ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「マクベス」について

2022-08-04 16:05:12 | シェイクスピア論
① マクベス夫人は想像力がないのか

スコットランドの将軍マクベスとバンクォーは、戦場からの帰り、三人の魔女に出会う。魔女たちは、マクベスはやがてコーダーの領主を経て王になり、
バンクォーは王にはならないが子孫が王位につくだろうと予言する。そこへ王ダンカンの使者が来て、マクベスがコーダーの領主に任命されたと伝える。
予言を信じたマクベスは、王位への野心を抱き始める。マクベス夫人は夫からの手紙で予言のことを知り、国王暗殺を企む。
ダンカン王はマクベスの城であるインヴァネスを訪れる。歓待のため一足早く到着したマクベスは、ためらい悩むが妻に励まされ、ついにその夜、
王を刺殺する。マクベスは護衛の二人に罪を着せて殺し、その場を何とか取り繕う。二人の王子マルカムとドナルべインは身の危険を察知し、それぞれ
イングランドとアイルランドへ亡命する。このことにより王子たちに暗殺の嫌疑がかかり、王の近親者であるマクベスが王位につくこととなる。

魔女の予言を共に聞いたバンクォーが自分を疑い始めたのを感じたマクベスは、暗殺者を送ってバンクォーとその息子フリーアンスを殺そうとするが、
バンクォー殺害には成功したものの、フリーアンスには逃げられてしまう。その夜開かれた晩餐会でマクベスは平静を装うが、バンクォーの亡霊が
現れたため怯えて錯乱する。他の者には亡霊は見えないため夫人はその場を取り繕おうとするが、結局晩餐会はお開きとなる。
不安を感じたマクベスは、自ら魔女たちのところへ行き、未来を問う。魔女たちは3つのことを告げる。
  ①マクダフに注意せよ
  ②女から生まれた者がマクベスを倒すことはできない
  ③バーナムの森が攻めて来ない限り、マクベスは安全である
マクベスは特に②と③を聞いてすっかり安心する。
この直後にマクダフが単身イングランドに亡命したと聞き、暗殺者を送って彼の城を襲わせ、妻と幼い子供たちを殺させる。

マクベス夫人は夢遊病にかかり、うわ言で自分の犯した罪を口走るようになる。
イングランドに逃げていた王子マルカムは祖国の窮状に心を痛め、マクダフらと共に挙兵する。
マクベスは魔女の予言を信じ、マルカムたちを迎え撃つと決めるが、夫人の死を知らされ、悲嘆にくれる・・・。

吉田健一の『シェイクスピア』を読んでいたら、「マクベス夫人は想像力がないのではなく・・・」とあってギョッとした。
というのも、ヤン・コットがマクベス夫人のことを「この女は想像力がなく・・・」と書いているからだ!
てっきり吉田はコットの説に反論しているものと思ったが、その後、どうもそうじゃなさそうだ、と気がついた。
コットの『シェイクスピアは我らが同時代人』はイギリス版出版が1964年、吉田健一の『シェイクスピア』が昭和31年つまり1956年出版だった。
つまり、吉田はコットより前にこのことを書いているのだ。
それにしても、ほぼ同時期に、二人がマクベス夫人について正反対のことを書いていたというのは、実に興味深い。   
夫人の想像力に関しては、もちろんコットの説は的外れだ。
マクベス夫人にも人並みの想像力があった。
彼女は夫が力づくで国王の地位に上り詰めた後のことも、自分が王妃となった後のことも、ちゃんと想像できていた。
ただ、国王となった後、夫が良心のやましさから恐怖にかられ、次々と人を殺めていくとまでは想像していなかっただけだ。
彼がしたこと、バンクォー殺しとマクダフの家族皆殺しは、する必要のないことだった。
言わば、彼を後戻りできないところまで追い詰めてゆくために悪魔がそそのかしたとしか言いようのないことだった。

