ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「夜は昼の母」

2024-03-05 10:54:46 | 芝居
2月27日風姿花伝で、ラーシュ・ノレーン作「夜は昼の母」を見た(演出:上村聡史)。



鳩が鳴く
ダヴィドは母のナイトガウンを着る
ここは父が経営する小さなホテル
今日はダヴィドの16歳の誕生日
兵役を経験した兄
咳が止まらない母
ひたすら喋り続けては空回りする父
家族が奏でる追憶の四重奏(チラシより)

スウェーデン人ラーシュ・ノレーンの代表作にして問題作とのこと。日本初演。

役者は4人。そのうち3人は岡本健一、山崎一、那須佐代子という、一人でも是非とも見に行きたい人だから、これはもう見逃す手はないでしょう。
作者の自伝的要素が強い作品らしい。



舞台は横長で狭い。小さなホテルの小さなキッチン。
壁の色がすごい。赤にくすんだ黒などの色が混ざっていて、不気味で不穏。とてもホテルとは思えない(美術:長田佳代子)。
ダヴィドが一人、母の赤いガウンをはおり、口紅を塗って鏡を見る。
兄イェオリが来て「気持ち悪い」とか言うと、彼はすぐにガウンを脱ぎ、口をぬぐって言う、
「何のことか意味わかんない」。
今日は彼の16歳の誕生日。
彼はゲイで本好きだが、学校にも行かず、たまに皿洗いをするくらいで働かず、一日中家にいて、鳩にえさをやったり、夜中にキッチンで勝手に肉を焼いて食べたり。
兄に言わせると「甘やかされている」。
この兄はサックスを吹く。
父が来る。
このホテルは客室が19室あるが、今、客はいない。
だがいつ来るか分からない客のために料理は用意しておかねばならない。
食材の代金の支払いを猶予してほしいと手紙を出したが、相手から冷淡な返事が来て頭を抱える。
母も来る。咳が止まらない。
父はかつてレストランに雇われていて、夜中まで働いていた。
どんなに貧しくても、あんな生活にはもう二度と戻りたくない、と言う。
妻の両親が金持ちなので、彼はお金の工面をしてもらえないかと聞くが、妻は親に電話したくない、と言う。
彼は金がなくて大変な状況だというのに、仕入れの電話で、いつも通り酒類をたくさん注文する。
もともと感覚がおかしいのか、それとも酒だけは特別で、(後から分かるように)理性がまったく効かないのか。
彼は子供の時、父親が逮捕され、それ以来働きづめだった。彼は妹を養わないといけなかった。

兄は両親がダヴィドを甘やかしていると言うが、母は母なりに次男の将来のことを心配していた。
ただ、彼女は息子をよく理解できていない。
ある日突然、彼女はダヴィドに、明日、船乗りになるための手続きに行くから早く寝るようにと言う。
ダヴィドはショックを受けて断固拒否。
「船なんて男の世界だよ!」とか叫んで床を転げ回る。
確かに、船乗りの男たちの中に入るなんて、彼にとっては恐怖以外の何物でもないだろう。

一人になると、父は流しの下の鍵のかかる戸棚の中から、隠しておいた酒を取り出して飲む。
その小瓶は元に戻すが、その後やって来た兄が父の様子に気づき、しばらく無言でにらみつけていて、突然襲いかかる。
「こいつ飲んでる!」
父は「一滴も飲んでない!」と否定し続けるが、母と弟はショックで愕然となる。
3人がかりで父を押さえつけ、ポケットというポケットを探って鍵を見つけて奪う。
その間、父はみんなを罵倒し続ける。

実は去年の夏、母と長男が留守中、父はへべれけになり、せん妄を起こし、ダヴィドがそれに付き合わされたことがあった。
従業員が救急車を呼んでくれ、父はそれからしばらく施設に入っていた。
3人は週に一度面会に行った。
医者は「もうちょっとで死ぬところだった」と言ったという。

母「お酒さえ飲まなきゃ、あなたほど優しくていい人はいないのに」
 「もう飲まない、と言うのを、そのたびに信じて来た」
母はついに別れる決心をし、カバンに荷物を詰め「両親のところに行くわ。ダヴィドも連れて行きます」。
必死に止める父。
「○○(という薬)を飲むから!あれを飲んだら酒が全然飲めなくなるから」と母の腰にしがみついて頼むので、母は結局思い直す。

母は明るい顔で厨房に入り、夕食を作る。
ダヴィドは(たぶん呆れて)そんな母のセリフをいちいち真似する。
父も明るく入って来る。
二人はすっかり仲直りしたのだ。
だが父は一人になると、今度は床の一段高くなったところの羽目板をはずし、中から別のジンの小瓶を出して何度も飲む。
「本当はジンなんて嫌いなんだ」と言いながら。
それをダヴィドが見ていた。
さらに父は、もっと驚くべき場所に3本目の小瓶を隠していた・・・。
ここは唯一、笑えるところ。
ダヴィドはそれも目撃し、母を呼ぼうとするので、父は必死で止め、金をやるから、と買収しようとする。
だがダヴィドが金額を吊り上げたため、断念する・・。

父はこうして何度も飲んだので、かなり酔いが回っているが、自分の妹に電話して金を借りようとする。
母と息子たちが邪魔するので父は別の部屋に立てこもる。
母たちは、何とかして部屋に突入し、睡眠薬を飲ませて寝かせてしまおうとする・・。

こういう騒ぎに至るまでに、二度ほどダヴィドの妄想のようなシーンが挿入される。
家族4人がいる時、ダヴィドが突然、母親ののど首をナイフで掻き切るシーン。
そして、ダヴィドが父をコートの上から刺し殺し、直後に父のナイフが彼の首に刺さるシーン。
いずれも観客はびっくりだが、暗転の後、何事もなかったかのように4人がそろっているのだった。

みんな、愛憎の振れ幅が大きい。
母が別れようとすると、父は母のことを悪く言い始めるが、それが聞くに耐えない罵詈雑言。
果ては「俺は女とやって楽しかったことなんか一度もない」などと口走る始末。
ダヴィドが時に口にする言葉もひどい。
「ママの股の間からは嫌な臭いがする・・」などと、リア王のようなことを言う。 

テネシー・ウィリアムズの「夜への長い旅路」を思い出した。
あれは、この作品以上に長くて重苦しい芝居だった。
精神を病んだ母、詩人肌の弟、ケチで愛情薄い父親・・。

男たちは時に小さなナイフをちらつかせる。
駄目男に愛想をつかしては、また性懲りもなく信じようとする女。
母はしょっちゅうタバコを吸う。ダヴィドの言うように、咳はそのせいだろう。
母の父への愛は痛いほど伝わってくる。
だが父の母に対する思いは、というと、難しい。
かつては好きだったようだが、性格があまりにも弱いため、アル中という自分の病気を客観的に見ることがどうしてもできない。
自分が家族を苦しめていることに気づいていないのか、それともそういう現実から目をそらしているのか。
始めは次男がゲイで引きこもりであることが、この家族の抱える一番の問題なのかと思ったが、そうではなかった。
だが、壁の色は、ちょっとやり過ぎではないだろうか。
それほど陰惨な話ではないのだから。
チラシにあるように、これは「追憶」の物語だし、この家族には愛と絆がまだ確かに残っているのだから。

4人の役者の火花散る演技がすごい。
まさに期待通り。
戯曲としては長すぎるし、ラストが弱いのが残念だが、この人たちの入魂の演技は一瞬たりとも目が離せないし、
その迫力と来たら凄すぎる。
父親役の山崎一の変幻自在、その声の微妙なニュアンスの変化の大きさ!その笑い声も然り。
母親役の那須佐代子の美しさと情愛と決然たる態度、そして変貌。
ダヴィド役の岡本健一は、確か50代のはずなのに16歳を軽々と演じてまったく何の違和感も感じさせない!
うまい人が演じると、こんなことが起こるのか。



