まえに、「ずっと真夜中でいいのに」の「正しくなれない」 の意味が「約束のネバーランド」を見に行って分かった!っていう話は書いたけど、そこで「詳しくは別エントリで書く」と書きながら書いていなかったので、その宿題を今日はやりたいと思います。
「正しくなれない」は映画「約束のネバーランド」の主題歌として書かれたので一致していて当たり前なんだけど、逆に「約束のネバーランド」を見ないとわからない部分が多々あること、
それと「正しくなれない」の解釈は
にあるけど、「約束のネバーランド」のネタバレを避けるためか、具体的な対応を書いていないので、いまいちわかりにくい点、
それともう一点書きたいこと(後で書く)があるので、今回あえて、映画「約束のネバーランド」の立場から見た「正しくなれない」について書いてみたいと思います。
(以下斜体は、「ずっと真夜中でいいのに」の「正しくなれない」からの歌詞抜粋引用です。歌詞全体は以下を参照)
ーーーー 以下「約束のネバーランド」のネタバレですーーーー
■歌の前に、前提知識「約束のネバーランド」
舞台は「孤児院」のように見えて、実は鬼に食べられる人間を飼育している「人間飼育所」。鬼は脳を食べたいので、孤児院で頭が悪い順に「里親に出される」(と言うけど実は、鬼の食用に出荷される)。ただし、最高の頭脳を持った子でも、16歳になると、出荷させられる。
つまり、この子たちは鬼に食われるために飼育されているんだけど、最高の環境で飼育するため、子供にストレスを与えないように何不住なく暮らしている。
この孤児院の母親(=ママ=人間飼育所の監視官)であるイザベラ(映画では北川景子さんが演じている)は、「自分の人生を受け入れなさい、外にあなたの生きる手段はありません。なにに抗っているの?」と、鬼に食われて死ぬことが運命であり、幸せであり、生きる道と説く(=これが、この世界での「正しいこと」になる)
これに対し、この孤児院(人間飼育所)で育った主人公エマ(映画では浜辺美波さんが演じている)は、ここから脱走して自分たちで生きようとするという脱走物語。
■正しくなれない~僕らは何一つも奪われてないから
そりゃ、エマさんから見たら、「正しくなれない」ですよね、鬼に食われて死になさいなんて。っていうことで、片っ端から脱走を考え続け、確かめるんだけど、ここでわからない言葉はたぶん2つ。
1.「霧が毒を見た」
ずとまよの曲はほかの曲もそうだけど、同じメロディのところは、同じ事象を言い換えていることが多い。その視点でみると、最後のほう
君が僕を見た
とある。エマは女性だけど「僕」、君は「イザベラ」(=ママ、母親)ってみると、イザベラがエマを見る目線というのは、母親の愛情深い目線に見えて、実はそうではなく、そこには、毒(いつかは出荷するために殺す)を含んでいるわけで、それが霧のようにもわーんと、たたずんでいる・・という感じでしょうか。
2.「何一つも奪われてない」
たぶん、この先で解釈したほうがわかりやすいと思うので、ここはいったん置いておく。
■僕ら育っていくみたい~喜びあった日々を忘れはしないけど
映画のはじめのほう、孤児院での生活。エマをはじめ孤児院の子供は「イザベラ」のママに愛されて、何不自由なく育っていく。子供はママの愛情を感じ、ママは子供に愛情を注ぐという両想いなんだけど、ママは子供に対して、本当に愛情をかけているわけではないし(たんに飼育している)、エマはあとで、飼育されていることに気付き・・そう思うと両想いではなく、エマもママも嘘つきということになる。
枯れ果てるまで泣き笑いして、今日という日を受け入れていく毎日。喜び合った毎日。この毎日を忘れたわけではないけど・・・
ここで難しい単語はたぶん1つ
・澄んだ朝色
飼育されていることに気付く前までは、毒を含んでいることを知らないので、愛情をかけられている「澄んだ」状態。なぜ「朝」かについては後で説明する(夕焼け風鏡のところ)。
■知らないほうが幸せだって知れば知りえるほど
ここの仕組み(孤児院のように見えて、実は子供は殺されて、鬼に食べられるために出荷される)ということを知らないほうが幸せだって…
(映画だと、初めのほうの「門」のところに行くところが、ここに該当する)
(繰り返し部分は省略)
■今、心を閉ざさぬように~無駄になんかさせないよ
もう、
もう、
心を閉ざさぬように腰眈々と訓練をつづけよ
なんて、映画そのもので、説明の必要ないですね。映画の中でも訓練って言ってるし。エマが足を怪我して、エマ自体はなにもしていない(=心を閉ざしている)ように見えて、実は小さな子供たちが脱走のために訓練を続けているところを指している。まず、間違いなく…
そのあと、「君の肉体、本心すべて、無駄になんかさせないよ」はみんなを逃がすために情報を提供して自分は出荷されていったノーマンのことと解釈すれば、すぐに理解できる。
