられなくなった老いた店長が、「ここは北朝鮮か!」と捨て台

詞を残して辞めて行った。それから、店長会議のことを「人民会議」

とも呼ばれるようになった。異論は排される、ただそれだけのことだ。

 私は、自分の机に座ってもう迷うことなく辞表を書いた。手元まで

差し込む朝日が何故か夕日のように思えた。



                                   (つづく)

「無題」 (八)―⑥

2012-08-22 04:23:15 | 小説「無題」 (六) ― (十)


                  「無題」


                   (八)―⑥


 辞表を叩きつけて、「ここは北朝鮮か!」とは吐かないまでも、

すぐにも会社を後にしたかったが、妻や子どもたちのことを思い出

してそれを懐に仕舞った。それでも、一時もここには居たくないの

に居なければならいストレスから治まっていた胃痛が始まり、血の

気が引いていくのがわかった。私は、課長のところへ行って「躰の

具合がおかしいので帰らしてくれ」と言うと、私の顔色を見て、よ

ほど血色が悪かったのか何も言わずに認めてくれた。

 その日以来、わが身を会社に奉ることはなかった。もちろん、妻

にもありのままを話して、さすがに彼女も「身を惜しまず働け」と

は言わなかったので納得してくれた。そして、話しはこれからどう

するかということになったが、私は、これからのことはこれから考

えるしかないとしか答えられなかった。ただ、私の頭の中に浮かん

でいるのは、どれほどあくせく働いても今や時代は逆風の中にあっ

て思い通りには飛ぶことができない。それは、自分は風に逆らって

反対側に行こうとしているからではないか。順風に乗って飛ぼうと

思えばまず自分の行き先を諦めることだ。突然、神風が吹いて風向

きが変わり日本が再びかつてのような成長をするなどとは到底思え

なかった。それどろかますます衰退していく可能性の方が現実では

ないか。私は、彼女がどんな夢を思い描いているのか知らないが、

「豊かな老後」は諦めなくてならないと説得できるほど、風任せの

今後の生き方に自信を持っているわけではなかった。ただ、残され

た人生を他人に迷わされず自己を失わずに生きていこう、今ならま

だ間に合う。それは、あの山路を歩きながら思い到った「死線」か

らの生き方に繋がっていた。常に頭の中に去来するのは、自分は地

球内存在であるという意識だった。つまり、地球を凌駕した人類の

欲望は叶わない、ということである。すでに、「人々が望む豊かな

生活X 七十億万人 X t (時間)≧  E (地球) 」 なのだ。我々

は今の豊かさを望む限り他人の権利を奪い取るほかないのだ。

 事務の女性は来年の春まで留まっていれば色んなことで得をする

ので考え直すように説得した。私は、その話は前に聞いてはいたが

すっかり忘れてしまっていた。ああ、それで今まで辞めるのを思い

留まっていたのか、とその時気付いたが、もう躊躇わなかった。そ

の金を手にするためにどれほど自分自身を犠牲にしなければならな

いか、失われた時間がそれに見合うとは思えなくなった。大袈裟に

言えば、私は自分の価値判断を転換させたのだ。ただ、妻が、私の

自分勝手な転換を受け入れてくれるかどうかが唯一の不安だった。



                                  (つづく)


「無題」  (九)

2012-08-17 03:22:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)


               「無題」


                (九)


 美咲が家を出て行き、私が仕事を辞めたりと日常の変化に戸惑っ

ているうちに、すでに初夏を迎えようとしていた。これまで仕事に

感(かま)けて家族を蔑ろにしてきた反省から、美咲には取り返し

のつかない辛い思いをさせてしまって、今更の感は否めないが、こ

れからは家族を難破から守るために身を尽くしていくつもりだった。

にもかかわらず、妻からは、出掛ける予定がないなら朝ごはんをも

っと遅くにして欲しいと小言を言われ、それでも、身に着いた習性

をそう簡単に変えることができず、これまで通りテレビ局が朝一番

のニュースを流し始めた頃にはどうしても目が覚めた。それなら、

代わりに朝ごはんくらい自分が作ってやると張り切ってパソコンの

レシピを眺めながら、始めに豆腐とわかめの味噌汁を作り、鮭の切

り身を焼き、予定では厚焼き玉子のはずだったスクランブルエッグ

と、昨晩の残り物のほうれん草のお浸しを小鉢に盛り、それから、

ジャコおろし、漬物、味付け海苔、納豆を並べ、ちょっと手をかけ

過ぎたかなと思いながら旅館の朝定食並みのメニューを作り終えた

頃には、ちょうど下の娘、己然(きさ)が起きて来て、ところが、何

時までも経っても洗面所から出て来ず、出てきたと思ったら箸を手

にすることなく、冷蔵庫の中のジュースとヨーグルトそれにクロワ

ッサンだけ食べて、バナナを持って「ごちそうさまでした」と言っ

て自分の部屋に上がろうとするので、「ちゃんと食べて行けよ」と

言うと、「時間がない」と言い残してすぐに制服に着替えて家を出

た。私が、妻に愚痴を言うと、妻は「これで作る者の苦労がよくわ

かったでしょ」と、日頃から献立に文句の多い私に仕返しを果たし

た。仕方がないので二人で食べることにしようと、妻を労わってテ

ーブルのイスに座らせ、私がごはんをよそおうとしてジャーの蓋を

開けると、釜の中は空だった。


                                 (つづく)