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「スターリン」

2024-02-22 11:50:58 | 芝居
2月13日俳優座スタジオで、ガストン・サルヴァトーレ作「スターリン」を見た(演出:落合真奈美)。



一つの戯曲を3人の演出家が、それぞれ違う役者たちと上演するという変わった試み。
しかも今回、出演者の数も3人、7人、5人と、それぞれ違う!
その中の、7人のヴァージョンを見た。

1952年末から1953年初頭。
モスクワから32キロ離れた独裁者の別荘。
別荘は24時間1200人が警備にあたっている。
齢70を越える老スターリンはいまだ意気軒昂。権力の妄執に囚われている。
折しもモスクワで老ユダヤ人役者サーゲリがリア王を演じている。
リア王で自分を揶揄していると勘ぐったスターリンはサーゲリを別荘に呼びつける。

片やリア王を演じてサーゲリの真意を突き止めようとするスターリン。
片や道化となって逆にスターリンの虚像と実像を暴くサーゲリ。
独裁国家だったチリからドイツに亡命した作者が、独裁者とはなにかを問う渾身の劇が始まる(チラシより)。

開演前に用語解説の資料が配られた。まるで劇団チョコレートケーキ(笑)
スターリンというのが実は「鋼鉄の人」という意味の異名で、本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリだというのでびっくり。
予備知識を頭に入れて、いざ観劇。
<1幕>
舞台には、黒っぽい硬い枠が高くそびえて斜めに並んでいる。
その奥に大きなひじ掛け椅子、その後ろには黒電話の載った机、その背後にさらに暖炉らしきもの。
下にチロチロ燃える火が見える。

「にがい道化」と、いきなりシェイクスピアの引用から始まる。
ユダヤ人の老俳優(巻島泰一)と独裁者スターリン(島英臣)が、「リア王」の中のセリフを次々と口にする。
この劇中劇のセリフが古めかしくて独特。私の知っている誰の訳とも違う。
たぶん今回の翻訳・ドラマトゥルク担当の酒寄進一氏がドイツ語の原作を訳したものだろう。

スターリン「リア王は政治劇だ」「シェイクスピアはリアの過去を書いていない。リアは権力を手にするために何をしてきたか。
      きっと・・・。グロスター家の話はリアのかつての姿だ」
サーゲリ「ではリアは(二人の兄弟の)どっちでしょう・・・エドマンドですね」
このように、スターリンは「リア王」の内容を熟知しており、彼の「リア王」論はちょっと変わっているが、なかなか興味深い。

夜中なのに、上で金づちの音がする。
スターリンは夜眠れず、「起きているのが自分だけでないと思いたいがために」こんな時間に改築の仕事をさせているのだった。

サーゲリの一人息子ユーリも劇団関係の仕事をしていて、一時逮捕されたが、釈放されたという。
スターリンには息子が2人と娘が1人いる。長男はドイツの強制収容所で死んだ。
サーゲリとスターリンには共通点が多い。
二人共、貧しい家に生まれ、神学校に入ったが途中で辞めた。
だがサーゲリはユダヤ人。そこが大きな違いだ。
彼はユダヤ人仲間の俳優が暗殺されたと聞いて驚く。
実は彼は、学校時代、迫害を恐れてキリスト教に改宗していた。
だがユダヤ教徒でなくなっても、ユダヤ人であることに変わりはない。
<2幕>
スターリンは疑心に駆られ、政敵ばかりか側近も次々と粛清して来た。
そのため晩年は怯える日々。眠れぬ夜が続く。
彼はソビエト国内の全ユダヤ人をロシア極東へ強制移住ないし虐殺する準備を始める。

暗転の後、サーゲリは縦縞の囚人服を着て手錠をかけられている。
スターリンが彼の姿を見て驚き、けしからん、と言って手錠の鍵を取って来ようとするが見つからず、済まない、と謝る。

「今世間で流行っているジョークを言ってくれ。私を一回笑わせるごとに、ユダヤ人を一人許すことにする」
こうしてサーゲリは懸命にジョークを言い、4回くらいうまくいくが、最後のジョークは笑えなかった。
それは「私についてのジョークを言ってくれ」とスターリンが言い出したからだ・・・。
スターリンは薄い笑みを浮かべて言う。
「君に悲しい知らせがある。君の息子は・・の監獄に移され、〇〇日、心不全で死んだ」
サーゲリ「噓だ!嘘だと言ってくれ!」
彼はショックのあまりよろめく。
そして「リア王」の最後のセリフを言い始める。
「・・・鏡をくれ。
息でおもてが曇るかかすむかすれば
ああ、そうなら、生きている。・・
羽根が震えた。生きている!もしそうなら、
今日までなめてきた辛い思いの数々が
すべて一度に償われる。・・・
可哀想に、俺の阿呆が絞め殺された!もう、もう、命は
ない!
犬にも、馬にも、ネズミにも命がある。それなのに
なぜお前は息をしない?、もう戻っては来ない、
二度と、二度と、二度と、二度と、二度と!
・・頼む、このボタンをはずしてくれ。ありがとう。
これが見えるか?見ろ、この顔、見ろ、この唇、・・・」(ここは正確ではなく、松岡訳からの引用)
こうして彼は倒れる。幕。

いやあ驚きました。
途中までは面白かったのに、最後がいけない。
天才・沙翁の創作した、胸が締めつけられるようなセリフを使えば、観客の心をつかみ、泣かせることができると思ったのか。
これってまさに、「人のふんどしで相撲を取る」ってことじゃないですか!?
実にけしからん。
ずるいし、あまりにも虫が良すぎる。

役者では、何と言ってもスターリン役の島英臣の張りのある声が素晴らしい。
演出については、後ろにうごめく何人もの人たちは、むしろ邪魔だった。
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「兵卒タナカ」

2024-02-13 22:28:00 | 芝居
2月5日、吉祥寺シアターで、ゲオルク・カイザー作「兵卒タナカ」を見た(オフィスコット―ネ公演、演出:五戸真理枝)。





貧しい農家の出身である兵卒タナカは休暇をとり、戦友ワダとともに実家を訪れる。
軍人となった息子が帰ってくることを一家は喜び、贅の限りを尽くして迎え入れるが、村は不作が続き、大飢饉のまっただ中にあった。
自身の軍人という身分が、もっとも身近な存在の犠牲により成り立っている現実を突き付けられたとき、
タナカが信じて疑わなかった世界が音を立てて崩れていく・・・(チラシより)。
ネタバレあります注意!