・・・が、ちょっとまて、さっき、「君」って、イザベラのことじゃなかったっけ?という勘の鋭い人は、ちょっとあと(「一点書きたいこと」)で説明するので、待ってくれ。
残った一言「枯れ木に笑顔だけ」は、死んだ状態を指しているんだろうな…
■ねえ、知り得るほうが幸せだって、辿り着いてもいい
同じリズムの個所に「知らないほうが幸せだって知れば知りえるほど」ってあった。これはこの孤児院の仕組みを知らないほうが・・・という意味だったが、この孤児院の秘密をさらに知っていくと「ここから抜け出せるかも!」という結論に至る(至ったからエマは脱走した)。
「辿り着いてもいい」っていう言葉、だれに向かって言っているのかわからない。ここで、この言葉を、この映画を見ている人に言っているのなら「はい、辿り着いてください。そうしないとこの映画、先に進みませんから!」となるけど、もう一つの解釈「君」(=イザベラ)っていうのも、文法上では成り立ちそうだ・・そうすると、どうなるのかは、「一点書きたいこと」のところで書く
■君だけが見る夕焼け風鏡~導かれ
多分、映画を見ていない人には全く何言っているかわからないけど、映画を見ている人にはめちゃくちゃ良くわかるという箇所。
1.「君だけが見る夕焼け風鏡」とは
まず、「夕焼け」ときたら、「風鏡」ではなく、「水鏡」だ。普通。
で、「夕焼け水鏡」ができそうな箇所は、映画で1か所しか出てこない。最後脱走するときのところ(=エマとイザベラが対峙する、ハンガーを使って渡るところ)。ここは孤児院と外の世界を分けるところだけど、ノーマンが言ったように、ここ以外は、高い塀になっている・・・ということは、この塀とそこを流れる川でできる水鏡というのは見えなくて、風が吹き抜ける風鏡になっている。
次、なぜ「夕焼け」だけど、これは「澄んだ朝色」と対比するとわかる。
「澄んだ朝色」がさしているのはイザベラが子供たちを愛情あふれて育てている「孤児院」の状態。ということはこの反対の「夜」=「闇」は、鬼に子供を出荷する「人間飼育所」の状態。
イザベラは、子供の時にこの孤児院にいて(朝)、そして、この「夕焼け水鏡」のところまできて、結局脱走せず、観念して子供たちのママになるという人間飼育員の職員としての「闇」(=夜)の世界に入っていった。イザベラにとってこの場所は、孤児院の「朝」と人間飼育所の「夜」を分岐する点、つまり夕焼けの時間となる。なので、ここが「夕焼け風鏡」
残り、「君だけが見る」だけど、君をノーマンと解釈すれば、「君だけが見る」というのは、映画を見ればわかる。この場所はノーマンしか行っていない(なので、エマとレイのために地図を書いてあげた)。
「君」をイザベラと解釈すれば、イザベラはここに行ったことは、映画で言っている。エマと対峙した時点では、ノーマンは出荷されているので、生き残っている人の中で水鏡を見ているのはイザベラだけ。だからこう考えても矛盾しない。どちらの解釈もできる。
2.「僕でもいつか解る日まで、考え続けたい」
エマがこの場所を見つける日まで脱走を考えたいでも意味通じるけど、ACAねさんお得意の一字変える(例:「勘が冴えて悔しいわ」の「一人を竹刀で」)方法で考えると、ここは
僕でもいつか「わたる」(渡る)その日まで
なのかもしれない。つまり夕暮れ水鏡のところを渡って脱走するその日までの意味かもしれない
3.「偽りで出会えた撓る枝分かれよ」
これは、映画で見た通り。エマがハンガーで対岸に渡るとき、ロープが撓って枝分かれしている。
・・・っていう視覚的な解釈もあるけど、偽りで出会えたイザベラとエマが、エマは脱走して外の社会へ、イザベラは結局ママとなりこの孤児院(=人間飼育所)へと、進むべき道を枝分かれしているという概念的なことを指しているのかもしれない。
4.導かれ
誰が、だれを導いた?
「誰を」は「エマたちを」でいいと思う。問題はだれが?
「ノーマンが」とすると、映画を見た通り。手紙で導いている
「ふくろう(=支援者)が」という解釈もできる。これは映画のラストシーンそのまんま。
でも、今までの流れだと「君」はイザベラ。そうすると
「イザベラがエマを脱走するように導いた」という話になる。この解釈が成り立つかどうかは、もうちょっと後で触れる。
■大したもんじゃない~砂の罠
ごめんなさい!映画の該当箇所が見つからない。見落としたかなあ?
見落としたとしたら、砂の罠は、エマが怪我したところかなあ?
それとも原作にはあるところなのかなあ?
ちなみに、ずとまよの曲は、ほかの曲と世界観が混じることがある。そこで、これは「暗く黒く」の「さんかく窓の外側は闇」の世界観が混じっているとすると、「視野は脳裏を寛大にしていく」は、そのまんまなんだけど・・・
・・・ あとは繰り返しなので、一通り説明したかな ・・・
■一点書きたいこと:「君」を「イザベラ」と解釈すると、この映画のすべてが変わる。それを見越してACAねさんは作詞した?
