ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「My Boy Jack 」

2023-10-18 22:09:16 | 芝居
10月10日紀伊國屋サザンシアターで、デイヴィッド・ヘイグ作「My Boy Jack 」を見た(原作:キップリング、演出:上村聡史)。




「ジャングルブック」などで知られるノーベル文学賞受賞作家キップリングは、第一次世界大戦中に「My Boy Jack 」という詩を書いた。
これは、その詩を名優デイヴィッド・ヘイグが戯曲化したもの。
1997年にウエストエンドで上演され、イギリスで2007年にテレビ映画化された由。

激戦が続く第一次世界大戦。健康な体があるなら戦地に行くべしと声高に理想を語る父ラドヤード(真島秀和)は、
ひどい近視ゆえに軍の規則で入隊できない息子ジョン(前田旺志郎)を、人脈を使って軍にねじ込む。
母キャリー(倉科カナ)と姉エルシー(夏子)は必死に不安を押し殺しながら日々を暮らす。
戦意高揚を謳っていた父も、日が経つにつれて不安にさいなまれるようになる。
ハンデがあるにもかかわらず必死に努力し将校になったジョンは、西部戦線へと出征する・・・。

ネタバレあります注意!

役名もキップリングの実名そのままだし、これが彼の自伝的作品らしいとわかって驚いた。

当時は誰も、戦争があれほど長びくとは予想していなかった。
兵士たちは「クリスマスまでには家に帰れる」と信じていた。
彼らを送り出した家族も、それを信じて疑わなかった。
そんな時代、高名な作家キップリングは特に好戦的だったわけではなく、健康な男なら戦地に行って戦うべきだと考え、そう演説していた。
長男ジョンは、まだ15歳だが、父親の意向を強く意識しており、入隊を志願する。
彼は強度の近視のため、海軍の試験は5分で不合格だったが、父は諦めずに、二人で何度も面接の練習をし、陸軍の試験に臨む。
だが、やはり最後の視力検査ではねられる。
父は「規則、規則、こんな杓子定規な・・」と怒って退出。
姉エルシーは結果を知って安心するが、ジョンは姉に、「この家からとにかく出て行きたい」「もう耐えられない」と打ち明ける。
彼にとって、実家は決して心安らげる場所ではなかったのだ。

姉が3週間留守にしている間に、ジョンは出征していた。
彼女が驚いて両親を問い詰めると、父親が、長年の友人で危篤状態だった人に頼んで、無理やり息子を入隊させてもらっていたことがわかる。

ジョンが一時帰宅する。アイルランドのある隊の中隊長となり、すでに仲間が何人か死んだと言う。

場面は変わって塹壕。
フランス。雨が続く。3人の部下。
彼らはアイルランド人でカトリックなので、その内の一人はプロテスタントのジョンに反感を抱いている。
それだけでなく、ジョンの父親のやったことにも恨みがあり、ジョンの命令にことごとく反抗する。
だがジョンは感情的になることなく、この男に対しても常に穏やかに接するのだった。

<休憩>

塹壕。雨。鳩を1かごずつ持って、次の塹壕目指してゆく任務。

実家にジョンが行方不明になったという手紙が届く。
妻「どうして背中を押したの!?」「どうして止めてくれなかったの?!」
夫「まだ死んだとは限らない。道にまよってるだけかも」
妻「でももう2週間たってるのよ!」
その時入ってきた娘もそれを知ると、母とまったく同じことを父親に言う。
二人に責められて父は言う。
「ここにとどまって、人の目を気にして外にも出られず、家に引きこもって時間だけが過ぎて年とっていく・・
そんな目に合わせたくなかった。立派に戦った、名誉だ・・・」

場面は変わって、子供たちと父とのかつての情景。
3人共エキゾチックでカラフルな恰好。
父はインドでの思い出を語る。
夜空を見上げて、子供たちに星座の名前を言わせる。
北極星、カシオペア座、北斗七星・・・。
ジョン「ぼく、大きくなったら天文学者になる」
父「いいねえ」
エルシー「私は?」
父「結婚して5人の子が生まれる。男の子が2人で女の子が3人。うちから近いところに住んで、時々やって来て食事しながら話をする」
エルシー「ふーん」

ジョンが行方不明になって2年後。
両親は軍の関係者たちに会って必死にジョンの行方を探している。
夫は妻に「私は自分勝手で役立たずで・・」などと言う。
さすがにこの2年間、いろいろ考えざるを得ず、家族に悪いことをした、と、彼なりに反省しているようだ。
だが妻キャリーは「取り繕わないで」と冷たく言い放つ・・。

そこにボーという男が友人に付き添われてやって来る。
農民のボーは戦争から戻ったが、体がだいぶ衰弱しており、人に支えてもらわないとじっと立っていることもできない。
しかも「話さなくちゃなんねえ」と言いつつ、でも「話したくねえ」と及び腰。
この男はジョンの隊におり、最後に彼と一緒にいたのだった・・・。

1933年、夫婦はラジオのBBⅭのニュースで、ナチスが政権をとったことを知る。
夫「水の泡だ、水の泡・・」
息子は何のために、命を犠牲にしてまで戦ったのか。
夫は杖をついて歩く。
妻は毛糸の肩掛けをまとっている。
老いた二人の絶望は深い。

だが最後は明るい話題で締めくくられる。
エルシーが結婚するのだ。
白いドレス姿のエルシーに、父は言う。
「やっと母さんが笑顔になった。お前のおかげだ」・・・

約3時間の上演だが、もっと長く感じた。
現代人には冗長に思えるところが多い。
私が演出家だったらあちこちバッサリカットしただろう。
でも上村聡史という人は、好きな演出家です(と急いで付け加えておきます)。
今回の演出も、とても良かったです。