② マクベス夫人はなぜ気が狂うのか

5幕1場。真夜中にマクベス夫人は暗い宮殿内を夢遊病患者のように歩き回りながら、とりとめもないことをしゃべり続ける。
この時、彼女はすでに気が狂っているのだから、その言葉には何の意味もない、と思ってはいけない。
実は、彼女の言葉にはすべて意味がある。
特に注目すべきなのは、前後と何の関係もなく唐突に彼女の口からもれる「地獄は真っ暗だ」(Hell is murky!)という一文だ。
これこそ日夜、彼女を追いかけ苦しめている恐ろしい幻だった。
地獄は、自分が今に間違いなく落ちて行かねばならない所であり、そこから何とかしてどこかに逃れたくてもどうしても逃れることのできない刑罰であり、
顔を引きつらせ、恐怖におののく彼女から出てくる呻きのような三語なのだ。

最初のダンカン王殺しは、ためらう夫を自分が強くそそのかしてやらせたことだが、当時、主君殺しや下剋上はそれほど珍しいことではなかった。
だから彼女も、親戚であり目をかけてくれた老王を殺すことにさほど罪の意識を感じなかった。
だが、その後のバンクォー殺しとマクダフの家族皆殺しは夫が単独で突っ走ってやったことだ。
彼女がマクベスに、何を企んでいるのか尋ねると、夫は答える。
  マクベス:かわいいお前は何も知らなくていい。
       あとでよくやったと褒めてくれ。(3幕2場)

特にマクダフの妻と幼い子供たちの虐殺は決定的だったろう。そのことを聞き知って、彼女の心は平静を失っていった。
知らなかったとは言え、夫がそこまで悪に手を染めたのも、元はと言えばあの時ダンカン王を殺すのをためらった彼を彼女が責め、それでも男かとなじりさえし、
叱咤激励して実行させたことが発端なのだから。
彼女は夫の運命と自分の運命とを分けて考えることができない。
二人はどこまでも一心同体なのだ。

このシーンで、気のふれた王妃がただもうわけの分からぬことを口走る、という演出をする人や、「地獄は真っ暗だ」というセリフを笑いながら言う役者がたまにいるが、
それは見当違いも甚だしい。

映像で見ただけだが、ジュディ・デンチの演技は、この場に最もふさわしいものだった。
彼女は長い長い、異様な呻き声をあげるが、それは己の罪の重荷に押しつぶされそうだからだ。

   マクベス夫人:やってしまったことは、元には戻らない(5幕1場)

ここには果てしなく深い絶望がある。
自分のしたことをなかったことにしたい、消してしまいたいのにどうしても消し去ることができない、自分の罪から逃れたくてもこの世のどこにも
逃げ隠れするところがないとすれば、気が狂わない方がおかしいではないか。
それと言うのも、彼女の中にもやはり正義感というものがあるからだ。
彼女は自分のしたことが罪であると自覚しており、罪を犯せば罰が下るということも信じている。
それが、何か人間的な感じを我々観客に与えるので、むしろほっとさせられる。
この辺から、妻と夫の関係が逆転し、夫の方は、ますます非人間的になってゆく。
そして、この戯曲の主人公の座からも降りることになる。
このことについては、またそのうち扱うことにしよう。




