6月23日新国立劇場中劇場で、「東海道四谷怪談」をみた(原作:鶴屋南北、演出:森新太郎、上演台本:フジノサツコ)。
塩冶の浪人、民谷伊右衛門は、自分の過去の悪行故に離縁させられていた女房お岩との復縁を舅の四谷左門に迫り、それが叶わぬと見るや
辻斬りの仕業に見せかけ惨殺する。左門の死体を見て嘆くお岩に伊右衛門は親切めかして仇討を誓い、それに乗じて復縁する。
民谷の家に戻ったお岩は、産後の肥立ちが悪く床に伏すようになり、伊右衛門は岩を疎ましく思い始める。そんな中、隣家の伊藤喜兵衛から
贈られた血の道の妙薬を飲んだお岩は、たちまち相貌が崩れ悶え苦しみ、放置してあった短刀に刺さり死ぬ。実は喜兵衛は、伊右衛門に
懸想した孫娘のお梅の思いを叶えようと毒薬を渡したのだった。伊右衛門は、家宝の薬を盗んだとして奉公人、小仏小平も殺し、お岩と
小平の死骸を川に流す。やがて二人の怨念は伊右衛門を襲い、苦しめる…。
初演は1825年。元禄期の実際の刃傷沙汰や、巷に残る伝説などを元に、71歳の南北が「忠臣蔵」の外伝という体裁で書き下ろし、初演は
「仮名手本忠臣蔵」と抱き合わせで上演された由。今回はお岩以外全員男性が演じるという。
映画は見たことがあったが、芝居では初めて。実に興味深かった。
まず伊藤家の孫娘が伊右衛門に懸想しているという情報が示される(これが意外と重要。これがないとお岩は顔が崩れない)。次に、彼は舅に離縁
させられた元妻のお岩にまだ未練があるということが明かされる。そしていきなりの殺人。動機ははっきりしているが、やはり唐突。
小平という奉公人が盗みを働いたというので、伊右衛門とその仲間たちは彼を捕え、いたぶって指を一本ずつ折るなどリンチをするのが恐ろしい。
まるで無法地帯だ。当時は、犯罪の被害者は犯人に対して何をしてもいいような感覚だったようだ。
伊藤家当主は「血の道の薬」を面相が醜く変わる毒薬と取り替えて乳母に持たせたと告げるが、それは伊右衛門が妻に愛想を尽かして離縁する
ようになるためであり、「ただ命に別状はないのでお咎めにはなるまい」と述べる。おいおい、うそでしょ!?と言いたくなるシーンだ。
つまり伊右衛門はお岩の顔の変貌にも責任がないし、彼女を殺してもいない。その点、何となく誤解している人も多いのではないだろうか。
ただ彼は冷酷で、我が子を可愛がるどころか関心も見せず、妻への労わりの気持ちも全くない。隣家のお梅との祝言のために金が入用になり、
病身の彼女から着物を剥ぎ取って出かける。だからお岩が恨むのは仕方がない。
お岩は子年(ねずみ年)だからネズミたちが仕返ししてくれる!