役者たちがすごい。
みんな、とにかくうまいし熱演だし、迫力に圧倒された。
特に、キャリー役の倉科カナが素晴らしい。
最後の夫婦の緊迫した会話が驚くほどの熱量。
夫に対する憤りの表現がリアルで、胸に迫る。
この人は初めて見たが、言葉の語り口も適切で心地良い。

「ジャングルブック」は評者の子供の頃の愛読書だった。
黒ヒョウ・バギーラ、大蛇カー、教育係の熊、猿の群れ、兄弟狼たち・・・
狼に育てられた少年モーグリは、ジャングルで仲間たちと共に生きるが、人間界にも強く惹かれる・・。
幾度涙を流したことか。
あの本の作者がこんな苦しい経験をしていたとは、まったく知らなかった。


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チェーホフ作「三人姉妹」

2023-10-08 23:41:12 | 芝居
9月28日、自由劇場で、アントン・チェーホフ作「三人姉妹」を見た(翻訳・上演台本:広田敦郎、演出:大河内直子)。






田舎での単調な日々の中で知性と教養を持て余す三人姉妹の夢は、いつの日か生まれ故郷のモスクワに行くことだったが・・・。

<1幕>
幕が開くと、かなり奥行きのある舞台。
長方形のテーブルに優美な椅子がたくさん並び、これから食事が始まるらしい。
あちこちに置かれた花瓶に、白を基調とした花々が活けられていて美しい(美術:石原敬)。
5月。今日は三女イリーナ(平体まひろ)の名の日のお祝い。
彼女だけが白いドレス姿。
長女オーリガ(保坂知寿)は教師の仕事で疲れている。
次女マーシャ(霧矢大夢)には教師の夫(伊達暁)がいるが、彼女の心は、今では彼から離れている。
両親はすでに亡く、家には当地に駐在する軍隊の将校たちが盛んに出入りしている。
この三人姉妹にはアンドレイ(大石継太)という兄弟がおり、彼にはナターシャ(笠松はる)という恋人がいる。
ナターシャも招かれたらしく食事会にやって来るが、おどおどしていて自信なさそう。
陸軍中佐ヴェルシーニン(鍛冶直人)には妻と二人の娘がいるが、妻は自殺未遂を繰り返して彼を困らせているという。

<2幕>
ナターシャはアンドレイと結婚して、早くも一児の母となっている。
すっかり変身し、態度物腰がまるで別人のように堂々としている。
義理の姉妹たちが育ちがよくておとなしいのをいいことに、相当厚かましく振る舞う。
夫アンドレイは気が弱く、妻に何も言えない。

<3幕>
幕が開くと、奥行きがぐっと狭くなっている。
椅子、長椅子、洋服ダンスなどの家具が所狭しと置いてある。
近所で火事があり、たくさんの人たちが屋敷に避難して来ている。
真夜中。オーリガは着るものや毛布などをありったけ人々に提供する。
80歳になるかつての乳母・アンフィ―サ(羽子田洋子)をめぐる、ナターシャとオーリガの会話。
ヴェルシーニンとマーシャ、そして彼女の夫。
イリーナと男爵、そしてもう一人の男。
この二組の三角関係が進行する・・・。

庭。白樺などの高い木々。
アンドレイが乳母車を押して歩いている。これは2人目の子供だ。
彼は妻の不倫に気づいている。
「僕はナターシャを愛している。・・・僕はどうして結婚したんだろう・・・そもそもどうして彼女を好きになったんだろう・・・」
軍隊はこの町を離れることになり、将校たちはここの家族と別れを惜しむ。・・・幕

2幕で、マーシャが「アモー、アマース、アマット・・・」とラテン語の動詞「愛する」の活用を口にして、教養のあるところを見せる場面。
ここは翻訳が難しい箇所で、「愛する、愛さない、愛します・・」などとやることが多いが、今回は、そのまま「アモー、アマース・・・」と
やっていた。
下手に日本語に移すより、結局それが一番いいかも知れない。

びっくりしたのは、マーシャが2人の姉妹に自分の密かな恋のことを打ち明ける場面。
最後に彼女は「後は沈黙」と言ったのだ!
だってこれはハムレットの最期のセリフ(the rest is silence )じゃないですか!
うちにある「三人姉妹」は神西清訳で、「・・・黙って・・・黙って・・・」と訳されている。
英語版もあるが、そこでは " silence・・・silence!・・・" と訳されている(Elisaveta Fen 訳)。
だから、これはコンスタンス・ガーネットによる英語版のままなのか、あるいは広田敦郎氏によるちょっとした遊びなのか・・。
だがいずれにせよ、ハムレットの場合とここの場面とは、状況が全然違うと思う。
ハムレットの場合、自分はもう死ぬから口がきけない、という意味。
マーシャの場合、「私の秘密の恋のことは、二人共、誰にも言わないでね!」という意味。
だから今回の訳は、面白くはあるが、ちょっと場違いかなと思う。

三女イリーナは、トゥーゼンバッハ男爵(近藤頌利)に求婚され、悩んだ末に彼と結婚する道を選ぶが、
彼は彼女が自分を愛していないことに気づいており、苦しむ。
彼女は24歳。
これまで人を好きになったことがないと言う。
彼女は今で言う、いわゆる「アロマンティック」なのだろう。