舞台中央に、一段高くなった菱形の大きな台が設けてある。
白い簡素な服の人々が入って来る。
台の上で4人がゆっくり動くと雅楽が鳴り響くが、途中からグレゴリオ聖歌風の曲が混ざり、両者が渾然一体となって響く。
天井から濃い灰色の球が下がっていて、人々はそれに向かって手を伸ばす。

タナカの実家。
祖父、母、父、近所の人。
タナカがワダを連れて帰省する。
彼は新聞で、このあたりが大飢饉と知り、土産に焼酎と魚の干物を持参したが、両親は酒に白米、大きな魚まで出してもてなす。
「大飢饉なのに、どうしてこんな金がある?」と問うと、母は「へそくりだよ」などと言い、二人共、のらりくらりとごまかす。
そして、妹のヨシコがいない。
実は、ワダはタナカからヨシコの話を聞いて、彼女と結婚しようと思い、二人はそのこともあって帰省したのだった。
ヨシコは?と問うと、両親は「山の方に行った」「山をいくつも越えた所」「大百姓のところに働きに行ってる」と言う。
いつ戻る?と問うと、「何年たったら戻って来るって言ってたかなあ」と母。
父「おれはその時、金勘定してたからなあ」。

<2幕>
舞台奥に「妓楼」と大きく書かれた障子。
兵隊が6人やって来る。タナカとワダとその仲間たちだ。
射撃訓練で良い成績をあげた褒美に外出許可をもらったのだ。
まだ昼間なので女たちは寝ている。
だが兵隊とわかり、おかみは大喜び。
すぐに2階の女の子たちを起こすと言う。
まず一人が来て、歌と踊り。
白地にピンクの着物を羽織り、中は濃いピンクのベビードールのような丈の短いドレス。
6人の兵士はコインを投げて順番を決める。表が出た男が女と共に2階へ。
2人目、3人目、4人目と、それぞれ少し違う踊りをした後、兵士と消える。
最後にタナカが残る。
おかみ「最後にとっておきの子、一番若いコ、まだ歌と踊りはあまり・・」
観客の予想通り、6人目に来たのはタナカの妹ヨシコだった。
タナカ「お前をこんな目に合わせたのは誰だ」「山の大百姓の名は?」
ヨシコが答えないのでタナカはいろいろ想像する。
「男にだまされてここに逃げて来たのか」とか。
ずっと黙って聞いていたヨシコは「両親よ」
「借金の利子を返さないといけないの」
「女衒が私を見て・・・誰でもいいわけじゃないのよ」と、むしろ少し得意気。
タナカはショックのあまり呆然自失。
そこに新しい客が来る。
それは下士官ウメズで、タナカの上官だった。
他に女はおらず、タナカは自分の相手の女郎、つまりヨシコを、この上官に譲るよう店側から迫られる。
とっさに彼は妹を連れて隣室に逃げる。
逃げ回った挙句、もはや逃げられないと観念して妹を刺し殺す。
さらに彼は、驚く上官に向かって刃を突き立てるのだった・・。

<3幕>
軍事法廷。
裁判長は、この不可解な事件の真相に迫ろうとするが、被告であるタナカは黙秘し続ける。
仕方なく裁判長は、彼の凶行の動機をさまざまに想像する。
被害者である上官に対して、以前から何か恨みを抱いていたのではないか、その日、何かちょっとしたことでぶつかったのではないか、
同じく被害者である女郎は、実はお前がかつて付き合っていた女だったのではないか、等々。
だが、いずれもタナカが否定するので皆困惑する。
最後に彼は告白する。
あの女郎が自分の妹だと。
そして、実家の両親はご馳走で自分を歓待してくれたが、それは、妹を売って得た金で買ったものだったと、
それを知ってどれほどショックを受けたか、ということを。
すると裁判長始め、そこにいる弁護士も書記も全員が、うなだれ、黙ってしまう。
彼らは被告の凶行を、兄の心情からして仕方ないこと、同情すべきことと感じたらしい。
気を取り直した裁判長は言う。
女郎殺しの件はもはや問わないが、上官殺害の罪は重罪であり死刑に相当する。
ただし、お前が助かる道が一つだけある。
天皇陛下に願い出て、恩赦をしてもらうことだ、と。
だが、タナカは答える。
相変わらず真っ直ぐ前を向いて、清々しい態度で穏やかな笑みを浮かべつつ答える。
「陛下が謝るべきであります」と。
警護の者たちが慌てて銃を向ける。
こうして、危険思想の持ち主として、タナカは処刑されることになる。

不思議な味わいの空間だった。
舞台は日本のようだが、私たちの知っている日本とはいささか違う。
親が実の息子のことを「軍人さんのタナカ」と呼ぶ。
彼には下の名前がないらしい。
妹にはヨシコというちゃんとした名前があるのだが。

目の前にある一匹の魚のことを「この魚」とか「こんな大きな魚」などと、みなが何度も口にするのも奇妙だ。
日本では「こんな鯖」とか「鰤」とか、必ず魚の種類で呼ぶのだが。
だがこのことも、この芝居全体の寓話的な印象を強めている。

妹は死にたがってはいなかった。
兄が勝手に殺したのだ。
彼は、妹が女郎になるくらいなら死んだ方がましだ、と勝手に思ったのだ。
そのくせ自分は買春しようとしていた。
他の家の娘なら別にいいのか。
男は買春しても別に不名誉ではないが、女が売春するのは、死んだ方がましなくらい恥さらしなことらしい。
確かにこれは、つい数十年前まで日本社会にあった考え方だった。
だが今は違う。
買春する男も強く非難される時代になった。
だから、この芝居の、その点に違和感を覚えるのだ。
タナカは何の罪もない妹を殺し、同じく何の罪もない上官を殺した。
そして彼は、強い悲しみと怒りを抱いてはいるが、二人を殺したことについて後悔も反省もする気配がない。

オペラ「蝶々夫人」で蝶々さんは名誉のために死を選ぶが、当時の西洋における日本のイメージは、あれに大きく影響されているのだろう。
女性にとって、操は命より大切という考え。
だがそれが、かつての日本の現実だったのかも知れない。

上官殺害の罪は重罪で死刑に相当するが、妹を殺した罪は不問に付されるというのもすごい話だ。
タナカの供述を聞いて、そこにいる誰もが、そりゃ兄としては仕方ない、妹を殺すのも当然だよな、と思った。
実に不愉快だ。
妹に自殺願望はなかった。
女衒にじろじろ見られて高く買われたことを、むしろ誇りに思っているくらいだ。
もちろん彼女は今後、悪い病気にかかって苦しんだり死んだりするかも知れないが、逆に、金持ちに見初められて見受けされ、
子供をもうけて幸せな母親になることだって、ないとは言えまい。
そんな未来を、兄の一存で断ち切ってしまった。

とは言え作者はヨシコを、「苦界に身を沈めた」という風に描いてはいない。
作者はもっと客観的・俯瞰的に、主人公の行為を、或る種、寓意的に描いている。

軍事法廷の場面でタナカは激しい天皇批判を口にするので、1940年のチューリヒでの初演の際、日本公使館の抗議を受けて
この芝居が上演中止となったというのも、時代を考えれば当然だろう。
だが、天皇に職業選択の自由は(ほぼ)ない。特に当時の日本にはなかった。
戦争に突き進みたい政府が天皇制を利用したのだ。
天皇は神格化されていたとは言え、彼個人が謝ってくれたって状況は何も変わらない。

ここでは当時の日本と違って徴兵制が敷かれてはいないようだ。
だから、兵隊はみな職業軍人で誇り高い。
徴兵制度下ならば、村のどの家にも兵隊に取られた息子や父親がいて、タナカの帰省を村人総出で歓迎するような光景は
見られないはずだ。

多くのことを考えさせられたが、ドイツ人の作者が日本を舞台にこんな戯曲を書いていたというのが、実に興味深い。
作者はナチス政権に弾圧されて苦しい生活を強いられたという。
これは、そんな作者が日本という国に仮託して反戦を訴えた作品だというが、彼の分析力と洞察力には心底驚かされた。

役者はみな滑舌がよく、好演。
特に、裁判長役と下士官ウメズ役の土屋佑壱の過剰なまでの演技が、非常に面白い。
主人公タナカ役の平埜生成の清々しい演技も、この芝居にふさわしく、実に好ましい。






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「パートタイマー・秋子」

2024-01-23 22:42:47 | 芝居
1月16日東京芸術劇場シアターウエストで、永井愛作・演出「パートタイマー・秋子」を見た(二兎社公演)。



夫が失業し、スーパー「フレッシュかねだ」でパートを始めたセレブな主婦・秋子。
しかし、そこは想像を超えたディストピアだった・・・(チラシより)。
2003年に書かれた作品を、作者自身が初演出。
ネタバレあります注意!