「君」を「ノーマン」と解釈すると「君が僕を見た」の意味が通じない。
ここで、唯一通じるのは「君」=イザベラ、「僕」=エマの時だと思う。
ただ、こうすると、「導かれ」のところは、「イザベラ」が「エマ」を導いたということになってしまう。そういう風には映画を表面的にみると見えないのだが(イザベラはエマの脱出を阻止しようとしている)、「イザベラ」は「エマ」を”無意識的に”脱出へと導いたと考えると、この曲はすべて成立する。と同時に、この映画の意味合いが違ってくる(脱出物語から親離れの物語へ)。
ここで意味が変わるところについてみていく。まず「君の肉体本心すべて 無駄になんかさせないよ」ここで「君」はノーマンのことを言っていると考えると映画のその通りなんだけど、イザベラと考えると(イザベラも「映画上ででは」最後に死んでいるので、矛盾しない)本心というのは、自分の生んだ子であるレイを生かしたいということになる。そしてそれをエマに託し、エマは「無駄になんかさせないよ」と言っていることになる。
そして、そう考えると、映画オリジナルのエマとイザベラの対峙シーン(最後のほうのクライマックス。このシーンがオリジナルだということは、パンフレットの浜辺美波さんインタビューのある3段目にあるように)は、親にとって、自分がひいた最高の道(=鬼に食われて死ぬこと)を子供が進むのが幸せと確信するイザベラと、そうでなくたとえ困難があってもここから出ていく自由を求める子でエマの、親子の価値観の違いということになる。映画は「撓る枝分かれ」で視覚的に子供の生き方を認めよ、それが親の務めであり、そこまでが責任と説いている。
鬼に食われるために子供を育て、それが幸せと考える親なんていないだろうと思うかもしれないけれど、それは、今、説明が端折りすぎているからで、鬼とは大企業の経営者のことで、大企業に入っても結局子供は過労死で殺されてしまうだけなのに、その大企業に入ることこそ、素晴らしい人生であると進める多くの世間の親とイザベラは何ら違わないということに、この映画をみると気づくようにできている。なので、「すっとんきょう」な架空の話をしているのではなく、親が「一流企業に行きなさいそれが幸せなの」というのに対して、子供が「過労死で死んでいくのが幸せだとは思えない。もっと自分の生き方を探してみたい。生きる道がないなら作ればいい」と言い張るという、現実にありえる話なのだ。
それをイザベラははじめ反対しているが、自分も脱走しようとしてここに来た過去を思い出し、エマに自分の子(レイ)の将来を託し、自分は子供を立派に育てた(エマに託したので)ということで、責任が終わり、安らかに死を受け入れるというドラマになっている。まさに、親離れ子離れの人間ドラマなのだ。
たぶん、こういう人間ドラマに映画のほうはしたくて(さすがに脱走サスペンスだと若い人にはさておき、お金を払う親の世代には受けないだろう。そこで人間味を加えたんだろうなあ)、それをACAねさんは見抜いて歌詞をワーディングしたのであろう。
ACAねさん、天才すぎます。
主題歌聞いて、勘が冴えてここまで気づいてしまった人は、
すごさに悔しすぎてしまいます。
ということで、解いていない問題を答えておくと、
1.「何一つも奪われてない」とは?
エマは脱走するまで、殺されていない。そういう意味では命はもとより何一つイザベラから奪われていない。イザベラはエマを邪魔だと思えばクローネ(渡辺直美さんが演じている)のように消し去ることは簡単にできたのに…それをしなかったのは、エマに自分(=イザベラ)を見ているからなんだろう。
2.MVとの関係
MVでは2回脱走しようとしている。1回目は途中で椅子に戻ってきて、そのあとお手紙をもらうが、これはノーマンのときのことを指しているんだろう。多分。子供が花に変わるが、これはまさに殺されて花がさされることを示しているのであろう。2回目の脱走で下に落ちたときに助けてもらっている。これはイザベラとエマが対峙したとき、エバがハンガーで脱出しようとしたときに。イザベラはロープを切ろうと思えば切れたのに切らなかったところを示しているのであろう(=結果的にMVのように脱走を「助けて」いる)。
おまけ:「暗く黒く」のMVとのシンクロ
ただ、「正しくなれない」のMVと映画はあまりシンクロしていない。むしろ、なぜかわかんないけど、「暗く黒く」のMVと一致する。
「暗く黒く」の主人公ニラメイドのコスチュームは、まさにイザベラの服と一致しているし、ニラメイドがナナシ(エマに対応)を連れて行った遊園地は「夕焼け風鏡」のところと一致。ニラメイドが白いロケットにあたって死んでしまうことも、イザベラが白い花で最後殺されるのと一致するし、その結果ナナシは一人で生きていかねばならず、MVの世界で、ナナシが最後に見た光は映画の最後の場面(朝日)に一致する・・・ってことで、シンクロ率が半端ないんだけど、これわざと狙った?それとも偶然?