仕事一筋で校長になったが、日々の勤めで疲れ果て、結婚していたら・・と思うこともある長女オーリガ。
夫がありながら妻子ある男性と恋仲になるが、その彼と別離を余儀なくされて嘆き悲しむ次女マーシャ。
恋愛に憧れながらも恋愛気質でなく、結局オーリガと同じように教職に就いて一人生きていくことになりそうなイリーナ。
三人三様の悲しみと苦しみが描かれ、胸に迫る。
彼女たちがずっと熱望していたモスクワ行きは、この先も、ついに実現しそうにない。
イリーナ「やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、何のためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。・・・」
オーリガ「・・・もう少ししたら、何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。
・・・それがわかったら、それがわかったらね!」(神西清訳)

今回、主役の三人とナターシャ役の笠松はるが素晴らしい。
ナターシャ役は、ともするとヒステリックになりがちだが、この人はそんなこともなく、自然だった。
育ちが悪いため、三姉妹と比べると品のない役だが、柔らかな口調が心地よい。

配役を見た時から期待していた通り、今まで見た中で最高によかった。
演出もよかったし、原作に忠実な舞台装置も嬉しい。
ただ客席に傾斜があまりないため、前の席の人が邪魔で舞台がよく見えなくて困った。
それと、後ろを向いてセリフを言われると、よく聞こえないことがあった。

長女オーリガ役の保坂知寿は、2012年12月に「地獄のオルフェウス」で見たことあり。
次女マーシャ役の霧矢大夢は、昨年3月に、三島由紀夫作「薔薇と海賊」で見たことあり(演出は今回と同じ大河内直子)。
三女イリーナ役の平体まひろは、今年の夏、「夏の夜の夢」で初めて見て、名前を覚えようと思った人。
このように、いずれも演技は折り紙つき、しかも三人とも美形で声もいいときている。
これで期待しない方がおかしいでしょう。
大満足の一夜でした。






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「アナトミー・オブ・ア・スーサイド」

2023-10-04 22:06:12 | 芝居
9月26日文学座アトリエで、アリス・バーチ作「アナトミー・オブ・ア・スーサイド」を見た(演出:生田みゆき)。






命を未来に繋ぐことへの希望と恐怖ーーーその狭間で揺れる三世代の女性の物語。

自殺願望を持ちながらも母としての役割を果たそうとするキャロル、
薬物中毒に苦しみつつ自分の居場所を見つけようとするアナ、
母親を早くに失い、医者として人間の死と生に常に向き合うボニー。
三世代の物語は舞台上で同時に進行していく実験的な構造となっている。
そこで紡がれる言葉は時に呼応し、
共鳴しながら重奏曲のように奏でられていく。
《母であること、女性であること、生き続けること、命をつなぐこと》
自問自答を繰り返し、3人はそれぞれ決断していく・・・(チラシより)。

出演者の体調不良により、何度かの上演中止と公演延期を経て、この日、ようやく見ることができた。
ネタバレあります。
タイトルとチラシを見ただけで暗くて重苦しい内容らしいと分かるので、観劇前は気が重かった。
チラシにある通り、三世代の情景が舞台上で同時に繰り広げられる。
セリフが時々重なるので、全部聞き取るのは難しい。
平田オリザの芝居のようで、最初は正直イライラしたが、幸い、そんな構造にも少しずつ慣れていった。

キャロル(栗田桃子)は精神的に不安定。彼女は妊娠し、娘を出産して、夫、夫の姉、姪らと会話するが、話は奇妙にかみ合わない。
結局彼女は、娘アナが16歳の時、鉄道自殺してしまう。
キャロルの娘アナ(吉野実紗)はヘロイン中毒。ドキュメンタリー映画の監督ジェイミーと結婚するが、やはりメンタルが非常に不安定。
彼女は娘を出産後まもなく自殺を選ぶ。
この場面はなく、セリフもないので、観劇中はわからなかった。
たまたま今回、2度にわたって公演が延期になり、チケットがキャンセルになったお詫びということらしいが、
会場で400円で売っていた「創作解剖書」というのをもらった。
それに載っていた「物語時系列表」を見て、やっとアナが自殺したことがわかった次第。
アナの娘ボニー(柴田美波)は医師で同性愛者らしい。
彼女は、祖母と母が娘を出産後自殺したことが心から離れず、そういう、自殺の連鎖を自分のところで止めたいと考える。
「私で終わりにしたいの」
そのため、ステディな恋人がいるわけでもないのに子宮摘出手術を受けようとする。
だが医者からは、病気でもないのに、と当然ながら不審がられ、カウンセリングを勧められる・・。

前衛的で実験的な手法には、最後まで違和感が消えなかった。
だが、これを書きたいという作者の強い気持ちは、同性として、ある程度想像できる。

役者はみなうまい。久々に文学座の力量を見せられた感じ。
特にボニー役の柴田美波とアナ役の吉野実紗が印象に残った。
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アーサー・ミラー作「橋からの眺め」

2023-09-29 22:42:59 | 芝居
9月21日東京芸術劇場プレイハウスで、アーサー・ミラー作「橋からの眺め」を見た(演出:ジョー・ヒル=ギビンズ)。




ニューヨークの貧民街を舞台に、最愛の姪と暮らす夫婦が、違法移民の従兄弟を受け入れたことで一家に巻き起こる悲劇を
スリリングに描く社会派ドラマ(チラシより)。

エディ(伊藤英明)と妻ベアトリス(坂井真紀)は、ベアトリスの姉の死後、姪キャサリン(福地桃子)を引き取って3人で暮らしている。
キャサリンは、高校卒業後、速記の学校に通っているが、ある日、校長に呼ばれ、ある会社で女性を一人募集しており、学校で一番優秀な生徒として
推薦する、と言われる。卒業まであと半年ほどあるが、学業と両立できるし、給料も高いという。
キャサリンとベアトリスはすっかり乗り気だが、キャサリンをいつまでも子供扱いしているエディは、あの地区は物騒で、怪しい男たちがたむろしている、と
言って反対する。
だが二人の説得に負けて、ついにエディもキャサリンが働きに出ることを許す。
そんな時、イタリアから不法に入国したマルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)という兄弟が、彼らを頼ってやって来る。
マルコはイタリアに、妻と幼い子供たちを残して、言わば出稼ぎに来たのだ。
一方、ロドルフォの方は、まだ独身。
エディは二人を地下室にかくまってやるが・・・。