「無題」 (九)―②

2012-08-15 22:57:47 | 小説「無題」 (六) ― (十)


                 「無題」


                  (九)―②


 己然(きさ)、何でこんな名前を付けたんだろう、が間もなく夏休

みに入るので家族で旅行をしようと言った。己然は、もう幼い時

のように「何で?」とは言わないで、「お姉ちゃんも?」と訊いた。

私は「もちろん」と答えた。ただ、失業の身なので先のことを考え

るとそんなに贅沢はできなかった。妻は、

「また、伊豆?」

と、言った。

「うん、海があって馴染みのところとなるとそうなるかな」

「じゃ、早いうちに予約しとかなきゃ」

「待てよ。美咲にも言ってやらないと」

「でも、その前に何日が空いているのか確かめとかないと」

そんな遣り取りがあって、結局、馴染みのペンションが空いている

日は美咲が受けてる編入試験のための夏期講習があって行けないと

言ってきた。妻は、

「あの子、端から一緒に行くつもりなんてないのよ」

と、あきらめた。結局、親子三人で予約することになった。私は、

己然にそのことを伝えた。すると、彼女は、

「何で?」

と、訊いた。

                                (つづく)



「無題」 (九)―③

2012-08-15 03:55:48 | 小説「無題」 (六) ― (十)


               「無題」


                (九)―③


 ほぼ社内での仕事の残務は片付いていたが、これまで世話になっ

たテナントのオーナーや付き合いのあった仕入れ業者に会社を辞め

たことを、足を運べるところはそうして、それ以外はデンワで知ら

せた。どうしてと聞かれる度に病気を理由にするとそれ以上は尋ね

られず「お大事に」と言ってくれた。最後になってしまったが、仕

入れの話がまとまった途端に百均市が終わってしまって迷惑をかけ

た例のチョイ悪親父風の木下さんに、気が進まなかったがデンワし

た。私は、家族旅行のついでに彼のところへ伺って頭を下げるつも

りでいたがそれまで待ってられなかった。彼は、

「ああ、何かそうらしいですね」

と、何事もなかったように聞いてくれた。私は、いっそう自責を感

じて何度も謝った。すると、

「そんなに謝らなくてもいいですよ、別に損はしてませんから」

「ありがとうございます」

「もし、こっちへ来るようなことがあれば何時でも気にせずに寄っ

てください」

そこで私は、

「実は、今度娘の夏休みに旅行でそちらの近くに参りますので、そ

の時お伺いして改めてちゃんと謝らせて頂きます」

「何もわざわざそんなことしなくてもいいですよ。でも、こっちに

来るんですか?」

「ええ」

「え、いつ?」

私が、ペンションの名前と予約した日にちを言うと、

「何だ、もっと早く言ってくれたらうちで用意できたのに」

「えっ?」

「あっ、うちペンションもやってるんですよ」

「へえ、そうなんですか」

「それに、こう言っちゃあ何ですが、お盆を越えたら海に入らない

方がいいですよ」

「まあそう思ったんですが、なかなか空いてなかったもんで」

「もしよかったらお盆前に何とかしてあげましょうか?」

「ええっ!ほんとですか?」

「えっと、何人ですか?」

「小学四年の女の子と妻一人の三人です」

「わかりました。うちのペンションじゃないかもしれませんが、当

たってみましょう」

「たすかります」

「それで、いつがいいですか?」

「ちょっと待ってください」

私は、キッチンに居る妻を呼んで、美咲は何日だったら一緒に行け

るのか確かめるように言った。ところが、美咲はその気がないのか

はっきりしないので、私は、その妻の携帯デンワをとって、

「美咲、お父さんだけど、一緒に行かないか?お前が来ないと家族

旅行にならないんだ。己然もお前と一緒に行くことを楽しみにして

るんだから」

美咲は、しばらくしてから、

「はい、行きます」

と答えた。私は待たせていた木下さんに、

「すみません、もう一人増えてもいいですか?」

と言うと、彼は、

「まさか、奥さんが二人じゃないですよね」

と言ったので、二人で笑った。


                                 (つづく)