1月30日池袋シアターグリーンで、デーア・ローアー作「黒い湖のほとりで」を見た(演出:西本由香)。
4年ぶりに再会した2組の夫婦。
自ら死を選んだ子供たちが残した言葉は
永遠に解き明かされることのない問いとして
4人の前に投げ出されている。
堂々巡りする「なぜ」。
もう決して解り得ないものを
それでも解ろうとする極限状態の中で
繰り返される後悔と疑惑、
欺瞞、自責他責の言葉。
やがてその言葉の群れは四重奏となり
湖に広がっていく(チラシより)。
ネタバレあります。
舞台中央の天井から真っ白い布製の小舟が吊ってある。
ニーナとフリッツが心中した日から4年後、彼らの両親が再会する。
4人は初めて出会った日のことを懐かしく思い出し、なぜか急に、その日の行動を再現し始める。
夕方、すぐ近くの湖に行って、ボートに乗り、子供のようにはしゃいで水に落ち・・。
だが見ているこちらは全然面白くない。
観客そっちのけではしゃぐ人たち・・。
クレオ(井上薫)とエディー(南保大樹)は小さなビール工場を経営している。
ジョニー(沢田冬樹)は銀行に勤めていて、3年ごと位に希望して、あちこちの支店に異動してきた。
クレオはジョニーに会いに行き、ビール工場への融資を増やしてほしいと頼んだ。
クレオはその時のことを思い出し、息子フリッツがそれを見ていたかも知れないと言う。
ジョニーの妻エルゼ(山崎美貴)は生まれつき心臓が弱く、心臓に負担にならないような楽なパートの仕事をしている。
夫が転勤ばかりするので、その都度一緒に引っ越しし、その地でさまざまな職についてきた。
ジョニーは彼女と結婚する時、彼女を守ると決心し、ずっと彼女の体調を気にかけてきたと言うが。
クレオたちの家に彼らの息子フリッツの写真が貼ってあるのに自分の娘ニーナの写真がないことに気づいたエルゼが、どうして?と問う。
エディーたちは答えをためらう。
ニーナはフリッツの家に来ると、半分裸のような格好で家の中を駆け回っていたという。
クレオは一度だけ、ニーナに「もう帰ってちょうだい。しばらくフリッツを一人にしておいてほしい」と言ったことがある。
エルゼは「私たちはフリッツが大好きだった」と言う。
フリッツが家に来ると、ニーナの部屋で二人で音楽を聴き、笑い合い、それから静かになった。
そういうことが繰り返された。
その間、両親は二人の静かな時間を尊重して邪魔しないようにしていた。
エディーは20歳の頃、16歳の少女への暴行容疑をかけられたが、本人曰く、冤罪だった。
その後アイルランドに1年間行き、ビールの製造法などを見た。その後、クレオに出会った。
クレオが語る。
子供たちは居間のガラスのテーブルを壊した。
破片が散らばり、その下に90ユーロ置いてあった。
50€札が1枚、20€札が1枚、そして10€札が2枚。
手紙もあった。
「テーブルを壊してごめんなさい。このお金で新しいテーブルを買ってください。私たちは出かけます。ここは美しくない。ニーナとフリッツ」
二人は湖にボートを漕ぎ出し、手首を革の紐でゆるく結び、睡眠薬を飲み、ボートの底に小さな穴を開けた。
少しずつ水が入り、いっぱいになる頃には二人は眠りこけていた・・・。
エディーは物に執着しない。息子の死後そうなったのか、以前からそうなのかは不明。
とにかく何でも欲しい人にあげてしまう。家具も服も。
だから家の中はがらんどう。
工場の経営はすべて妻任せ。
クレオは家を出てリヒャルトという男と暮らそうかと思った時期があった、と爆弾発言。
その時、彼女はリヒャルトの子を身ごもっていた。
もし本当に家を出て彼と暮らしていたら、そしてその家にフリッツの部屋もあって、フリッツの弟か妹が生まれていたら・・
そうしたらこんなことにはならなかったかも・・
彼女は一人、妄想し続ける。
・・・だけど私はそうはしなかった。
そうする勇気がなかったの。
お腹の子は始末した。そして私は今もここにいる。
エディーはクレオに近づいて平手打ちする。
エルゼは突如、小さなピンか何かで手首を切る。
血が流れて真っ白な床にポタポタ落ちる。
夫があわてて傷口に口を当てて血を止めようとすると、夫の口の回りも血だらけになる。
上空に吊ってあった白いボートが下に降りている。
エルゼはボートの上に倒れ、動かなくなる・・・幕!?
作者は「タトゥー」を書いた人だった。パンフレットを見てそれを知った時、しまった、と思ったがもう遅い。
「タトゥー」は2009年5月に初台で見たことがある。
作者はドイツ国内で多くの賞を受賞しているようだが、最近評者は賞というものをあまり信用しなくなった。
ピューリツァー賞とかも、時々納得がいかないことがあるし、ついでに言うと、賞ではないが世界遺産というのも場所によっては実に怪しい。
プログラムには文化庁長官の「最後まで楽しんで御覧いただき」という言葉が載っているが、こんな芝居、どこをどう楽しめと言うのか?