エディは自分のことを、キャサリンの父親代わりの保護者のつもりでいるが、どうもそれだけとは言い切れないようだ。
冒頭、もう立派に成熟した女性であるキャサリンが、子供のようにエディに抱きつき、二人がハグしまくるのを見て驚いた。
この二人の関係は?夫婦?と思ったくらい。
実の親子でも、娘が中学生か高校生になったら、これほど密に接触したりしないのではなかろうか。
そして、エディと妻ベアトリスとの間に、この3ヶ月、夫婦の関係はない・・・。
ベアトリスにそれを指摘されると、彼は「この話はもうよそう」と嫌そうに言うのだった。

ロドルフォとキャサリンが急速に親しくなると、エディは気が気でなくなり、弁護士(高橋克実)のところへ行って訴える。
あんな奴、何とかしてくれ、と。
だが不法移民であること以外、ロドルフォは何の犯罪にも関わりがない。
弁護士はそう言ってエディを説得しようとするが、エディはまったく聞く耳を持たない・・。

初めて見た芝居で、内容もまったく知らなかったが、演出に問題が多いと感じた。
天井が何度も上下するのも意味不明。
みんながはしごを使って部屋に出入りするのも変だ。
ついでに言うと、チラシに「橋の下で身を寄せ合う人々・・」とあるが、彼らは橋の下に住んでいるのでは「ない」!
ちゃんと住所のある建物に住んでいるのだ。

ロドルフォの歌はイマイチ。どう反応していいのかわからず困った。

時々、弁護士が登場し、我々観客に向かってこの事件について語り、状況を説明する。
だが彼が、いくつかの場面で透明人間のように立っていて、その場にいる他の誰にも見えないという趣向があって、違和感を覚えた。
他の人にもそういう場面があった。
この弁護士が何度も不吉な予言をするので、きっと追い詰められたエディが誰かを殺すのだろうと身構えていたが・・・。
予想は一部裏切られた。
ラスト、一人がナイフでもう一人を刺すのかと思いきや、赤い液体の入った小瓶を持って近づき、その中身を相手にかける。
相手の白いシャツが赤く染まり、男は倒れる。
こういうのは初めて見た。

結局、エディに必要だったのは弁護士ではなく、セラピストかカウンセラーか精神科医だった。

役者はみな、なかなかの好演で見応えがあった。
エディ役の伊藤英明は、やや一本調子。







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「桜の園」

2023-08-17 10:34:25 | 芝居
8月10日パルコ劇場で、アントン・チェーホフ作「桜の園」を見た(翻訳:広田敦郎、演出:ショーン・ホームズ)。






時代の急激な変化が理解できず、先祖代々の美しい領地が抵当に入って、近く競売にかけられようとしているのに、昔の華やかな暮らしを
捨てることができず滅びてゆく貴族階級の人々。そして台頭する新たな若い世代。
チェーホフ最後の作品。

ネタバレあります注意!
舞台中央にどっしりとあるのは四角い鉄の塊。天井から下がる何本もの鎖でつながれている。
幕が開くと鎖が上がり、長方形の部屋が現れる。一段高くなっている。
そこは旧子供部屋。女主人ラネーフスカヤ(原田美枝子)と兄ガーエフ(松尾貴史)も子供の頃そこで遊んだ。
7歳で溺死した息子グリーシャの三輪車。空っぽの本棚。

赤い作業服の男がマイクを持って「チェリー・・」とか歌いながら通り過ぎる。
奥は全部金網のフェンスで囲われている。

ビニールプールに水が張ってある!
ライフル銃を構えた家庭教師シャルロッタ(川上友里)は派手な柄の水着姿で登場!
これには驚いた。
なるほどこれが「斬新な演出」と評判の演出家か。

ロパーヒン(八嶋智人)は、ラネーフスカヤが勝手に養女ワーリャ(安藤玉恵)に「あなたの結婚を決めたのよ!」と言うと、
何か言わないといけない状況に追い詰められ、「オフィーリア、尼寺へ行け・・・とか言いますよね・・」。

おしゃべりで演説好きなガーエフは、時々内ポケットからマイクを取り出してスピーチを始める。
ラスト、いよいよ皆で屋敷を去るという時、またマイクを取り出して胸にこみ上げる思いをひとくさり述べようとすると、
スイッチが切れているのに気がつき、諦めて声を張り上げる。

元家庭教師トロフィーモフ(愛称ペーチャ・成河)は26歳で、「万年大学生」とみんなにからかわれている。
ラネーフスカヤの元に、パリにいる元愛人から連日手紙や電報が来る。
その男は彼女の金で裕福な生活を送り、病気になると彼女に献身的に看病されたが、回復すると別の女の元に去った奴だった。
最初のうち彼女は、手紙が来るたびに破り捨てていたが、そのうち、彼のことを今でも「愛している」と言う。
懲りない女性だ。
彼女は「私、パリに行くべきよね?」とペーチャに尋ねる。
そんなこと、聞かなきゃいいものを。
当然ながら彼は「そいつは泥棒だ!」「あなたからすべてを奪った奴だ!」みたいなことを言う。
誰だってそう言うだろう。
するとラネーフスカヤは一瞬ひるむが、すぐに態勢を立て直し、反撃を開始する。
そこが面白い。
この芝居の見どころの一つだ。
「そういうあなたはどうなの?!26歳にもなって女性とおつき合いしたこともないなんて。
人を愛したことがないんでしょう・・」
男はさすがに怒って立ち去るが、夫人はすぐに謝り、「冗談よ」と呼び戻しに行く。
そして男もまた気を取り直して夫人と踊り出す。
どちらも何だか軽いが、見ている方としてはホッとする。