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「リア王」について Ⅲ

2022-07-05 00:29:47 | シェイクスピア論
③ 吉田健一の「リア王」論

「リア王について」で、我々はシェイクスピアの劇の中で最も残虐で陰惨なシーンを見てきた。
このシーンについて、吉田健一は「シェイクスピア」という書物の中で実に斬新な見方を述べているので紹介したい。
まずはストーリーに沿って彼の意見を聞こう。
(なお、以前にも書いたが彼の日本語は分かりにくいので適宜現代風に直し、さらに分かりやすいように書き直した)
   (リアは)人が自分に従うことに馴らされてきた・・それまで彼は人を愛するか憎むかで、疑うことを必要とせず、・・その前にその人間を
   悪人と信じて罰してきた・・言わば無垢な性格の持ち主である。
   この作品の中心をなしているのは悪の問題なのである。
   恩知らずの親不孝は、・・どこにでもざらにあるものなので、もしそのために苦しみたくないのならば、それに備えて国を娘に譲ったりしない
   のこそ賢明な策である。
   (長女)ゴネリルの冷たい仕打ちを怒って、リアが(次女)リーガンの領地に向けて立ち去る時、彼はすでに発狂の一歩手前まで来ている・・。だが
   リーガンとゴネリルの間にはすでに了解が出来ていて、・・ゴネリルもその後を追って現れ、リアは二人の娘と対決することになる。
   ここで最も我々を打つのは、リアとその二人の娘が出会う時には常にそうであるが、この場面でも、常識的には理が娘たちの方にあることで、
   言葉の表面の意味だけを取れば、リアはいかにも頑固で分からず屋の年寄りなのであり・・。

「常識的には理は娘たちの方にある」!
この意外な見方には驚かされる。
これまでこういうことを言った人がいるだろうか。
だが姉たちの側に身を置いて考えてみよう。
リアは自分で言っているように、老後は末娘コーディーリアに世話されて暮らすつもりだった。
ところが、末娘の思いがけぬ冷淡な言葉を聞いて逆上したため、急に今後の暮らし方を考え直さなければならなくなって、とっさに百人の騎士を引き連れて
一ヶ月ずつ長女の城と次女の城に居候しよう、と思いついた。
姉娘たちからすれば迷惑この上ないことであり、えっそんなの聞いてませんけど!というのが彼女らの気分だろう。
おまけに父王は、だいぶボケが進んでいる。
  ゴネリル「お父様は歳のせいですっかり気まぐれにおなりだわ・・」
  リーガン「耄碌したのよ。もっとも、昔からご自分のことは少しもお分かりじゃなかったけど」
  ゴネリル「一番元気でしっかりしていた時だって見境がなかった。その上あのお年でしょう、覚悟しとかなきゃ。」
それに、そんな父に末娘は可愛がられたが、上の二人の娘たちはどうだったか。

   多神教の時代に住むリアには(唯一)神の観念がないが、娘たちの背後には悪の世界があり、その悪の世界を通して結局は神とリアが向き合っている。
   彼はついに完全に錯乱する。これが劇の頂点である。
   リアを苦しめる舞台全体の心理的緊張は続く。しかも増してゆく。
   これは生理的にも、観衆にも長くは耐えられない、それ故そこには当然一つの破綻、あるいは爆発が期待される。

それが3幕7場の老グロスター拷問のシーンだと吉田は言う。

   嵐の場面も含めて、これまでの動きのすべてがこの場面を必要としている。
   このような残忍さが3幕にわたって押し上げられて来たのであり、だからこそリアは発狂した。だがまだ解放ではない。
   蓄積された力は放出されねばならない。
   この場面で、それまで閉じ込められていた力がはけ口を与えられたために、ゴネリルやリーガンの世界とは別な世界が展開する余地が生じる。
   そういう意味で、グロスターが眼を抜かれるのは解放である。

この思いがけない、大胆な分析はどうだ!
「グロスターが眼を抜かれるのは解放である」!
傍点をつけたいところだが、ブログではつけられなくて実に残念。
彼のおかげで新しい視点が開けてくる。
気の毒な老グロスターは、ここで両目を失って初めて息子たちの真の姿が見えてきた。
父親に謀反を企むとんでもない悪党だと信じ込んでいた長男エドガーが実は無実で、それを自分に吹き込んで信じさせた次男エドマンドこそ、父を殺すことも厭わない
謀反人だったと知るのだ。
つまり、盲目となって初めて、言わば目が開けたのだった。
この後、城を追い出された彼は、あてもなくさまよううちに、身をやつしたエドガーに発見される。
エドガーは、父の家来たちに追われて逃げ、狂人に扮して洞窟に隠れていた。
彼は盲目となった父を見て激しいショックを受けるが、涙をこらえ、言葉使いを変え、自分の正体が父にバレないように努める。
そして父が行きたいと言うドーバーまで道案内するのだ。
こうして二人の道行が始まる。
エドガーは、父が絶望のあまりドーバーの断崖から身投げするつもりなのを察し、何とかしてそれを阻止しようとする。  
その途中で、彼らは狂ったリアに出会う。
リアもまた、今ようやく娘たちの真の姿が見えるようになったのだった・・・。

   コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、人間の世界を問題とするならば、
   そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。
  
   かつてこの芝居の結末をハッピーエンドに書き直したものが上演されていたことがある。
   そこではフランス軍が勝ち、ゴネリル・リーガンの一党が敗れ、リアが復位して安穏に余生を送る。
   だがそうなると、人間と人間悪の問題は放棄されてしまう。
   悪に抗議することは人間の倫理的要求であるのみならず、芝居の観衆の生理的欲求でもある。
   このことがこの作品の筋を決定している。

この劇のあまりに悲劇的な結末に耐えられなかった人は、ヤン・コットだけでなく、以前から多くいたらしい。
18世紀に流行した改編版というのがあり、そこではリアは復位し、コーディーリアとエドガーがめでたく結ばれる(笑)。
フランス王はどうなったのか、と少々気になるが、とにかくこの二人は同世代で善良であり、身分上も何とか釣り合うのだから、
二人を一緒にしたくなる気持ちは、わからなくはない。
ちなみに評者は子供の頃、子供向きのダイジェスト版を読んでケント伯爵に感動し、この人とコーディーリアが結ばれればいいのに、と思っていた(笑)。
ケントは48歳だと自分で言っており、当時の感覚からすると、すでにかなりの年寄りだ、と気づいたのはだいぶ経ってからだった。

吉田は「悪に抗議することは人間の倫理的要求であるのみならず、芝居の観衆の生理的欲求でもある」と言う。
「悪に抗議する」とはどういうことかと言うと、悪人共が戦いに敗れ、善人が勝利するという勧善懲悪ではなく、この世の現実を忠実に反映して、
悪が栄え、善人が滅びるという過酷な不条理を観客の眼前に描き出すということだ。
悪が初めからなかったかのように簡単に消滅し、リアが元の地位を取り戻したのでは何の解決にもならない。
そんなハッピーエンドこそ、ただの絵空事に過ぎず、誰の心をも打つことはない。
乱れに乱れた世界がようやく秩序を取り戻した時、犠牲も生じる。
それがリアとコーディーリアの死、父グロスターの死なのだ。
悪人共の悪事はすべて露呈し、彼らはみな死ぬ。
それは観客にとってまことに喜ばしいことであり、すべての人に満足をもたらすものだ。
人間には「正義」の感覚が与えられているから。
だが善人たちもまた、数人を除いて死んでしまう。
悲しみに満ちた結末だが、この世の不条理を直視しているという点で極めて現代的であり、だからこそ深い感動を与えてくれるのではないだろうか。








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「リア王」について Ⅱ

2022-05-28 22:36:17 | シェイクスピア論
<ヤン・コットのリア王論>

ヤン・コットは1914年にポーランドで生まれた学者・評論家で、ナチス占領下でレジスタンス運動に参加。第2次大戦後はマルクス主義者として
社会主義リアリズムを奉じて戦った。だが戦中にナチの暴虐を味わったように、今度はスターリン主義の圧迫を知ることとなり、教条的な立場とは
手を切る。演劇評論を始め、1964年に英語版が出版された「シェイクスピアはわれらの同時代人」という書物で一躍有名になった。
彼はその中で多くの注目すべきことを述べているが、特に「リア王」の解釈は有名だ。
彼はこの作品をベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」と呼応するものとして論じ、シェイクスピア劇を初めて不条理劇としてとらえ、世界中に大きな衝撃を与えた。
彼は「リア王」のグロテスク性に注目し、この劇をグロテスク劇と呼ぶ。以下はその引用。