人間の中の闇、人間の持つ非合理性を表現したいのだろうか。
でもそんなことは、特に芝居にしてくれなくても、ある程度生きていれば誰だってぶつかることではないだろうか。
ネガティブ・ケイパビリティということが最近注目されているように、私たちは答えの出ない状況の只中で、それでもそれに耐えて生きて行かねばならない。
それが言いたいのか?ならば、特に言わなくてけっこうです。
芝居を見る楽しみというのは、笑ったり泣いたり胸に迫ってくるものにジーンとしたり、何かそれまで気づかなかったことに気づかされたり、
新しいこと、面白いことを発見したり、そういう日常生活では味わえない経験をすることだ。
たとえそういう経験ができなくても、たいていの場合、最低限、始めはわからなかったことが少しずつ霧が晴れるように見えてくる、という喜びが
味わえるはずだが、この作品の場合、それもない。
むしろどんどん霧が深くなってゆく(笑)。
そもそもこの(不条理な)世の中に生きていくというだけでも大変なのに、なんでまた劇場に行ってまで
わけのわからない思いをしなければならないのか。
「タトゥー」と違っておぞましくはなかったのが救いと言えば救いか。
うんと好意的に見れば、これは詩なのかも知れない。
ドイツ語で演じられるのを聞けば、美しいのかも知れない。
何しろセリフに繰り返しが多い(だから退屈でもある)。
全体で1時間35分という短さだが、繰り返しを除けば1時間で終わったかも。
始めは作者の才能のなさを感じたが、詩だと思えばわかる気もする。
「太郎を眠らせ太郎の家に雪降り積む・・・」とか、草野心平の蛙の詩とか、詩には繰り返しを味わう作品もある。
2009年の「タトゥー」について書いた評者自身のブログを読み返してみたら、すでに「独特の詩的センスと劇的言語が特徴らしいので、
翻訳では面白さがよく伝わらないのかも知れない」と書いていた。
思い切って言うと、ドイツ人には演劇は向いてないのではなかろうか。
ドイツは詩と音楽の国。
かの地に演劇の伝統はなかった。
そう思えばこの戯曲も、セリフを語る時、繰り返し、韻律を味わうように語られていた。
チラシにも「四重奏」とあるように、これはカルテット、つまり音楽のつもりで書かれたのだろう。
だが芝居というのは、言葉だけではない。
ストーリーだって重要なんです。
でないと観客は置いてきぼりにされてしまいます。
4年ぶりに再会した2組の夫婦。
自ら死を選んだ子供たちが残した言葉は
永遠に解き明かされることのない問いとして
4人の前に投げ出されている。
堂々巡りする「なぜ」。
もう決して解り得ないものを
それでも解ろうとする極限状態の中で
繰り返される後悔と疑惑、
欺瞞、自責他責の言葉。
やがてその言葉の群れは四重奏となり
湖に広がっていく(チラシより)。
ネタバレあります。
舞台中央の天井から真っ白い布製の小舟が吊ってある。
ニーナとフリッツが心中した日から4年後、彼らの両親が再会する。
4人は初めて出会った日のことを懐かしく思い出し、なぜか急に、その日の行動を再現し始める。
夕方、すぐ近くの湖に行って、ボートに乗り、子供のようにはしゃいで水に落ち・・。
だが見ているこちらは全然面白くない。
観客そっちのけではしゃぐ人たち・・。
クレオ(井上薫)とエディー(南保大樹)は小さなビール工場を経営している。
ジョニー(沢田冬樹)は銀行に勤めていて、3年ごと位に希望して、あちこちの支店に異動してきた。
クレオはジョニーに会いに行き、ビール工場への融資を増やしてほしいと頼んだ。
クレオはその時のことを思い出し、息子フリッツがそれを見ていたかも知れないと言う。
ジョニーの妻エルゼ(山崎美貴)は生まれつき心臓が弱く、心臓に負担にならないような楽なパートの仕事をしている。
夫が転勤ばかりするので、その都度一緒に引っ越しし、その地でさまざまな職についてきた。
ジョニーは彼女と結婚する時、彼女を守ると決心し、ずっと彼女の体調を気にかけてきたと言うが。
クレオたちの家に彼らの息子フリッツの写真が貼ってあるのに自分の娘ニーナの写真がないことに気づいたエルゼが、どうして?と問う。
エディーたちは答えをためらう。
ニーナはフリッツの家に来ると、半分裸のような格好で家の中を駆け回っていたという。
クレオは一度だけ、ニーナに「もう帰ってちょうだい。しばらくフリッツを一人にしておいてほしい」と言ったことがある。
エルゼは「私たちはフリッツが大好きだった」と言う。
フリッツが家に来ると、ニーナの部屋で二人で音楽を聴き、笑い合い、それから静かになった。
そういうことが繰り返された。
その間、両親は二人の静かな時間を尊重して邪魔しないようにしていた。
エディーは20歳の頃、16歳の少女への暴行容疑をかけられたが、本人曰く、冤罪だった。