この翻訳ではロパーヒンの父親も祖父も「百姓だった」と言われるが、より正確には「農奴」だろう。
(神西清訳では「親父も祖父さんも奴隷だった」)
かつての農奴の息子が(農奴解放令を経て)商人となり、日夜がむしゃらに働いて金をため、お屋敷を買い取って大地主になったのだから、
天地がひっくり返ったようなものだろう。

この成り上がり者のロパーヒンを演じた八嶋智人がうまい。
今までに4人くらいのロパーヒンを見たが、断トツにうまい。
最初は早口なこともあり、セリフが聞き取れない所もあったが、ラスト、ついに桜の園を手に入れてからが実にいい。
ラネーフスカヤの兄ガーエフ役の松尾貴史も好演。

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「こんにちは、母さん」

2023-08-04 11:03:29 | 芝居
7月27日くすのきホールで、永井愛作「こんにちは、母さん」を見た(演出:磯村純)。



家業の足袋職人を継がず会社人間として生きてきた神崎昭夫(加藤義宗)は、人事総務部のリストラ対策部長になっていた。
人生に迷っていた昭夫がたどり着いたのは、母の福江(一柳みる)が一人で住む東京・下町の実家。
しかし、家の中はすっかり変わっていた。
見知らぬ中国人の女の子(張平)が家の中を駆け回り、福江はボランティアに精を出しとても楽しそうだ。
しかも福江には恋人らしき荻生直文(山崎清介)の存在が。
「今」を精一杯に生きようとする母とその恋人、二人の生き方に戸惑いと発見を繰り返しながら、自分自身を見つめ直す息子。
そして、この三人の奇妙な共同生活が始まる。
福江、直文、昭夫と彼らを取り巻く下町の元気な人々の生活を通し、「人生を正直に生き直そう」とする人々の姿が、
生と死を深く交錯させた笑いと涙の中に描かれていきます(チラシより)。

劇中、息子の声が父親の声と似てきた、というセリフがあったが、まさにこの日、初めて気がついたことがあった。
加藤義宗は、父・加藤健一に声がそっくり!特に、張りのある大声を出した時など。

福江によると、夫は5年間病気で寝込んでいて彼女が看病した。
そして、嫁のともみさんが4年前突然家に来た。
「その時お父さんはいなかった」
これって、どう考えても矛盾してますよね!?
寝込んでいる病人が、一人でどこかへ行くわけがないでしょう。

昭夫の同僚・木部(伊原農)がリストラされ失意の内に昭夫の実家を訪問し、福江に近づき、膝枕して頭を撫でてくれ、と言って甘えるシーンが、とにかくキモい。

福江は直文に連れられて、直文が長男一家と住む家を訪問する。
そこで彼女は、長男夫婦もその息子も大学卒なのに自分は小学校しか出ていないということに気がつく。
テーブルマナーで失敗し、他にもいろいろ恥をかき、この人たちと自分とは世界が違うと感じる。
しかも彼女は、直文が、そんな自分のことを恥ずかしいと感じている、と気がつく・・。
このように、知的格差を描くというのは昔の少女漫画に時々あったような気がする。
だが今では時代錯誤だし、第一、見ていて不愉快。しかも全然面白くない。

家出して福江の家に(言わば)押しかけて来た荻生直文が持参した荷物の中にメンコがあり、それを見た昭夫は俄然興味を示し、懐かしがる。
彼はその場でメンコをやり出し、直文の長男の妻(宇田川さや香)も誘い、二人で遊んで打ち解けていく。
そのシーンがほほえましく明るくて、唯一の救いだ。

作者は中国人留学生を登場させて、戦時中の日本の加害の歴史を入れたかったのだろう。
だが「夫は大陸で人を殺した、それも子供を殺したに違いない、だから引き揚げて来た後も、自分の息子を抱いてやることも
一緒に遊ぶこともできなかったんじゃないか・・」という福江の想像と展開には少々無理がある。

留学生が日本語検定試験のために勉強しているので、井上ひさし張りに日本語談義が続く場面もあるが、残念ながら、あまり面白くない。

今回は、残念ながら期待はずれだった。
永井愛の作品にも出来不出来があるということか。
ただ、一柳みるの変わらぬ美貌と演技は見応えがあった。
加藤義宗もセリフ回しが明瞭で、好演。
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「その場しのぎの男たち」

2023-07-27 10:57:53 | 芝居
7月21日紀伊國屋サザンシアターで、三谷幸喜作「その場しのぎの男たち」を見た(演出:鵜山仁)。



東京ヴォードヴィルショー創立50周年記念公演。
その初日を見た。
なおこの芝居は10年前の2013年に、山田和也演出で見たことがある(劇団創立40周年記念公演)。

1891年(明治24年)滋賀県大津市で、来日中のロシア皇太子が切りつけられるという大変な事件が起こった。
犯人は警察官・津田三蔵で、彼はロシアに日本侵略の意図があり、その準備として皇太子が偵察に来た、と考え、愛国心に駆られて犯行に及んだのだった。
当時日本はまだ近代国家としての形をとり始めたばかり。
大国ロシアからの賓客を、国を挙げて歓迎している最中だった。
事件の報復にロシアが日本に攻めて来る、と日本中に激震が走った。
時の内閣総理大臣は松方正義(佐渡稔)。
だが彼をはじめ閣僚たちは元老・伊藤博文伯爵(伊東四朗)によってその地位を与えられた面々で、判断力にも決断力にも欠けており、
何より伊藤博文の意向を常に気にしていた。
ただ一人、大臣・陸奥宗光(佐藤B作)は根っからの策士で、総理は彼に全面的に頼るが・・。
ネタバレあります注意!