秋子(沢口靖子)は会社部長の妻で、ずっと専業主婦だったが、夫の会社が倒産したため、働かざるを得ず、スーパーのレジ係に採用される。
だが他の店員たちは驚く。新店長(亀田佳明)は、人が多いので、むしろ減らそうと言っていたらしい、しかも特にレジ係を。
品出し担当の貫井(生瀬勝久)は大手住宅メーカーの部長だったが、リストラに合い、ここに来た。
秋子は成城からわざわざ1時間半かけて通勤。近所の人には友人のアンティークの店を手伝っている、と言って。
貫井は田園調布に住む。秋子の家は、貫井の会社が設計したものだった。
二人は似た境遇のため急速に親しくなる。
貫井は品出しなので、店員たちが店の品をレジを通さずにくすねているのを知っている。
秋子が驚いて店長に告げようと言うが、貫井は、今店長に言ってもどうにもならない、と止める。
店長は、今月を万引き防止強化月間とする。
そんな時、万引きした男(石井愃一)が連れて来られてひと騒動・・・。
精肉担当の若い男(田中亨)が辞め、店長は秋子に、代わりに精肉担当になってくれと言う。
この店では肉を「リパック」、つまり賞味期限を書いたシールを貼り換えることを常習的に行っていた。
それが精肉担当の仕事だと聞いて秋子は驚くが、店長に説得される・・。
<2幕>
幕が開くと、いきなり店長、貫井、秋子、惣菜担当の窪寺(稲村梓)が他の店員たちの前で歌い出す。
「赤っ恥セール」のテーマソングだ。
それぞれ頭にニワトリ、牛、豚などの小さなかぶりものをつけ、赤い法被を着ている。
これは貫井のアイディアを店長が採用したものだった。
春日(土井ケイト)ら他の店員たちは呆れ、こんなの絶対嫌だ、協力しない、と出ていく。
次の場面で春日は、本社に出す直訴状を仲間たちに読んで聞かせる。
「セールは失敗に終わった・・・」という文面だが、実はこの日は、まだ初日だった。
これがおかしい。
夏の盛りの炎天下、店長と貫井はビラ配り。
途中で貫井がいなくなる。
店長が店に戻ると、店員たちが来て、かぶりものをゴミ箱に捨て、赤い法被も置いて出ていく。
がっくりきた店長は、副店長に「特別な提案」がある、と持ち掛けるが・・・。

こうして書いていくとキリがないが、結局、ここを去ることになる人、居残る人、とそれぞれの人生が交錯する。
始めは純真だった秋子も、この環境で日々過ごすうちに、次第に悪に染まってゆく。
貫井が去る時、彼女は自分のロッカーから、肉のパックをいくつも入れたレジ袋を取り出して、渡そうとする。
不審に思った貫井は「レシートある?」と尋ねる。
すると彼女はいろいろ言ってごまかすが、しばらくたってから詰問するような強い口調で「どうして『レシートある?』って聞いたの?」と尋ねる。
こんな場合、彼女はどうしてそんな強い態度に出ることができるだろうか。
そこはもっとうまく演じてくれないと困る。
危うく「この人シロか」と思ってしまった。
演出家も、ここは大事なところなのだから、しっかり演技指導してほしい。

店長役の亀田佳明と貫井役の生瀬勝久が脇をガッチリ固めているので、骨格がしっかりしている。
生瀬勝久のヨーデルが思いがけずうまくて楽しい。
主演の沢口靖子は、作者が「お嬢さんのまま奥様になって、でも真面目で」と言う通り、この役にピッタリ。
ただ、先ほど書いたラストの違和感の他にも、常に同じ力の入れ具合でセリフを口にするのは考えもの。
もっとサラッと言うべき箇所もあるということ。
メリハリが肝心です。
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「巨匠」

2023-12-28 21:57:54 | 芝居
12月12日紀伊國屋サザンシアターで、木下順二作「巨匠」を見た(劇団民藝公演、演出:丹野郁弓)。



 今夜「マクベス」の初日を迎える大劇場の楽屋。俳優と演出家は、ある演技をめぐって議論になる。
食い下がる演出家に、俳優はついに20年前に体験したある出来事を語り出す。
 1944年、ワルシャワ蜂起に対するナチス・ドイツの弾圧を逃れた人々が郊外の小学校に潜んでいた。
命からがら辿り着いた俳優は女教師、前町長、ピアニスト、医師、そして老人と出会う。
そこへゲシュタポが現れ、レジスタンスによる鉄道爆破への報復として4人の知識人を銃殺するという。
老人の身分証明書には簿記係とあったため、知識人ではないとして除外されるが、彼は「自分は俳優である」と主張して・・・(チラシより)。

題材が非常に興味深い。
劇作家・木下順二がポーランドのテレビドラマに触発されて書き下ろした作品の由。

老人は、小学校に逃げ込んで来た若者が俳優志望だと言うのを聞くと、そばに呼んで語り出す。
彼は、いつの日か「マクベス」で主役マクベスをやりたいと願っており、この戯曲を熱心に研究していた。
英語の原作とドイツ語訳とポーランド語訳を持ち歩いている。
ポーランド語訳は6種類あり、それぞれ特色があり、1つはよくない、1つはシュレーゲルのドイツ語訳からの重訳だ、という。

ただ彼のマクベス観は、若者も後に認めているように「ちょっと変」だ。
「マクベスをやるには、私は年を取り過ぎていると思うか?いや、マクベスは年寄りがやるべきだ。大事なのは夫人だ。
彼女は若い。たぶんまだ10代だろう。若い彼女にそそのかされてマクベスは奮起するんだ」みたいなことを言う。
確かにこれはおかしい。
二人はそれほど年が離れておらず、子供の出産と死を共に経験した過去もある。
宴会の場でわかるように、女主人として堂々と客をもてなすところを見ても、夫人もある程度の年齢だろうと思われる。

この老人が宝物にしている小さな紙きれ。これは、若き日、共に同じ劇場でデビューした古い仲間が書いてくれた紹介状だった。
その男は今では国を代表する俳優となっている。一方彼は、その後、役に恵まれず、旅回りの役者をしている。
彼は「戦争はもうすぐ終わる。終わったら、この紹介状を持って行く、そしてマクベスをやるんだ」と熱く夢を語る。
「俳優は、才能だけじゃ駄目だ。運も必要なんだ」と若者に言って聞かせる。

部屋にゲシュタポが入って来ると、彼はそこにいる人々に向かって、知識人は壁際に立て、と命じる。
言われた通り、女教師、ピアニスト、医師、前町長が進み出るが、老人も一緒に移動する。
老人の身分証明書に「簿記係」とあるので、通訳者が「あなたはいいです。戻ってください」と言う。
だが老人は、必死になって抵抗する。
「私は俳優なんです!」「マクベスのセリフを全部そらで言えます」「聴いてください」
ゲシュタポは、彼の申し出を面白いと思ったのか、演じさせることにする。

命の瀬戸際に、彼は、自分を俳優だと敵に認めてもらうためにマクベス役を熱演する。
だが認めてもらえるということは、即、銃殺されることを意味するのに。
なぜわざわざそんなことをするのか。
黙って従っていれば、死なずにすむのに。
そして、自分で言っているように、戦争が終わったら、どこかの劇場でマクベスを演じることができるかも知れないのに。
彼が何歳だか分からないが、人生の終わり近くに来て、自分の全生涯をかけてきた演劇への情熱をわかってもらいたかったのか。
ゲシュタポにわかってもらわなくてもいいじゃないか、とも思うが。
それとも彼は、さっきまで話していた若者に、自分の俳優としての姿を見せたかったのだろうか。