  (ここでは)悲劇的な要素に代わってグロテスクの要素が正面に出てきている。グロテスクの劇は悲劇よりも残酷なものなのだ。

  悲劇とは人間の運命についての考察であり、「絶対」についての判断の表現である。
  それに対してグロテスク劇とは「はかない人間の経験の名においてなされる、絶対への批判である。

ここで彼が言う「絶対」とは神のことだ。
  そこでは主人公は絶対に対して戦いを挑んでは必ず敗れ去らなければならない。

  だから悲劇がカタルシスをもたらすのに対し、グロテスク劇は一切の慰めを与えない。

だが果たしてそう言い切れるだろうか。
我々は「リア王」を見終わった時、カタルシスを得られないだろうか。
ここでこの問いに答える前に、今しばらくコットの論に沿って、見て行こうと思う。

  悲劇においては、人間に逃れようのない状況を押しつける主体は、時代によって神々、運命、キリスト教の神、自然、理性と必然をそなえた歴史などだった。
  だが、グロテスク劇においては、人間の破滅を絶対の責任にすることはできない。
  絶対には究極の理性など備わってはいない。それはただ人間よりも強いというだけのことである。絶対は不条理なのだ。(だから)動き出したら止まらないメカニズム
  という概念がよく使われるのであろう、非人間的で冷酷なメカニズムが悲劇における神や自然や歴史にとって代わっている。・・・不条理なメカニズム・・・

 「リア王」の主題は(人間の)旅路の意味の探究、天国と地獄とが存在するかしないかという問題の探究なのである。

ここで彼は「リア王」を「第二のヨブ記」と呼ぶ。
旧約聖書のヨブ記では、義人ヨブが、突然苦難に襲われ、なぜ自分がそのような目に合うのか分からず、慰めに来た友人たちと長い問答を繰り広げる。
コットは、この戯曲で、冷酷な野心家や平気で人を殺すような悪い奴らだけでなく、善良な人々までが最後には死んでしまうことが、耐えられず、どうしても
受け入れられない。
   この戯曲には、キリスト教的な天国もなければ、ルネサンスのヒューマニストたちが存在するといい、また信じてもいた天国も、やはりない。地上に実現すると
   約束された天国も、死後に約束された天国も、――言い換えれば、キリスト教的・世俗的両方の神義論が、愚弄されている。さらには・・・神々も、神の姿に
   似せて造られた者としての人間も――すべてが愚弄されているのである。「リア王」」においては、中世的であれルネサンス的であれ、既成の価値体系が崩壊
   しているのだ。

つまりニヒリズムということだ。
なぜ善人も死ぬのか。ハッピーエンドでないのか。
それをコットは糾弾して止まない。
だが、そもそも文学作品や芸術作品において、ハッピーエンドであることがどうしても求められるのだろうか。

たとえばワーグナーの楽劇「タンホイザー」の場合を見てみよう。
騎士タンホイザーは、女神ヴェーヌスのいるヴェヌスベルクで享楽の愛に溺れていたが、故郷に戻ってくる。
「愛の本質」という題の歌合戦で、別の騎士が清らかな愛の理想を歌い、皆がそれに賛同すると、彼はつい立ち上がって、
それは間違いで、享楽の愛こそ本当の愛なのだと歌う。みな怒り出すが、彼は夢中になり、ついにヴェーヌスを讃え、ヴェヌスベルクにいたことが露見してしまう。
女たちは逃げ去り、男たちは剣を抜いてタンホイザーに迫る。だがエリーザベトが必死で彼をかばい、彼に信仰への機会を与えるよう説く。
タンホイザーはこの時悔悟し、罪の許しを乞うためローマへの巡礼に出発する。
エリーザベトは聖母マリアに祈りを捧げる。彼女は巡礼の列に恋人の姿を探すが見つからない。
タンホイザーは法王から、杖に葉が生え花が咲くことがないように、ヴェヌスベルクへ行った者に救いはない、と言われて絶望し、再びヴェヌスベルクの歓楽を
求めようとする。
だがその時エリーザベトの遺骸を運ぶ葬列が近づき、彼はついに迷いから覚める。
彼女の亡骸に身を伏し、タンホイザーは息絶える。
だが、そこに現れた若い巡礼の手には、葉が生え花が咲いた杖が掲げられていた。彼の魂は救われたのだ。
ここで女は男のために自分の命を犠牲にして死ぬが、せっかくそうまでしたのに救われた男も死んでしまう。
だが、見ている我々は、その時、すべてが虚しい、と暗澹たる気分に陥ったりはしない。
そこに不条理を感じることはない。
かえって、そこに救いを、正義の成就を、愛の勝利といったものを実感して心が満たされるのを感じる。
それは一つの解決、完成ということを意味している。