冒頭、日本とロシアの国旗が掲げられる下で、着物姿の人々がロシア民謡風の歌を歌う。
突然不吉な音がして、2つの国旗が傾き、歌が止み、舞台を暗い赤色が覆う。
この導入がいい。

舞台は終始同じ一つの部屋。
負傷したロシア皇太子・ニコライ二世が滞在する常盤ホテルの一室。
部屋の様子は前回のとほとんど同じ。

驚いたのは、いきなり主役の一人がセリフに詰まり、芝居に間が空いたこと!
それは、カーテンコールでB作さんも言ったように、「始まって5分で」起こったのだった。
だがこの日の客席は寛容だった。
かえって役者の失敗を笑ってくれたのだった。
何とありがたいお客様たち!
でも空白を作って芝居を中断させるなんてけしからんでしょう。

大臣たちはニコライ二世と同じホテルに滞在し、彼の部屋に見舞いに行こうとするが、窓口となったシューヴィチという駐日ロシア公使が頑として拒絶。
なぜ彼は、かたくなに面会を拒否するのか。
ひょっとしたらニコライはもう生きていないんじゃないか。
今後の出方を考えるために時間稼ぎをして、本国と連絡を取っているんじゃないか。
賠償金請求・・いや領土割譲・・ロシアは代償としてこれから何を言い出すだろうか。
彼らの想像はどんどん悪い方へ広がってゆく。

ようやくニコライが死んでいないことがわかり、ほっとしたのも束の間、今度は、殺人でなく傷害事件だから、法律によれば犯人を死刑にできないことが問題となる。
ロシア側は当然死刑を要求するに決まっている。
すると、いっそニコライを殺してしまおう、と、とんでもないことを言い出す奴が出てくる。
その企みが(幸い)失敗すると、今度は逆に、犯人の津田を密かに殺してしまおう、と画策する・・。

タイトル通り、次々に起こる難局に「その場しのぎ」で対処しようと右往左往する大臣たち。
何度見てもおかしい。
伊東四朗がやはり絶品。
彼とB作さんとの腹の探り合いがたまりません。
もちろん途中、スラプスティックなドタバタ劇で、さほど面白くない箇所や下品で時流にあわない所もあったりするけれど。
犯人・津田の妻(あめくみちこ)、元「くノ一」亀山乙女(山本ふじこ)が登場したり、と変化もあって楽しい。
筆者は乙女の「御意!」というセリフが待ち遠しかった。

当時、実際に、ニコライの訪日が軍事視察であるという噂があったらしい。
この事件と日本政府による処理は、それによって日本が法治国家として国際的に認められたという点で、歴史上、大きな意味があったという。

初日とて、カーテンコールで役者たちが出てくると万雷の拍手。
B作さん曰く、「今日の出来でこんなに拍手がいただけるとは・・」
そしてしみじみと「心の広い皆様で本当によかった」(笑)
だがいくら初日でも、ちょっとどうかと筆者は思った。
やはりここでも高齢化の影響が・・。
ほぼ同じメンバーが演じた10年前は、たとえ初日でもこんなことはなかったと思う。
だがB作さんも言うように、とにかく「ホンがいい」から、客席はそんな出来でも満足できたし、
十分笑って日頃の憂さを晴らせたようだった。
でも・・それに甘えないでくださいね。


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「ブラウン管より愛をこめて ―宇宙人と異邦人― 」

2023-07-20 19:10:24 | 芝居
7月13日シアタートラムで、古川健作「ブラウン管より愛をこめて ―宇宙人と異邦人― 」を見た(劇団チョコレートケーキ公演、演出:日澤雄介)。



1990年、バブル景気に沸く日本。
特撮ヒーローものを制作する会社の企画室。
20代30代の若手クリエイターを中心に番組の脚本会議が行われている。
少年時代、特撮巨大ヒーローのシリーズに熱中した経験のある彼らは、自分たちの仕事が所詮は過去の名作の焼き直しに過ぎないことに
忸怩たるものを感じながらも、半ば先行の名作の後追いになるのは仕方ないとあきらめている。
そこには、本来は大人向けの番組を作りたいという屈折した思いもある。
そんな覇気のない会議の中で、一人の脚本家があるシリーズで放送された異色エピソードを話題にする・・(チラシより)。
ネタバレあります注意!