彼はゲシュタポに独訳本を渡し、彼の前でポーランド語で2幕1場の短剣の場を演じて見せる。
その迫力、鬼気迫る様子に、その場にいる全員が打たれたようになる。
だが、ひとくさり演じ終えると、ゲシュタポはゆっくり拍手し、「お前は俳優だ」と認め、処刑される人々の側に行くよう合図する。
銃殺されるために部屋を出る時、老人は振り返って若者を見、満足したようにほほえむのだった。

前町長は芸術に理解がなく、ピアニストが練習するのを迷惑がって文句を言い医師にたしなめられたり、老人のことを巨匠と呼んでからかい、
彼が将来の夢を語る時、いちいち水を差すようなことを言う。
だが老人が熱演の末俳優(=知識人)と認められ、処刑されることが決まると、その代わりに、この前町長が処刑を免れることになる。
銃殺する人数は4人と決まっているからだ。
何という皮肉。だが、これが現実というものだろう。
ナチスが知識人を殺すのは、知識人(=指導者)さえいなければ、レジスタンスは続かないと知っているからだ。
ナチスもレジスタンスを恐れていた。一歩間違えれば自分たちがやられる側に回るのだから。

劇中劇で、マクベスのセリフに「ユーキ」という言葉が2回出てきて、2回目にやっと「幽鬼」だとわかった(2幕1場)。
木下訳だろうが、これは耳で聞いただけで理解するのは難しい。
もう死語だろうし、上演台本としては避けるべき語だろう。
ちなみに福田恆存はここを「もののけ」、小田島雄志と松岡和子は「亡霊」と訳している。
原文は ghost 。

枠構造なのはいいが、冒頭で作者が自分のことを長々と語るのは不要だし、「私が私の・・」など何を言ってるのか意味不明な箇所あり。
ここはカットした方がいいと思う。

老人役の西川明が素晴らしい。滑舌は少し悪いが、熱演に胸を打たれた。
ゲシュタポ役の橋本潤は、ドイツ語の発音が正確で好感が持てた。



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井上ひさし作「連鎖街のひとびと」

2023-12-11 22:37:18 | 芝居
12月2日紀伊國屋サザンシアターで、井上ひさし作「連鎖街のひとびと」を見た(こまつ座公演、演出:鵜山仁)。



昭和20年 旧満洲国 大連市
とり残された劇作家たちに課せられた使命は
通訳将校歓迎会の台本作り
しくじればシベリア送りの状況下
時間も食事も俳優も何もかもが足りない中で
生み出されたのは起死回生の逆転劇(チラシより)

21年ぶりの再演とのこと。

大連にとり残された劇作家二人(高橋和也と千葉哲也)は、日本に帰ることもできず、小さなホテルに軟禁されて悶々とする日々。
ロシア軍将校に、パーティの余興のために30分の芝居の台本を書くよう迫られている。
ちょうどその頃、女優ジェニー(霧矢大夢)がロシア軍から解放され、彼女の婚約者で若い作曲家(西川大貴)共々、芝居上演に協力することになる。
だが作曲家は、ある夜、たまたま彼女と元カレ・市川(石橋徹郎)との会話を耳にし、ショックで寝込んでしまう。
それを知ったジェニーは青酸カリを飲もうとして皆に取り押さえられる。
劇作家たちとホテルのコック・陳(加納幸和)は、何とか二人を救おうと知恵を絞り、あの夜の二人の会話は、実は芝居の稽古だった、と
作曲家に信じさせようとする。そのために、あの時の二人の会話をそのまま入れた台本を作ってしまう。
この状況が、まず可笑しい。
<休憩>
かくして芝居の稽古が始まる。
当然ながら、市川も参加することになるが、この劇中劇で、彼はロシア人の長い名前に苦しむ。
一つ一つが長い上に、ミドルネーム(父称)もあるから確かに彼らの名前は長い。
しかも夫婦のいさかいの場面なのに、なぜか彼のセリフにばかり、やたらと人名が出てくるのだ。
どうも、台本を執筆した劇作家たちの側に、彼に対する反感があるので、こういうことになったらしい。
どうして私のセリフにばかり長い人名が出てくるのか?と劇作家・片倉(千葉哲也)に文句を言うと、片倉は大声で「何?!」とすごむ。
これが怖い!(笑)
この人は、見た目も怖いし(失礼)、でかい声も出るし、この役にピッタリだ。

結局作曲家は、彼らのもくろみに気がつき、あの夜の会話が芝居の稽古ではなかったことも知るが、幸い、恋人の過去は過去として受け入れ、
二人は危機を乗り越えることができた。

市川は、満洲国政府文化担当官だったため、敗戦後は隠れるように生きている。
彼は女たらしで皆に嫌われていたが、芝居の稽古をしているうちに、その心境に変化が訪れる。
芝居の魅力に取りつかれてしまったのだ。
その意外な展開が面白い。
ベテランの石橋徹郎が演じるのだから、ますますもって面白い。

役者が芸達者揃いで楽しかった。
ただ、やはり音楽がつまらない。特に最後の合唱。
もしまたやるとしたら、合唱の部分を新しく作り直してほしい。
それと、市川がロシア人の名前にいちいちつまづく場面で、その都度、結局は自力で全部言えるわけだが、
それより、台本を手に横で稽古を見ている演出家が、いちいち教えてやる方がリアルではないだろうか。

劇作家二人が立ち聞きについてしゃべっている時、一人が「チェーホフの芝居なんて、立ち聞きだけでできてるようなもん」と言う。
そうなのか?ちょっと言い過ぎじゃないだろうか。
今度、確かめてみるか。



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「尺には尺を」

2023-11-21 21:49:31 | 芝居
11月9日新国立劇場中劇場で、シェイクスピア作「尺には尺を」を見た(翻訳:小田島雄志、演出:鵜山仁)。




ヴィ―ンの公爵ヴィンセンシオは、後事をアンジェロに託し突如旅に出る。謹厳実直なアンジェロは早速、婚姻前にジュリエットと
関係を持ったクローディオに死刑の判決を下す。それを知ったクローディオの妹、修道尼見習いのイザベラは、兄の助命嘆願のため
アンジェロのもとを訪れる。兄のため懸命に命乞いをするイザベラの美しい姿に理性を失ったアンジェロは、こともあろうに
自分に体を許せば兄の命は助ける、という提案をする・・(チラシより)。

この芝居の鑑賞歴は次の通り。
①1991年・・・コンパス・シアター来日公演、パナソニック・グローブ座
②1994年・・・チーク・バイ・ジャウル来日公演、デクラン・ドネラン演出、パナソニック・グローブ座
③2014年・・・文学座、鵜山仁演出、小田島雄志訳、あうるすぽっと  (イザベラ:高橋紀恵、アンジェロ:大場泰正、公爵:石田圭祐)
④2016年・・・・・蜷川幸雄演出、松岡和子訳、彩の国さいたま芸術劇場(イザベラ:多部未華子、アンジェロ:藤木直人、公爵:辻萬長)
この他、ロンドンのテレビで英国の劇団の上演を見たこともある。
こうしてみると、マイナーな芝居だと思っていたが結構見ている。すっかり忘れていたものもある。
時々確認しないといけませんね。
①と②は、まだ字幕がなかった時代なので、展開についていくのが大変だったような記憶が・・💦

舞台は、背景に大きな赤黒い壁。これが修道院の壁となり、監獄の壁となる。
岡本健一がアンジェロ役。この役には年を取り過ぎていると思ったが、とにかくうまい。
今日では典型的なパワハラ・セクハラをする犯罪者として厳しく糾弾されるべき男だが、そんな役柄でも
時にセリフにユーモラスな味を出して観客を喜ばせてくれる。
公爵役の木下浩之の声がいい!
イザベラをソニンが演じる。昨日は美しい脇役だったが、今日は主役の一人。
これが熱演で実に見応えがある。
ルーシオ役の清原達之も声がいい。
死刑囚クローディオ(浦井健治)の衣装が変だ。青地に赤の制服みたいなパリッとした服で、かっこ良すぎる。
なぜ囚人服を着せないのか。
ついでに言えば、浦井の演技がまずい。
妹に事情を告げられた時、最初は「あのアンジェロが?!」「・・・お前にそんなことはさせられない」と言うが、思い直して、
自分の命を救うためにアンジェロの申し出を承知してくれ、と言い出すのだが、その大事なところが下手。
演出家は、こんな演技でもいいと本当に思っているのか?
このシリアスな芝居の中で息抜きとなる、ポンピーたちのコミカルなシーンが退屈。実につまらない。
ここは思い切ってカットした方がよかった。
音楽がいつもながら最悪。今さら驚かないが、いちいち芝居の邪魔!

