ウィリアムのいたずらの、まちあるき、たべあるき

ウィリアムのいたずらが、街歩き、食べ物、音楽等の個人的見解を主に書くブログです(たま~にコンピューター関係も)

最近、年末詣が流行り始めて来たの?

2024-12-31 13:39:49 | 仏教・神道・その他宗教
上の動画では、初もうでより、年末詣のほうがいいって
言ってるけど、

実際、昨日、蛇窪神社にいったら、結構人がいた
(今日は人がいるのは当たり前。満月X大晦日X己巳の日(つちのとみのひ)
なので、だから昨日行ったら、昨日もいっぱい人いた)

今日、さっき天沼八幡行ったら、普段よりもちょっと多い人がいた。

みんな、年末詣、知ってる?行った??

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浄土宗と浄土真宗の違い

2024-12-21 09:13:56 | 仏教・神道・その他宗教
12月19日に、池袋親鸞講座に行ってきたんだけど(藤原先生)、
そこで学んだ1番のこと

浄土宗と浄土真宗の違い
浄土宗は
「南無阿弥陀仏と念仏を称えると極楽浄土に行ける」
と考える。そうすると
「では何回念仏を称えればいいの?」
となり、その念仏の唱え方(回数)などで、細かな派に分かれてしまう。

浄土真宗は、
「南無阿弥陀仏と念仏を称えさせられる。そこまでになると極楽浄土に行ける」
念仏を称えさせる人はだれ→阿弥陀様
阿弥陀仏による本願に感謝し、南無阿弥陀仏と感謝の念をもって念仏を称えるよういなると、それは極楽浄土に行ける境地である
と考える。それは「おなら」を今回何回しよう、とか、臭いのをしてやろうとか、意図してできないように、念仏も何回しようとか、心を込めてしようとか意図してするものではない(意図してするものなら自力になってしまう)。
そのため、「念仏はおならと同じ」という先生もいる。

以下、その講義メモ


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御朱印展行ってきた!入場制限してて、大人気!

2024-12-17 07:02:23 | 仏教・神道・その他宗教
12月15日(日)は、御朱印展見てきました!
場所は、銀座アポロ昭和館。
日比谷線東銀座駅を降りて、3番窓口でると、
てな感じになっているけど、これは無視して地上に上がる
歌舞伎座
をぐるっと回ると、会場なんだけど・・・

並んでる(@_@)
30分待ちとか出てたけど、そんなには待たなかった。
中に入り、頭をぶつけそうな階段を下って地下一階にいくと・・・

・・・すごい人だかりです!御朱印って、こんなに人気あるんだ!
東京の神社225社ということで、有名どころの日枝神社、神田明神
東京大神宮はもちろん、このブログで取り上げた蛇窪神社、田無神社、
それからこの御朱印展を紹介してくれた慶子さんが所属する天沼八幡
もありました。
 気象神社は雪だるまが御朱印に書いてありました。

 ほか、ユニークな御朱印もあったのだが、撮影禁止だったんで
紹介できない・・・

 東京の神社ということで、小笠原神社のような離島の神社も!

 で、御朱印帳を売ってたけど、売り切れになっていた。
 というか、現金販売は「なし」ということだったので、
 現金しか持ち合わせのない自分は、どうせ買えなかったのですが。。。

とにかく、「御朱印人気はすごい!」ということを感じられる展示会でした。


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銀座で御朱印展をやるそうだ・・・12月13~16日

2024-12-02 07:03:11 | 仏教・神道・その他宗教
昨日、天沼八幡神社の月例祭に行ったら、
禰宜の慶子さんが最後に話していたんだけど、
銀座で御朱印展が12月13~16日にあるとのこと
場所は、銀座の歌舞伎座の近くのギャラリーらしい
慶子さん情報でした・・・

・・って、このブログを読んでいる人のほとんどは
慶子さんを知らないと思うけど(^^;)

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愛子さまはいつ、伊勢神宮の祭主になるんだろう…?

2024-11-26 07:08:33 | 仏教・神道・その他宗教
伊勢神宮の祭主って、天皇の娘がやるんじゃなかったっけ?

昭和天皇の娘の池田厚子さまが、前の伊勢神宮祭主
上皇陛下の娘の黒田清子さまが、今の伊勢神宮祭主だから
今上天皇の娘の敬宮愛子さまが。次の伊勢神宮祭主のはず!

いやだから、ティアラとか、黒田清子さまのものを
受け継いでると思っているんだけど・・・ちがうのかな?