この劇作家の作品は、これまで歴史上の事件・出来事・人物を扱ったものを見てきたが、これは初めての純然たるフィクション。
今回のテーマは、ズバリ「差別」。
人はなぜ差別するのか。
多数派が少数派を差別しなくなるには、どうすればいいのか。
このテーマを扱うにあたって、テレビの特撮ヒーロー番組を制作する人たちの現場を舞台にするという手法が秀逸。
かつて「ウルトラマン」シリーズの中で、脚本家がメッセージ性の強いものを書いていた。
その史実を元にしたわけだ。
今回、テレビの特撮ヒーロー番組のために、ある脚本家が書いてきたのは、次のような物語だった。

 ある時、一人のカスト星人が地球にやって来る。
 彼の星、カスト星はすでに消滅していた。
 彼は宇宙船の中で生まれた、最後のカスト星人だった。
 彼は地球に居場所を見出そうとするが、異質な者を敏感に嗅ぎ分け、不審がる人々によって不当な扱いを受ける。
 彼の中で悲しみと怒りが湧き上がる。
 一方、地球には人類を守るワンダーマンというのがいて、地球侵略を企んで次々とやって来る宇宙人と戦っていた。
 ワンダーマンは、カスト星人に地球侵略の意図がないことを知り、地球から出ていくように言う。
 だが、カスト星人には帰る星がなかった・・。
 人間たちは、カスト星人に対してますます不信感を募らせ、攻撃的になる。
 彼の怒りと憎しみは増し、自衛のためにも人間たちと戦おうとする。
 実は、カスト星人には大きな力があり、一つの町を焼き尽くして滅ぼすこともできるのだった。
 ワンダーマンは、本来人類のために外敵と戦う存在なのだが、カスト星人と戦う気にはなれず、彼を守ろうとする・・・。

このドラマを放映することについて、スタッフたちは悩み、議論する。
差別については、当然ながら敏感な人と鈍感な人がいる。
歴史を知らない若者は、日本における差別の歴史を調べ始める。
結局、人間は、外見などが自分と違う者を見ると、恐怖を抱く。
そしてその者を排除しようとする。
それが歴史上繰り返されてきた差別だ。
差別する側の人間は、差別された者の痛みを理解できない。

相変わらず骨太な、男たちの群像劇が描かれる。
まずキャスティングがいい。
そこに花を添える女優・森田杏奈(橋本マナミ)がいる。
その上品で趣味のいい衣装(藤田友)もいい。
登場するたびに服を変えるので、目に楽しい。

ただ、時に井上ひさし張りに生硬で直球勝負な言葉が続くことがあり、それが惜しい。
差別という語があまりにも頻出するのも工夫が必要だろう。
それと、特に劇中劇(テレビドラマの撮影シーン)で、次のセリフがわかってしまうことが多いのも惜しい。
だが、ラスト近くの自主練のシーンでは、不覚にも落涙・・・。
関東大震災の時、東京で起きたというおぞましい朝鮮人虐殺を思い出した。

ラストで監督がゲイだとわかるが、これが唐突に感じられた。
ここに LGBTQ の要素を入れたいという作家の気持ちはわかるが。
確かにいくつか伏線はあるが、欲を言えば、もう少し前から触れておいてほしい。
というより、無理して入れる必要はなかったかも。

役者では、カスト星人を演じる男優・井川信平役の伊藤白馬が特に印象に残った。
もちろん岡本篤、浅井伸治、林竜三、緒方晋といった人たちも好演。

現実のシーンとテレビドラマのシーンがうまく組み合わされている。

厳しいことを言うと、主役の脚本家はともかく、その他の登場人物全員が(やはり)ステレオタイプで、
その職業的立場からこう考えるだろう、こう言うだろう、ということを考え、そして口にする。
監督は監督代表、プロデューサーはプロデューサー代表、テレビ局側はテレビ局側代表、というように。
女優・森田杏奈は、小学校の道徳の教科書に出てくる人のよう。
そう、この作品は、それこそ道徳の教科書に採用されたっておかしくないものだ。
つまりは、一人一人の人物像に深みがないということ。
こんなこと書きたくなかったけど、やっぱり書かないわけにはいかない。
題材もいいし、役者たちもいいだけに実に惜しい。
(泣かせてもらったのにキツイことを言ってしまってすみません・・)
わかってもらえるでしょうか。
作者の思いと訴えに対しては、まったく同感なのです。





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「夏の夜の夢」

2023-07-12 22:06:03 | 芝居
7月4日紀伊國屋サザンシアターで、シェイクスピア作「夏の夜の夢」を見た(文学座公演、演出:鵜山仁)。






パンデミック、戦争、自然災害・・・私たちを取り巻く世界は、
私たちの頭の中のリアルを超えてしまいました。
いま目に見えるもの、いまここにいる自分。
それだけでは受け止めきれない現実に向き合う力をもらいに、
妖精が跋扈し、恋人たちが疾走する森にいらしてください(チラシより)。

文学座がサザンシアターを使うのは珍しいのではないだろうか。
翻訳は小田島雄志。
駄洒落が多いので有名な彼の訳は、原文から大胆にそれて行っているので、学者の間では評判が悪いそうだが、
上演となると、また話は別だ。
日本語で笑えるダジャレにしてくれているので、当然、客席が沸く。
今回、セリフを言った後で役者同士、笑ったりする。

アテネ市民は全員、白一色の服装。
対照的に、村の職人たちは、それぞれカラフルな服。
同じ役者たちが演じる妖精たちは、思いっ切りはっちゃけた衣装。
妖精の女王は華麗な青い衣装で王様が赤。この二人の衣装がいい。まさに夢の世界だ(衣装:原まさみ)。

舞台奥に打楽器奏者が二人。時々生演奏。

いたずら妖精パックをベテラン中村彰男が演じる。
このキャスティングがいけない。
そもそもパックは子供とまでは言わないが、若くて、あまり深くものを考えたりしない。
だからいたずらばかりでなく、あわてんぼうで、よく失敗する。
若いからこそ敏捷で、「地球を40分で」一回りして戻って来れるのだ。
これほど年取ったパックは見たことがない。
しかも彼は人間ぽい。全然妖精らしくない。
妖精の王オーベロンは、石橋徹郎。
この人は好きな役者さんだが、今回はいささか失望させられた。
なぜって、王様にふさわしい威厳がないから。
特にパックと友達のような口をきき合うのはよくない。