<休憩>
イザベラがアンジェロのもとに行くと、アンジェロは真紅のガウンを脱ぎ、イザベラを押し倒す!
首切り役人が登場するシーンで、彼が何かしゃべるたびに舞台全体に赤い血のような照明が当たるのが変だ。
ルーシオの衣装も変だ。道化みたいなつぎはぎ服で、わかり易くはあるが。
公爵は土色の僧服の下に真紅のガウンを着ていて、頭巾を取られると全身を現す。

現代人にはラストが退屈。早く水戸黄門の印籠を出せばいいのに、と思ってしまう。
解放された兄クローディオと抱き合おうとするイザベラを、クローディオが拒絶する演出もあるが、今回は、しっかり抱き合っていた。
ラスト、唐突にイザベラに求婚した公爵は、彼女が返事をしないのに、その手を取って舞台奥に歩いて行く!
イザベラは落ち着かず、右を見たり左を見たり、周囲の人々を振り返り振り返りついてゆく。
ここは原作に何も書いてないので、いろんな演出があって面白い。
たいてい、イザベラが当惑して公爵に返事をしない形が多い。
2016年の多部未華子のイザベラは、微笑んで公爵の手を取ったが、こういう演出は珍しい。

昨日は面白かったが、今日の演出はどうか・・。
衣裳が前田文子とあって驚いた。この人の衣装には、いつも良い印象しかなかったのだが・・・。
今日はどうしたことでしょう、残念です。
イザベラ役のソニンは、演技はもちろんだが声が美しい。
いろいろ不満の多い日だったが、彼女のイザベラを堪能できてよかった。


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「終わりよければすべてよし」

2023-11-16 22:32:38 | 芝居
11月8日新国立劇場中劇場で、シェイクスピア作「終わりよければすべてよし」を見た(演出:鵜山仁)。




伯爵夫人の息子バートラムはフランス王に召しだされ、故郷を後に、パリへと向かった。もう一人、伯爵夫人には侍女として
育てていたヘレナという娘がいて、彼女は密かに身分違いのバートラムのことを慕っていた。その想いを知った伯爵夫人は、ヘレナにバートラムを追ってパリへ
向かうことを許す。パリに到着したヘレナは王に謁見し、医師であった亡き父から託された薬で王の病を見事に治す。
王はヘレナに望みのものを褒美として与える約束をするが・・・(チラシより)。

この秋最大のイベント。
「新国立劇場シェイクスピア歴史劇シリーズのチームが堂々再集結」というわけで、懐かしい人々にまた会えた。
これと「尺には尺を」を組み合わせての交互上演というが、後者は傑作だけど、それと一緒にどうしてこんなつまらない芝居を、と思ったが、
今回読み直してみたら、意外と面白かった。
冗長なところも多いが、面白いセリフや会話も多い。
マイナーな戯曲だが、演出の力と役者たちの力で、とても楽しいひと時だった。

ネタバレあります注意!
舞台前面に池が作ってある。
冒頭、ルシヨン伯爵夫人(那須佐代子)の屋敷。小田島訳ではロシリオン伯爵夫人だが、なぜか今回、ルシヨンになっている。
皆、喪服。
養女ヘレナ(中嶋朋子)は一人になると、夫人の息子バートラムへの苦しい片思いを吐露する。
ここはまるでオペラのアリアのようだ。
さすが中嶋朋子、早くも彼女の独壇場といった感じで、観客の同情を一身に集めてしまった(と筆者は感じた)。
場面が変わって彼女が王の前に出る時、白いドレス姿になっていて美しい。
あちこち冗長な部分がカットされて、分かりやすく軽快になった。
バートラム役の浦井健治は、いつもながら颯爽としているが、声が高くて残念。滑舌もイマイチ。横を向いてしゃべるともう聞こえない。
フランス王役の岡本健一が最高。
最初は、この人がこんな年寄りの役を、と思ったが、病気が治ってからは元気一杯で、楽しそうに演じている。
ヘレナは王の王笏を取って振り回す!お人払いをしているので、こんなことができるのだ。

ヘレナはどんな医者も治せなかった王の病気を見事に治し、褒美に欲しいものを尋ねられ、バートラムとの結婚を願い出る。
ところが、当のバートラムがこれを聞いて嫌がり抵抗するので、王はメンツをつぶされ、怒る。
ヘレナは「もう結構でございます」と願いを引っ込めようとするが、王は「いや、わしの威信がかかっておるのじゃ」と言ってバートラムを池に蹴り落とす!
これには参った(笑)。(こんなこと、原文には書いてありません)
このために舞台にわざわざ池を造ったのかと思うと、実におかしい。
このあたりのセリフも、基本は小田島訳だが、よりわかり易い言い方に変えてある。
ずぶ濡れになったバートラムはついに諦め、ヘレナと強制的に結婚させられる。
だが彼は、彼女と初夜を過ごすつもりはなく、すぐにフローレンスでの戦いに参加することに決める。
要するに、好きでもない新妻から逃亡しようというわけだ。
ヘレナと別れる時、彼女が遠回しにキスをして欲しいとほのめかすと、(原作には何も書いてないが)バートラムは彼女に軽くキスする!!
当然、ヘレナは大喜び。声も上ずり、ウキウキ。実に可愛らしい。

<休憩>
フローレンスで戦功をあげたバートラムは、ダイアナという乙女に惚れ、いろいろ贈り物をして言い寄るが、彼女はいっこうになびこうとしない。
巡礼の旅に出たヘレナは、偶然ダイアナと出会い、そのことを知って、策を講じる。
ダイアナ役のソニンがうまい!バートラムとの絡みが実に色っぽいし、若々しく初々しい。18歳くらいに見える。
ダイアナがバートラムの指輪をもらうシーンがよくできている。抱きしめられた時、自然に指輪に目をとめた形。

この芝居の副筋に、ぺーローレスという噓つきで卑怯な男が罠にはめられてひどい目に合わされるというのがある。
このぺーローレス役の亀田佳明がうまい。
始めはやはり、この人がこんな役を、と可哀想に思ったが、違った。
この男は嘘つきでバカで臆病者だが、こんな役を下手な人がやったら全然面白くないだろう。
彼くらいうまい人が演じてこそ、芝居全体が引き締まるのだ。
かつて「シンベリン」で勝村政信さんが、クロートンというおバカな王子を演じて客席を沸かせたことを思い出した(2012年、蜷川幸雄演出)。
この人だけ全身黄色の奇抜な衣装で、道化じゃないのにちょっと変だが、分かり易いことは確か。
常に小さな太鼓を提げていて、時々叩く。

