6月19日に秋葉原親鸞講座に行ってきた、
その中で印象に残ったのは、質問コーナーでの回答の
大学は「自分が幸せになるため」に行くのではない
なんだけど、講師の説明に自分がついていけてないので、
自分が理解した範囲で、自分の言葉を足して書くとこんなかんじ
・大学がもし、「自分が幸せになるため」に行くのだとしたら、
大学落ちたら幸せになれないということになるが、
自分はそう思うかもしれないが、客観的に考えて、そうは思えない
(もしそうなら大学落ちて不幸せな人が街にあふれかえるはず
・・・滑り止めに受かった人も、本命は落ちたので不幸?だとすると)
・そうではなく、そのそも、大学も自分も「法」(法律だけでなく、
世の中が成立すべき規則みたいな)にのっとって動いている。
だから、大学を落ちたのも、その「法」にのっとっている。
大学は「法」にのっとっているのだから、あなたが大学にいくのも
「法」のためでないと、これはうまくいかない
(この例は自分の解釈だけど、例えば医学部は医者を養成することが
「法」である。そこに、医者になるとお金持ちになれるからと、自分の
幸せのために医学部受けても・・・そりゃ、落ちて当然だわなあ・・・)
・つまり、大学に行くのは「自分の(幸せの)ため」ではなく、
「法(の成就)のため」。受験には様々な人の因縁がうごめいている。
(例の続きでいうと、医学部を受験する人はいっぱいいて、それぞれの
人に因縁がある。受験生が受験した大学と縁があれば受かるし、縁が
ないと落ちる。そしてその縁は、大学が目的を成就するのに向いている
縁となっている(=法)はずであり、大学を落ちた人は縁がなかった
(=向いていなかった)ということ)
・だから大学に落ちたのは自分を不幸にするためでは当然ない!
大学に落ちたのは、今のままでは、そこに縁はない。
その道は現状、間違っているということ。
だから、大学に落ちたら不幸を嘆くのではなく、そこで立ち止まって
考えなくてはならない。
自分に縁がないのは、行く道が間違っているのではないか?
(その大学ではないのではないか、学部が違うのでは?
そもそも大学に行くのが違う?
考え方が間違ってるから勉強も間違ってくる)
今の生活では、縁がないのではないか・・・などなど
(勉強しないといけないとか)
・・・ってなことを言ってたように受け止めたんだけど、
間違って理解してるかも。だとしたら、ごめんなさい。
ただ、話のテーマは「浄土」の話で、
その前に「親鸞会」と「浄土真宗」の違いの話をしたあと、
「浄土は3種類ある」と「岩波仏教事典」を書いている人は考えているというお話(3種類というのは、人によって違うかもしれないが、浄土がさしているものはみんな同じということで「ない」ことは確か)。
特に講師が「時間軸」といっている、浄土は来世にしかないのか、今浄土があるのかの考え方に大きな違いがある。
↓がどんだけ理解しているかわかんないけど、メモ
質問の前、浄土の結論なんだけど、
浄土の新しい定義が必要というのは、以下の動画を見てもらうと判ると思う
↓浄土真宗の言う「浄土」
(現世でも)念仏で満たされた世界が浄土
これ、死んだら浄土があるという定義とは、合わなすぎません?
再定義が必要・・・ですよね・・・
p.s はじめの「教学館の佼成会の見学」について
浄土真宗は、他の宗派も尊重するらしい
(仏教すべてがそうでななく、自説が正しいとして、他宗派を論破し
他教団を攻撃する行為も多々見られるが、浄土真宗はそんなことはしない)
なので、
浄土真宗の若手が集う教学館では、他宗派・宗教に触れることにより真宗とは何かを考える活動をしているらしい。そのはなしのこと。
今回は佼成会の人と話し合うことで、佼成会のよさを発見し、
その視座から真宗を考えるということ。
↓の動画によると、こういう考え方は珍しいらしい
この考えは逆の発想もまたしかりで、蓮如上人、親鸞聖人の
お言葉も絶対視しない。諸行無常、世の中変わってるんだから、
言ってる内容も時代に即して変わって、また当然。
その点でそのあとの話、
親鸞会の浄土真宗本願寺派批判(お西)の話に続いていく
蓮如上人がこう言ったから、お西がどうのこうのっていってもねえ・・
お東的に見ると、そういう権威主義的批判精神が、真宗に合ってない。
お西はお西の考え、お東はお東の考えがあっていい。
けど、批判するのは、親鸞聖人の精神に合ってない。
そう考えないと歎異抄の二章の意味が通じない。