森の中で二組の恋人たちが激しく争い、しまいには大立ち回りまで演じるシーン。
これが実に面白い。
特にヘレナ役の渡邊真砂珠が出色。
ハーミア役の平体まひろも好演。

あちこちに演出家がセリフを足したのか、耳慣れない言葉が聞こえた。
妖精の女王タイテーニアが「・・ナタデココ」と言ったり(笑)
このタイテーニアを演じた吉野実紗がまたよかった。
全体にゆったりと女王らしい威厳をまといつつも、恋に溺れた時の様子は可愛らしくチャーミング。

今回、ボトムの頭に被せられるロバの頭は、帽子程度の小さなもので、どこがロバなのかよくわからなかった。
個人的な好みを言うと、もっと大きくてリアルなのがほしい。
でないと職人仲間たちの驚きが不自然に感じられてしまう。

ラスト、妖精も貴族も村人も、みんな一緒に踊り出す。
これをどうとらえたらいいのだろうか。
演出家にはきっと、何か特別な意図があるのだろうが。
こんなことをしたら、作品世界とかけ離れてしまうのではないだろうか。





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「ジン・ゲーム」

2023-07-05 22:37:28 | 芝居
6月29日、本多劇場で D.L.コバーン作「ジン・ゲーム」を見た(演出:小笠原響)。




春、老人ホームのサンデッキで出会ったフォンシア(竹下景子)とウェラー(加藤健一)。
入居者や食事や看護師への愚痴で息の合う二人。
ホーム独特の空気感に馴染めない二人は、トランプ遊びを始める。
時間つぶしがてら気軽に始めたゲームだが、初心者のフォンシア相手に全く勝てないウェラーは、対戦を重ねるごとに苛立ってきて・・・。
単純なトランプゲームが、孤独な老人たちの”単純ではない”過去をあらわにする。
名優二人による重厚な演技で、ピューリツァー賞受賞の名作に挑戦。
セリフの応酬がおもしろい、チクリと刺さるビターコメディ(チラシより)。

作者は1938年アメリカ・メリーランド州生まれ。
この作品は1978年ピューリツァー賞受賞の由。
その初日を見た。ネタバレあります注意!

舞台は施設の中庭。2人掛けのブランコが2つ、テーブルと椅子のセットが2組、その他、椅子やベンチ。周りに植栽。
ウェラーはここに来て2ヶ月。フォンシアは3週間。
今日は面会日だが、二人共、面会に来る家族も友人もいない。
フォンシアには40代の息子がいるが、彼が2歳の時夫と離婚し、その元夫も少し前に死去。
息子一家はデンバーに住む。孫息子2人(16歳と12歳)。
ウェラーも「離婚組」。子供は3人(女・男・男)いるが、元妻が子供たちを引き取って再婚したため、以来音信不通。

ウェラーはフォンシアに、一緒にジン・ゲームをやりませんか、教えますから、と誘う。
フォンシアは、そのゲームは知らなかったが、若い頃、厳格なクリスチャンの両親に隠れて、夜中の2時3時までカードをやっていた、と言う。
ジン・ゲームとは、世界三大カードゲームの一つで、2名で対戦するもの。
非常に単純なゲームで、セブン・ブリッジに似ている。
ゲームを開始すると、なぜかフォンシアが勝ち続け、「まぐれです」と言うが、ウェラーは憮然。
一週間後、リターンマッチをしたい、とウェラー。
椅子を取り替えてみるが、やはりフォンシアが勝ち続け、ウェラーが怒鳴るので、フォンシアは「もうやめます」と立ち去ろうとする。
男は「勝ち逃げは許さん」と言ったり、「いや、もう決して大きな声は出さないから」と頭を下げて引き留め、再開する。
だがやっぱり・・とうとう怒りのあまり「黙れ、このクソババア!」と怒鳴る。
  ~ここで休憩~
翌日ウェラーは庭に出てフォンシアを探す。
前日の無礼を謝るが、フォンシアは「たかがゲームなのにあんなに興奮して・・」「一度医者に診てもらったら?」
だが懲りない二人は、またもゲーム再開。
こうして女が勝っては男が怒り、懲りずにリターンマッチを繰り返す。
その間、二人の来し方が次第に明らかになる。
二人共、実は生活保護を受けている。
男は会社を経営していたが、心臓麻痺を起こして2年半療養していた。
その治療のために財産を使い果たし、病院を出てみると会社は相棒に乗っ取られていた。
しかも病気が再発。
女は離婚後、働かねばならなくなったが学歴がなく、短大卒と偽ってアパートの管理人になった。
address というスペルの d が1つだったか2つだったか自信がなく、間違ってるんじゃないかと心配で、書くたびに辞書を引いた、という。
(このエピソードは面白かった)
女は糖尿病の持病があり、時々目まいがする。
そのうちひょんなことから、息子がデンバーにいるというフォンシアの話が嘘だったことがバレるのだった・・。

こうしてストーリーを書いていてもむなしい。
ヤマ無し、オチ無し。(イミ無しとは申しません)
これがピューリツァー賞受賞作品とは!?
やはりピューリツァー賞は信用できない。
あの名作「ダウト」が受賞するのは当然だが、あれくらいのレベルのものがない年は、素直に「該当作品なし」にすればいいのに。
もちろん二人の役者さんたちは味があってうまいのだが。

蛇足だが、トランプというのは和製英語で、英語圏ではカードゲームというらしい。
古い翻訳を台本に使っているのなら仕方ないが、こういう芝居をきっかけに、少しずつカードゲームという語を浸透させていってほしい。

この戯曲ではカードが何度も配られるが、それと関係なく台本通りに反応しないといけないわけで、役者さんは段取りを覚えるのが大変そうだ。
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