道化が面白くない。可笑しい箇所がたくさんあるのに、それを生かし切れてない。
ラスト、バートラムはついに自分のしたことを認め、ヘレナに赦しを乞い、彼女を妻として受け入れるのだが、
その肝心な、気持ちの大変化を、もっとうまく表現してほしかった。
今回、バートラムと道化を別の人にすれば、もっと面白くなったと思う。

高校生の団体がすぐ後ろの席にいて「あちゃー」と思ったが、静かで助かった。
ただ「池に人が落ちた音で目が覚めたから、筋がよくわからなかった」とか「あの二人は兄妹でしょ?なんで・・・?」とか話すのが聞こえた。
せっかくの観劇なのにもったいない。より楽しむために、事前にあらすじくらい教えてあげたらいいのに、と思った。

この話は、ベッド・トリック、女性を死んだことにする、指輪が重要証拠となる、など他の作品と共通する点が多くて興味深い。

意志の強い女性が主人公で、一途な思いを成就させるという珍しい喜劇だが、実はシェイクスピアの戯曲で
強い女性がリードしてストーリーをぐんぐん引っ張ってゆくというのは決して珍しくはない。
「ロミオ」だって「ヴェニスの商人」だって「お気に召すまま」だって「冬物語」だって実はそうなのです。

さて、この翌日「尺には尺を」を見たのですが、それについては次回書きます。
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「検察側の証人」

2023-11-08 23:57:49 | 芝居
10月26日俳優座劇場で、アガサ・クリスティー作「検察側の証人」を見た(演出:高橋正徳)。





マレーネ・ディートリヒ主演の映画「情婦」の原作であるクリスティ作の戯曲。

真実と嘘、その間にあるものは一体何か・・・
アガサ・クリスティ、法廷サスペンスの金字塔
驚愕の展開と結末からはだれも目が離せない・・・
俳優座劇場プロデュースの原点
1983年から7年間、日本全国で上演された名作が
34年の時を超えて今、蘇る!
story
エミリー・フレンチという金持ちの老嬢が自宅の居間で殺された。容疑者として逮捕されたのは、彼女と親しくしていた
レナード・ヴォール(采澤靖起)という青年だった。彼の弁護を依頼されたサー・ウィルフレッド・ロバーツ(金子由之)は、
弁護士仲間のミスター・メイヒュー(原康義)と共に調査を開始する。レナードの証言に疑わしいところはないのだが、
状況証拠は必ずしも彼にとって有利なものではなかった。しかしサー・ロバーツもメイヒューも、レナードの無罪を確信している。
弁護側の切り札は、レナードの妻ローマイン(永宝千晶)のアリバイ証言だった。
だが、検察側の証人として登場した彼女は、あろうことか夫の犯行を裏付ける証言をする。
一方的にレナード不利な状況の中、事態は急転直下、思わぬ方向に動き始めるのだった・・・(チラシより)。

1幕1場
弁護士事務所。女性事務員の声がいい。
レナードが相談に来る。彼は若く、気の優しい青年だが、頭があまりよくないし、仕事がなかなか続かず、最近は無職だと言う。
ドイツで出会った女性ローマインを連れて英国に帰り、結婚した。
数か月前に偶然、被害者の50代の女性と出会って親しくなった。
数日前の夜、その女性が殺され、警察が来ていろいろ質問された、その後、帰宅して
妻にそのことを話したら、妻はひどく心配して、彼が疑われているんじゃないか、と言う。
まさか、と思ったが、弁護士に相談することにした、と言う。
彼は純朴でお人好しで、どう見ても自分に親切にしてくれているシニア女性を殺すなんて考えられない。
その時、警察官たちがやって来て、彼を容疑者として連れ去る。
だが弁護士2人も事務員も、彼の無実を信じ、何とかして彼を救いたいと考える。
彼は、3人の心をつかんだのだ。

彼と入れ違いに、彼の妻が来て、一種奇妙な対応を見せるので、弁護士2人は困惑する。
彼は、自分の妻のことを、素晴らしい女性なんです、と褒め、自分と妻とは深く愛し合っている、と言っていたのに、
彼女の方は、彼のことを話す時、何やら冷たく突き放した言い方をするのだ。
しかも、自分は彼の妻ですらない、と言い出す!実は、ドイツで彼と出会った時、彼女の夫はまだ生きていた、という。

法廷の場。舞台が非常によくできている。
検事役の声がいい。
家政婦ジャネット・マッケンジー(井口恭子)は、被害者の女性から遺産をほとんどもらうはずだったのに、彼が現れて女性のお気に入りになり、
遺言書を書き換えられてすべて取られたこともあり、彼を憎んでいるようだ。
彼女は彼が結婚していると聞いて驚く。被害者が彼との結婚を考えていると思っていた、と言う。
当夜の状況について、彼女の補聴器について、サー・ロバーツは、あの手この手で熱弁をふるって戦う。
次に、ローマインが、なぜか検察側の証人として登場する。
しかも呼び上げられた姓がヴォールではない別の姓だった!
<2幕>
ローマインは警察で話したことと違うことを言い出す。
彼が帰宅したのは夜9時半でなく10時10分だった、袖に血がついていて「洗え」と言われた、「あの女を殺してきた」と言った、と。
警察で言ったことは、彼に「そう言え」と脅されたからと。
彼は驚き叫ぶ、「ローマイン、どうしてそんなことを言うんだ!?気でも狂ったのか!?」「全部嘘だ!」

弁護士二人が事務所に戻り、頭を抱えていると、電話がある。
下品な女の声で、大事なものを渡したい、と場所を指定して、そこに来るように言う。
二人がそこに行くと、浮浪者が数人いて、ボロをまとった女が来る。
重要な証拠となる手紙の束を持っている、と言う。
サー・ロバーツが20ポンド渡して読むと、驚くべき内容だった。
彼は彼女の身の上を聞いて同情し、さらに5ポンド渡す。

新たな証拠を入手したため、弁護団が開廷を要求。ローマインを再度呼ぶ。
例の手紙の宛先であるマックスという男について尋問し、手紙を読み上げる弁護士。
マックスは英国にいて、何らかの政治工作に携わっているらしい。
「彼が死刑になったら、やっと自由になれる、二人で・・」
この手紙を自分が書いたことを、ついにローマインは自白させられる。
これには検事も茫然自失。
陪審員の評決は無罪。
閉廷後、彼と弁護士は喜び合う。そこにローマインが来る。
弁護士が彼を守ろうと立ちふさがると、ローマイン「彼を救ったのは私よ」と言いながらサー・ロバーツに近づき・・・
彼は驚いて「ど、どうして・・そんなことまでしなくても勝てたのに?」
彼女「そうかしら、イギリス人はドイツ人の言うことを信じてはくれない・・・
だが、衝撃はこれだけではなかった。
この後に、さらに驚くべきことが待ち受けているのだった・・・

だまされるって快感なのか??
人間はだまされることが好きなのだろうか?
自分でも不思議でしょうがない。
昔、映画「情婦」を見たことがあり、この「妻」が露悪的だが、実は夫を深く愛していた、というところだけは覚えていた。
その他の細かい(けれど重要な)ところをすっかり忘れていたので、この日、完全にだまされてしまった。
だが、それがよかった。
最後のどんでん返しに、ええっ?!というほど驚き、そして、それが非常な快感だった。
忘れていて本当に良かった。
役者も皆さん好演だったし。

ただ演出については、1点だけ不満がある。
ここで「妻」は、終始、仏頂面で、周りの人や観客の反感を買う。
それは彼女自身の計略だった。
だが、裁判で「夫」が無事に無罪を勝ち取った後、再び登場する時は、喜びに輝いているはずだ。
しかも、その勝利は弁護士の力によるものではなく、他ならぬ自分の力で勝ち取ったものなのだ。
自分が愛する人の命を救ったという喜びに溢れているのだから、満面の笑みを浮かべていて欲しい。
芝居としても、ここが唯一、彼女の笑顔を見られる場面なのだから。
しかも、あっと言う間に彼女の喜びはかき消されてしまう。
本当に束の間の幸せだった。
だからこそ、輝くような笑顔がここでどうしても必要なのです。