・・・だがこのたとえは適切ではなかったかも知れない。
ここにはキリスト教の神と救いと天国とが厳然としてあるからだ。
「リア王」の世界はキリスト教以前の世界であり、多神教であり、天国も何もない。
だからグロテスクと言いたくなるコットの気持ちもわかる。
リアは最愛のコーディーリアを失い、高齢ゆえ自分もまもなく後を追うとわかっているが、死後天国で再会できるという希望はない。
だが、それを見ている我々にカタルシスがないというのは違う。
悪は滅び、よこしまな企みは露見し、悪人どもはみな死んだではないか。
リアは超高齢で、もっと早く死んでいてもおかしくはなかった。
老グロスターは善良な人だから痛めつけられて気の毒ではあるが、少しばかり知恵が足りなかった。
彼の次男は愛人が産んだ子だが、彼は「こいつが出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ」( there was good sport at his making )と臆面もなく回想している。
若い頃のそういう遊び半分の行動と、人を見る目がなかったこととが、人生の最後になって思わぬ災厄をもたらした。
自らまいた種と言えなくもない。
リアも同様。
コーディーリアは親孝行な娘の代名詞のようになっているが、自分の信条に忠実なあまり、かたくなで融通が利かない。
彼女の死はもちろん衝撃的だが、そもそも彼女の存在自体、この作品においては記号のようなものとも言える。
リアの老いによるわがままと奇妙な思いつき、そして彼女の頑固さが、そもそもこの物語の発端であり、それらがなければ、この作品は誕生しなかった。

   良い娘が殺され、悪い娘たちも死ぬ。二人は姦通した女になっている。一人は夫を殺し、妹に毒を盛る・・・。ここではあらゆるきずなは断たれ、あらゆる
   掟は―神の掟、自然の掟、人間の掟のどれも―破られる。王国から家庭に至るあらゆる社会の秩序はこなごなになってしまう。もはや君臣、親子、夫婦などという
   関係は存在しないのだ。ただ、洞穴の中の怪物のように互いに食い合う、ルネサンスの動物譚に現れるような巨大な野獣がいるだけである・・・

ここで我々はコットのレトリックの迫力に圧倒され、飲み込まれそうになるが、流れに逆らって、ちょっと待て!と言わなければならない。
ゴネリルもリーガンもまだ「姦通」してはいない。ゴネリルはエドマンドに夫を殺させたいと思ってはいるが、まだ「夫を殺し」てはいないのだ。
「あらゆるきずなが断たれ」てしまったわけではないし、「あらゆる社会の秩序がこなごなになって」しまったわけではない。
若きエドガーが老父グロスターの命を助けるためにどれほど苦心していることか。
さらに自殺を思いとどまらせるため、父の弱った心に衝撃を与えないように、どれほど心を砕いていることか。
彼が父を深く愛していることは誰の目にも明らかだ。
また、コーディーリアの父リアへの愛を疑う者はいないだろう。
「もはや君臣、親子、夫婦などという関係は存在しない」というのも暴論である。
主君リアに対するケントの敬愛と無私の献身を見よ。
「良い娘」であるコーディーリアが非業の死を遂げる、というショッキングな結末ゆえに、コットはこうした極端な論を展開するが、
この時彼は、作品世界の半分しか見ていない。
残りの半分を忘れている。いやあるいは、あえて見えないふりをしているのかも知れない。
吉田健一の言葉を借りれば「コーディーリアがいないでゴネリルやリーガンばかりの世界を人間の世界であるとするのは虚偽であり、
人間の世界を問題とするならば、そこにコーディーリアが登場するのは避けられない。」

