ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

番外編・・・ドイツ語こぼれ話③

2021-11-08 10:20:32 | ドイツ語
(1)情緒的な副詞(doch, bloß, da, など)  

ドイツ語を始めてまず驚いたのが、意外と情緒的なこと。
日本の独和辞書をひくと、時々出くわすのが「(話し手の主観的心情を反映して)・・・」とか「叙述に具体性を与え、驚き・あきれなどの感情的ニュアンスを
添える」などという表現。それらはたいてい副詞。
たとえば doch の場合、「(話し手の驚き・感嘆の原因である意外な出来事を示して)それというのもなにしろ(・・・)なので」「だって(驚いたことに)
(・・・)なのだから」という具合。
主語、動詞、目的語といった主要な要素ではないので、文章構成上必要不可欠というものではないし、日本語に訳す時には特に訳す必要はない場合も多い。
だがドイツ人にとって、これらは会話の潤滑油のようなものらしく、無しでは済まされないようだ。
彼らは、こういった副詞をたくさん会話文の中に織り交ぜながら、自分の気持ちを相手にできるだけ正確に伝えたいという気持ちが強いようだ。
一般に、ドイツ人というと理屈っぽくてお堅いイメージだが、実際の彼らはかなり情緒的な民族なのかも知れない。

(2)Fahrrad (自転車)

初めてこの単語を知った時、すでに中年だったが、かなりがっかりしたことが忘れられない。
Fah は fahren つまり「乗り物で行く」という意味で、rad が車輪のことだから、その成り立ちはまったく自然で正しい。「乗り物としての輪っか」というわけだ。
だがファーラートというその発音、腹に力の入らない、気の抜けたような音がいやだった。
ところが、それから数か月、ドイツ人教師の授業を受けつつ勉強を続けるうちに、あ~ら不思議、いつの間にか、全然気にならなくなっていた。
慣れとは恐ろしくもありがたいものです。

学生の頃は、こういう身近な言葉をまったく知らず、Vernunft(理性)とか Versöhnung(和解)とかの哲学・神学用語にどっぷり浸かって暮らしていた。
中年になり、神学者カール・バルトの説教集の翻訳(共訳)という大変な仕事をいただいて、再び難解な文章と格闘する日々が始まった。
長いブランクがあったので大変だったが、そのうち慣れてくると、脳内でこんな難しいことをやってるのに日常会話もできないっておかしいんじゃないか、
バランスがとれてないな~、と気づき、思い切って会話学校に通い出したというわけだ。
バルトの、一文が何十行もあるような厄介な文章を因数分解のように解いて、自然で柔らかな日本語にする作業も、うまくいった時の快感は最高だったが、
若い人たちに混じってLöffel(スプーン)とか Gabel (フォーク)とかいう卑近な単語を覚えるのもまた、新鮮で楽しかった。



コメント
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