その後アイルランドに1年間行き、ビールの製造法などを見た。その後、クレオに出会った。
クレオが語る。
子供たちは居間のガラスのテーブルを壊した。
破片が散らばり、その下に90ユーロ置いてあった。
50€札が1枚、20€札が1枚、そして10€札が2枚。
手紙もあった。
「テーブルを壊してごめんなさい。このお金で新しいテーブルを買ってください。私たちは出かけます。ここは美しくない。ニーナとフリッツ」
二人は湖にボートを漕ぎ出し、手首を革の紐でゆるく結び、睡眠薬を飲み、ボートの底に小さな穴を開けた。
少しずつ水が入り、いっぱいになる頃には二人は眠りこけていた・・・。
エディーは物に執着しない。息子の死後そうなったのか、以前からそうなのかは不明。
とにかく何でも欲しい人にあげてしまう。家具も服も。
だから家の中はがらんどう。
工場の経営はすべて妻任せ。
クレオは家を出てリヒャルトという男と暮らそうかと思った時期があった、と爆弾発言。
その時、彼女はリヒャルトの子を身ごもっていた。
もし本当に家を出て彼と暮らしていたら、そしてその家にフリッツの部屋もあって、フリッツの弟か妹が生まれていたら・・
そうしたらこんなことにはならなかったかも・・
彼女は一人、妄想し続ける。
・・・だけど私はそうはしなかった。
そうする勇気がなかったの。
お腹の子は始末した。そして私は今もここにいる。
エディーはクレオに近づいて平手打ちする。
エルゼは突如、小さなピンか何かで手首を切る。
血が流れて真っ白な床にポタポタ落ちる。
夫があわてて傷口に口を当てて血を止めようとすると、夫の口の回りも血だらけになる。
上空に吊ってあった白いボートが下に降りている。
エルゼはボートの上に倒れ、動かなくなる・・・幕!?
作者は「タトゥー」を書いた人だった。パンフレットを見てそれを知った時、しまった、と思ったがもう遅い。
「タトゥー」は2009年5月に初台で見たことがある。
作者はドイツ国内で多くの賞を受賞しているようだが、最近評者は賞というものをあまり信用しなくなった。
ピューリツァー賞とかも、時々納得がいかないことがあるし、ついでに言うと、賞ではないが世界遺産というのも場所によっては実に怪しい。
プログラムには文化庁長官の「最後まで楽しんで御覧いただき」という言葉が載っているが、こんな芝居、どこをどう楽しめと言うのか?
人間の中の闇、人間の持つ非合理性を表現したいのだろうか。
でもそんなことは、特に芝居にしてくれなくても、ある程度生きていれば誰だってぶつかることではないだろうか。
ネガティブ・ケイパビリティということが最近注目されているように、私たちは答えの出ない状況の只中で、それでもそれに耐えて生きて行かねばならない。
それが言いたいのか?ならば、特に言わなくてけっこうです。
芝居を見る楽しみというのは、笑ったり泣いたり胸に迫ってくるものにジーンとしたり、何かそれまで気づかなかったことに気づかされたり、
新しいこと、面白いことを発見したり、そういう日常生活では味わえない経験をすることだ。
たとえそういう経験ができなくても、たいていの場合、最低限、始めはわからなかったことが少しずつ霧が晴れるように見えてくる、という喜びが
味わえるはずだが、この作品の場合、それもない。
むしろどんどん霧が深くなってゆく(笑)。
そもそもこの(不条理な)世の中に生きていくというだけでも大変なのに、なんでまた劇場に行ってまで
わけのわからない思いをしなければならないのか。
「タトゥー」と違っておぞましくはなかったのが救いと言えば救いか。
うんと好意的に見れば、これは詩なのかも知れない。
ドイツ語で演じられるのを聞けば、美しいのかも知れない。
何しろセリフに繰り返しが多い(だから退屈でもある)。
全体で1時間35分という短さだが、繰り返しを除けば1時間で終わったかも。
始めは作者の才能のなさを感じたが、詩だと思えばわかる気もする。
「太郎を眠らせ太郎の家に雪降り積む・・・」とか、草野心平の蛙の詩とか、詩には繰り返しを味わう作品もある。
2009年の「タトゥー」について書いた評者自身のブログを読み返してみたら、すでに「独特の詩的センスと劇的言語が特徴らしいので、
翻訳では面白さがよく伝わらないのかも知れない」と書いていた。
思い切って言うと、ドイツ人には演劇は向いてないのではなかろうか。
ドイツは詩と音楽の国。
かの地に演劇の伝統はなかった。
そう思えばこの戯曲も、セリフを語る時、繰り返し、韻律を味わうように語られていた。
チラシにも「四重奏」とあるように、これはカルテット、つまり音楽のつもりで書かれたのだろう。
だが芝居というのは、言葉だけではない。
ストーリーだって重要なんです。
でないと観客は置いてきぼりにされてしまいます。