木下順二も言っていることだが、コットはこの戯曲をあまりにも主観的に、自分の苛酷な体験からとらえてしまっている。
シェイクスピアは、決してコットが見ているようには世界を見てはいない(16世紀から17世紀の人だから当然のことだが)。
彼の作った「リア王」の世界は、ちゃんと善悪の、そして明暗の、バランスが取れているのである。
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「リア王」について

2022-05-07 16:15:33 | シェイクスピア論
シェイクスピアの作品について折に触れて書いてきたものを、これから時々ここに発表しようと思います。
まずは悲劇の極北、「リア王」から。
<リア王>
① 誰の召使いか
 ブリテンの老王リアは三人の娘たちに領土を分配して隠居することにし、どの娘が一番の孝行者であるかを判断するため、それぞれに自分への情愛の深さを
述べさせることにする。すでに結婚している長女ゴネリルと次女リーガンは父への孝養を大げさに誓うが、リアが一番気に入っていた未婚の末娘コーディーリアは
美辞麗句を好まず、素っ気ない言葉を口にしただけだった。リアは怒って彼女を勘当し、二人の姉娘にすべての権力、財産を譲ってしまう。
末娘に求婚に来ていたフランス王は、持参金無しで彼女を王妃として連れ帰る。
 リアはゴネリルの城に一ヶ月滞在するが、百人の騎士たちをお供にしていたこともあり、次第に彼女から疎んじられるようになる。ついに二人は激しく衝突し、
リアはリーガンの城に向かうが、リーガンはゴネリル以上に冷たかった。リアはコーディーリアを勘当したことを後悔し、半ば狂って嵐の夜に荒野をさまようのだった・・・。

これが「リア王」の主筋(の前半)だが、この芝居にはそれと並行して副筋がある。
リアの家臣グロスター伯爵には嫡出子である兄エドガーと庶子である弟エドマンドがいた。兄はのんびり屋だが弟は腹黒く陰謀を企み、兄が父の暗殺を企んでいると
父に告げ、信じ易い父をまんまと騙して兄を城から追い出すことに成功する。
父グロスターは、コーディーリアが姉たちの父への仕打ちを伝え聞きフランスから軍を率いて攻めて来るという情報を得、雨のなか城を追い出されたリアを助けて
ドーヴァーまで送るべくひそかに城を出るが、その前に、孝行息子と信じているエドマンドにこれを漏らしてしまう。
エドマンドは出世の機会とばかりにすぐさまコーンウォール公爵に知らせる。
リーガンと夫コーンウォール公爵は帰って来たグロスターを裏切り者として拷問する。