コミカルな場面もちらほら。特に伊右衛門の母はお笑い担当。
お岩(秋山菜津子)の「共に奈落へ誘引せん」というセリフがたまらない。今回も秋山さんの演技を堪能した。
ただ音楽がいけない。「乙女の祈り」が信じられないところで長々と流される。取ってつけたようなミスマッチ。またしてもうそでしょ1?と
叫びたくなった。
この曲を聴くまでは、役者たちも素晴らしく、ストーリーも面白く、これなら毎夏、見たいかも、と思った位だったが、ここで夢から覚めた。
残念だがあれを流すのなら、もう二度と見たくない。
蜷川マクベスのラストシーンで、アルビノー二のアダージョを延々と流して桜吹雪の中、長々と立ち回りをやらせたことを思い出した。
今回の演出家はあれがよほど気に入ったのかも知れないが、評者から見れば、前者はアルビノー二への冒涜、後者は脱力するほど情けない。
それまで和太鼓がとても合っていたのに、一体何を考えているのか。結局何も分かっていないんじゃないか。
あの曲なからましかば…。
塩冶の浪人、民谷伊右衛門は、自分の過去の悪行故に離縁させられていた女房お岩との復縁を舅の四谷左門に迫り、それが叶わぬと見るや
辻斬りの仕業に見せかけ惨殺する。左門の死体を見て嘆くお岩に伊右衛門は親切めかして仇討を誓い、それに乗じて復縁する。
民谷の家に戻ったお岩は、産後の肥立ちが悪く床に伏すようになり、伊右衛門は岩を疎ましく思い始める。そんな中、隣家の伊藤喜兵衛から
贈られた血の道の妙薬を飲んだお岩は、たちまち相貌が崩れ悶え苦しみ、放置してあった短刀に刺さり死ぬ。実は喜兵衛は、伊右衛門に
懸想した孫娘のお梅の思いを叶えようと毒薬を渡したのだった。伊右衛門は、家宝の薬を盗んだとして奉公人、小仏小平も殺し、お岩と
小平の死骸を川に流す。やがて二人の怨念は伊右衛門を襲い、苦しめる…。
初演は1825年。元禄期の実際の刃傷沙汰や、巷に残る伝説などを元に、71歳の南北が「忠臣蔵」の外伝という体裁で書き下ろし、初演は
「仮名手本忠臣蔵」と抱き合わせで上演された由。今回はお岩以外全員男性が演じるという。
映画は見たことがあったが、芝居では初めて。実に興味深かった。
まず伊藤家の孫娘が伊右衛門に懸想しているという情報が示される(これが意外と重要。これがないとお岩は顔が崩れない)。次に、彼は舅に離縁
させられた元妻のお岩にまだ未練があるということが明かされる。そしていきなりの殺人。動機ははっきりしているが、やはり唐突。
小平という奉公人が盗みを働いたというので、伊右衛門とその仲間たちは彼を捕え、いたぶって指を一本ずつ折るなどリンチをするのが恐ろしい。
まるで無法地帯だ。当時は、犯罪の被害者は犯人に対して何をしてもいいような感覚だったようだ。
伊藤家当主は「血の道の薬」を面相が醜く変わる毒薬と取り替えて乳母に持たせたと告げるが、それは伊右衛門が妻に愛想を尽かして離縁する
ようになるためであり、「ただ命に別状はないのでお咎めにはなるまい」と述べる。おいおい、うそでしょ!?と言いたくなるシーンだ。
つまり伊右衛門はお岩の顔の変貌にも責任がないし、彼女を殺してもいない。その点、何となく誤解している人も多いのではないだろうか。
ただ彼は冷酷で、我が子を可愛がるどころか関心も見せず、妻への労わりの気持ちも全くない。隣家のお梅との祝言のために金が入用になり、
病身の彼女から着物を剥ぎ取って出かける。だからお岩が恨むのは仕方がない。
お岩は子年(ねずみ年)だからネズミたちが仕返ししてくれる!
コミカルな場面もちらほら。特に伊右衛門の母はお笑い担当。
お岩(秋山菜津子)の「共に奈落へ誘引せん」というセリフがたまらない。今回も秋山さんの演技を堪能した。
ただ音楽がいけない。「乙女の祈り」が信じられないところで長々と流される。取ってつけたようなミスマッチ。またしてもうそでしょ1?と
叫びたくなった。
この曲を聴くまでは、役者たちも素晴らしく、ストーリーも面白く、これなら毎夏、見たいかも、と思った位だったが、ここで夢から覚めた。
残念だがあれを流すのなら、もう二度と見たくない。
蜷川マクベスのラストシーンで、アルビノー二のアダージョを延々と流して桜吹雪の中、長々と立ち回りをやらせたことを思い出した。
今回の演出家はあれがよほど気に入ったのかも知れないが、評者から見れば、前者はアルビノー二への冒涜、後者は脱力するほど情けない。
それまで和太鼓がとても合っていたのに、一体何を考えているのか。結局何も分かっていないんじゃないか。
あの曲なからましかば…。