レナード役の采澤靖起が、期待通りの好演。
今回は、この人がいるからこそ上演できたと思う。
ベテラン金子由之と井口恭子の安定した演技で、芝居がビシッと引き締まった。
声のいい役者が多いのも嬉しい。
今回のキャスティングは非常に良かった。

シリアスな話なのに、所々にユーモアを散りばめ、笑わせてもくれる。
そして何より、戯曲の求心力と、見る者に息もつかせぬ迫力。
ミステリー作家クリスティは、劇作家としてもすごいことがわかった。

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「金夢島」

2023-10-30 22:37:40 | 芝居
10月24日東京芸術劇場プレイハウスで、太陽劇団作・出演「金夢島」を見た(演出:アリアーヌ・ムヌーシュキン)。




時は現代、場所はパリ。病床に伏す年配の女性コーネリアは、夢の中で日本と思しき架空の島「金夢島」(カネムジマ)にいる。
そこでは国際演劇祭で町おこしを目指す市長派と、カジノリゾート開発を目論む海外資本グループが対立していた。
夢うつつにあるコーネリアの幻想の島では、騒々しいマスコミや腹黒い弁護士、国籍も民族も様々な演劇グループらが入り乱れて、
事態はあらぬ方向へと転がっていくのであった・・・(チラシより)。
ネタバレあります注意!

典型的な「枠構造」の芝居。
ベッドに横たわるコーネリア。看護師が「彼女はまだ日本にいると思っている」と、誰かと携帯電話で話している。
彼女は現実と自分の空想とがごっちゃになっているらしい。
とある島で女性市長・山村真由美が中心となって、国際演劇祭を開催する準備が進んでいる。
そこに各国から劇団がやって来て、本番前に稽古をする。
その設定がいい。
市長らの会話が終わると、コーネリアが「ここで陰謀が必要ね」と言う。
すると、それっぽい音楽が流れ、いかにも邪悪な感じの男2人登場。
第一助役で市長と対立する高野と、同じく第二助役の渡部だ。
市長のことを「女のくせに」と言ったり、市長が演劇祭のことで忙しくしている間に市長選挙をやろう、と言い出したり。

銭湯シーン・・・市長ら2人の女性が全裸で湯に浸かって会話し、話し終わるとさりげなく全裸のまま湯船から出るので、客席の人々は舞台を凝視(笑)。
だがよくよく見ると、素肌の上に薄いものを着ているようだ。特殊な繊維でできているらしく、かがんでも皺ができない。
その後また銭湯シーンが始まると、悪役の男2人も全裸で出てくるが、これは明らかに皮膚の上に薄いものを着ているのが分かるので笑いが起こる。

空の椅子・・・中国の活動家・劉暁波は2010年にノーベル平和賞を受賞したが、実刑判決を受けて収監中だったため授賞式に出席できず、
彼が座るはずだった椅子にはメダルと賞状が置かれた。そのエピソードが演じられる。

人形劇・・中国の田舎の眼科医・李文亮は、2019年12月、原因不明のウイルス性肺炎が武漢で広まっていることにいち早く気づき、
中国政府の発表前にSNSで発信し警鐘を鳴らした。だがその後、虚偽の内容を流布したとして公安局により処分を下される。
李は「健全な社会は一つの声だけであってはならない」と訴え、当局の情報統制のあり方に疑問を投げかけるが、2020年2月に自らも
新型コロナウイルスに感染し亡くなった。彼を主人公とする人形劇。
彼は感染防止のため宴会中止を上司に訴えるが、上司は即却下。仕方なく、そのまた上司に訴えるが、やはり却下。
そのため仕方なく、ついには皇帝、もとい、習近平閣下に直訴するが・・。
この習近平の人形が、本人そっくり。

アラブの一組の夫婦がやっている劇団登場。

若い女性の携帯に、香港の伯母から電話がかかってくる。
デモの最中に警官たちが襲いかかった、みんなでレストランに逃げ込んだ、と。
だが途中で大きな音が続いて通話が途切れる・・・。

<2幕>
天野武右衛門・・・この人のことは日本人も知らない人が多いだろうから、と女性が物語る。
ある湖を埋め立てようとする男が、湖の主である美女によって誘い出され、水の中に引きずり込まれる・・という話。

ラクダ・・・中東の一座はジャミーラという名のラクダを引いて来るが、ラクダが上に乗った男をおいて、どんどん先に行ってしまう。
男が「早過ぎる」と文句を言うと、ラクダは「そっちが遅過ぎるんだよ。まるで中東の和平交渉みたいだ」とか何とか時事ネタで言い返す(笑)

本屋に女性がやって来る。その登場の仕方が可笑しい。
下手から、ロシア風にマフに両手を入れて静かに歩いて来るのだが、黒子が傘を差しかけていて、その傘から雪が降っている。
つまり、彼女の上にだけ白い雪が舞い降りつつ、近づくのだった。ここでも客席から笑いが。
「『三人姉妹』はよかったわ」と言って、女性はいきなり、戯曲の最後のセリフを口にする。
「もう少ししたら、何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・それがわかったら、それがわかったらね!」         
すると店主が、今度はイリーナの婚約者のセリフを言うのだった。
「二人で働いて、金持ちになって、・・ただ一つ、たった一つだけ・・・あなたは僕を、愛していない!」・・・

*** *** ***

音楽(ジャン=ジャック・ルメートル)が、その場その場に合っていて面白くて楽しい。
各劇団は、それぞれの出し物を稽古しようとするが、言い争いが起こってなかなか始められない。
なのに「ハイ、時間切れです」と無情にもスタッフに言われるのが可笑しい。
とにかく演劇祭の稽古という設定がいい。

銭湯シーンでは、背後の壁にちゃんと富士山の絵が(笑)

仏語上演(日本語字幕付き)だが、日本語・英語・広東語・アラビア語・ブラジルポルトガル語・ヘブライ語・ロシア語・ダリ語・・が飛び交う。
客席にはフランス人も多かったようだが、彼らはフランス語の字幕がなくてちょっと困ったかも知れない。

壮大なファンタジーの形をとりながら、メッセージはしっかり盛り込まれている。
香港の人々の苦しみ、パレスチナとイスラエルのいつ果てるとも知れぬ戦争、アフガニスタンの人の苦しみ、中国で義のために迫害され亡くなった人・・。
苦しむ人々に寄り添い、彼らを決して忘れないという姿勢。彼らとの連帯。
フランス人のムヌーシュキンが香港人や中国人と連帯する内容の戯曲を書いて上演するのを見て、胸が熱くなると同時に、
日本でもこういうことを書く劇作家が出てきてくれたら、と考えてしまった。

こうしたモチーフがあちこちに散りばめられているにもかかわらず、芝居の楽しさと面白さもたっぷり盛り込まれている。
彼女はインタビューで語っている。
「私は世界の一つの小さなかけらでもいいので、それを舞台の上に載せたいと思っています。
そのためには、過酷で泣きたくなるかも知れませんが、世界をありのまま、自分の心に受け入れなければいけないのです」

パンフレットにキーワードの解説が掲載されている。
そこの「七つの大罪」の隣に「つけ揚げ」(鹿児島では薩摩揚げのことをこう言うらしい)があって笑ってしまった。
とにかくムヌーシュキンの日本文化に対する愛と憧れが、そこらじゅうからビンビンと伝わってくる。

22年ぶりに来日した彼らに、素晴らしく楽しいひとときと大きな刺激をもらった。


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