場所はグロスター伯爵の城である。
ここに客として来ていた新国王夫妻、すなわちコーンウォール公爵とリーガンは、グロスターが敵と通じていると知って怒り狂い、連れて来た家来たちに向かって、
彼を縛り上げろと命じる。この城に元からいる伯爵の家来たちは、何もできずに遠巻きにして震えながら見ているのだろう。
「火のようなご気性」と言われるコーンウォール公爵は、グロスターの片目をえぐり出す。
もう一つの目もそうしようとすると、あまりの残酷さに耐えられなくなった召使いの一人が止めに入る。
 召使いⅠ:お控え下さい。
      子供のころからお仕えして参りましたが、
      こうしてお留めするのが、これまでで
      一番のご奉公です。    (松岡和子訳)
さて、ではこの男は誰の召使だろうか?
松岡訳では、目的語が訳されていないのではっきりしない。
つまり、この男が誰にお仕えしてきたのか、誰を留めようとしているのか、誰に対して一番のご奉公だと主張しているのかが分からない。
他の翻訳家の訳もほとんど同様。
たとえば小田島雄志訳ではこうだ。
 召使い1:子供のころよりご奉公してまいりました私ですが、
      これまでのなによりも、いまお控えを願うことが
      最上のご奉公と心得ます。
日本語の特性から、「あなた」という目的語を使わなくても済むし、むしろ使わない方が自然なのだ。 
そのため、彼をグロスター伯爵の召使だとする誤解が生じる。
残りの目をもえぐり出されようとするグロスター伯爵を救うためにコーンウォール公爵を止めるという行為は、身分の違いから考えて、当然死を覚悟してのことだ。
これはグロスターの家来にとって最高の忠義の行為であり、命懸けの行為であるゆえに「これまでで一番のご奉公」に違いない。
やられるのが片目だけで済めば、完全に盲目にはならずに済むのだから。
だが果たしてそうだろうか。
原文は、こうだ。
 servant :     Hold your hand,my lord.
   I have served you ever since I was a child ,
   But better service have I never done you
  Than now to bid you hold
これを見れば明らかなように、彼は公爵に向かって「あなたにお仕えしてきた」と言っている。
ここで公爵を止めたのは拷問されている伯爵の家来ではなく、拷問している公爵自身の家来だった。
公爵自身の召使いが、恐れ多くも主人である公爵を止め、その行為が「あなたさまに対する最高のご奉公です」と言うのだ。
一体どういうことだろうか。
それは、残虐な行為を止めることによって、自分の主人が大きな罪を犯すのを防いで差し上げることになるからだ。
そこには、罪を犯せばそのままでは済まない、相応の罰が下される、という共通認識がある。
それを防ぐことは、(片目が助かるグロスター以上に)むしろコーンウォールの方にこそ「ためになる」ことなのだ。
召使が主人のためにできる最大のこととは何か。
それは主人が最悪の状態に陥るのを防ぐこと、すなわち大罪を犯す(その結果恐ろしい罰を受ける)のを未然に防ぐことに他ならない。
このことはキリスト教圏では当然の認識だろう。
だから特別な知識がなくても、どんな観客でもすんなり理解できるはずだ。
この男が誰の召使いかということが、どの注解書にも載っていないのは、わざわざ載せる必要がないからだ。
調査したわけではないが、この点を誤解してしまうのは、キリスト教にうとい日本人だけなのかも知れない。

吉田健一という作家がいる。この人は翻訳家ではないが、『シェイクスピア』という評論の中で「リヤ王」のこの部分をこう訳している。

召使の一人:お控えなさい。
      私はまだ子供の頃から貴方にお仕えしていますが、
      お控えなさいと今、貴方に言う程、今までに
      貴方に尽したことはないのです。
ここではすべてが明らかだ。
他の翻訳家たちが誰も使っていない「貴方」という言葉を、彼は三度とも使ってくれている。
吉田健一は十代の頃から英国で教育を受けたので、英語がネイティヴ同様にできたらしいが、その代わり残念ながら日本語がイマイチで、
読んでいて何を言っているのか理解するのに苦労する時がある。
ここの訳も日本語としてこなれているとはとても言えないので上演に使うのは無理だが、彼のお陰で原文に当たらなくても人間関係が一発で分かる。

ちなみに、ここで一人の名もない召使いが命懸けでコーンウォール公爵を止めようとしたことは、ストーリー展開上大きな意味を持つ。
この男は背後からリーガンに殺されてしまうが、公爵の方もこの時負った深手が元で、まもなく死ぬ。
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 未亡人となったリーガンは、かねて惹かれていたエドガー(父と兄を策を弄して蹴落とし、庶子でありながらまんまとグロスター伯爵となりおおせた)に急接近 
            ↓ 
 やはりエドガーに惚れている姉ゴネリルは(夫がまだ生きているので)気が気でなく、ついには妹に毒を盛って殺してしまう。

つまり、この後の一連の手に汗握る展開も、この無名の召使いの勇気ある行為あればこそ可能となったのである。







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