まだ黒田清子さまなんですね!伊勢神宮祭主!↓

ロングバージョン。外宮から
祭主黒田清子様がご奉仕 - 伊勢神宮(外宮) 新嘗祭 奉幣 (令和6年11月23日) Japanese Emperor's Sister at Ise Shrine (Outer Shrine)

内宮

祭主黒田清子様がご奉仕 - 伊勢神宮(内宮) 新嘗祭 大御饌 (令和6年11月23日) Emperor's Sister at Niiname-sai, Ise Shrine, Japan

いや、この姿の愛子さまを早く見てみたいものです。
似合いますよね!きっと

黒田清子さまがやっているように、伊勢神宮祭主は
結婚しても天皇の娘ならなれるので、確定だと思っているんだけど…



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大学は「自分が幸せになるため」に行くのではない

2024-06-22 08:42:04 | 仏教・神道・その他宗教
6月19日に秋葉原親鸞講座に行ってきた、
その中で印象に残ったのは、質問コーナーでの回答の

  大学は「自分が幸せになるため」に行くのではない

なんだけど、講師の説明に自分がついていけてないので、
自分が理解した範囲で、自分の言葉を足して書くとこんなかんじ

・大学がもし、「自分が幸せになるため」に行くのだとしたら、
 大学落ちたら幸せになれないということになるが、
 自分はそう思うかもしれないが、客観的に考えて、そうは思えない
 (もしそうなら大学落ちて不幸せな人が街にあふれかえるはず
 ・・・滑り止めに受かった人も、本命は落ちたので不幸?だとすると)

・そうではなく、そのそも、大学も自分も「法」(法律だけでなく、
 世の中が成立すべき規則みたいな)にのっとって動いている。
 だから、大学を落ちたのも、その「法」にのっとっている。
 大学は「法」にのっとっているのだから、あなたが大学にいくのも
 「法」のためでないと、これはうまくいかない
 (この例は自分の解釈だけど、例えば医学部は医者を養成することが
 「法」である。そこに、医者になるとお金持ちになれるからと、自分の
 幸せのために医学部受けても・・・そりゃ、落ちて当然だわなあ・・・)

・つまり、大学に行くのは「自分の(幸せの)ため」ではなく、
 「法(の成就)のため」。受験には様々な人の因縁がうごめいている。
 (例の続きでいうと、医学部を受験する人はいっぱいいて、それぞれの
 人に因縁がある。受験生が受験した大学と縁があれば受かるし、縁が
 ないと落ちる。そしてその縁は、大学が目的を成就するのに向いている
 縁となっている(=法)はずであり、大学を落ちた人は縁がなかった
 (=向いていなかった)ということ)

・だから大学に落ちたのは自分を不幸にするためでは当然ない!
 大学に落ちたのは、今のままでは、そこに縁はない。
 その道は現状、間違っているということ。

 だから、大学に落ちたら不幸を嘆くのではなく、そこで立ち止まって
 考えなくてはならない。
 自分に縁がないのは、行く道が間違っているのではないか?
 (その大学ではないのではないか、学部が違うのでは?
  そもそも大学に行くのが違う?
  考え方が間違ってるから勉強も間違ってくる)
 今の生活では、縁がないのではないか・・・などなど
 (勉強しないといけないとか)

・・・ってなことを言ってたように受け止めたんだけど、
間違って理解してるかも。だとしたら、ごめんなさい。



ただ、話のテーマは「浄土」の話で、
その前に「親鸞会」と「浄土真宗」の違いの話をしたあと、
 「浄土は3種類ある」と「岩波仏教事典」を書いている人は考えているというお話(3種類というのは、人によって違うかもしれないが、浄土がさしているものはみんな同じということで「ない」ことは確か)。
 特に講師が「時間軸」といっている、浄土は来世にしかないのか、今浄土があるのかの考え方に大きな違いがある。
↓がどんだけ理解しているかわかんないけど、メモ

質問の前、浄土の結論なんだけど、
浄土の新しい定義が必要というのは、以下の動画を見てもらうと判ると思う
↓浄土真宗の言う「浄土」
(現世でも)念仏で満たされた世界が浄土

これ、死んだら浄土があるという定義とは、合わなすぎません?
再定義が必要・・・ですよね・・・



p.s はじめの「教学館の佼成会の見学」について
浄土真宗は、他の宗派も尊重するらしい
(仏教すべてがそうでななく、自説が正しいとして、他宗派を論破し
 他教団を攻撃する行為も多々見られるが、浄土真宗はそんなことはしない)
なので、浄土真宗の若手が集う教学館では、他宗派・宗教に触れることにより真宗とは何かを考える活動をしているらしい。そのはなしのこと。

今回は佼成会の人と話し合うことで、佼成会のよさを発見し、
その視座から真宗を考えるということ。

↓の動画によると、こういう考え方は珍しいらしい
この考えは逆の発想もまたしかりで、蓮如上人、親鸞聖人の
お言葉も絶対視しない。諸行無常、世の中変わってるんだから、
言ってる内容も時代に即して変わって、また当然。

その点でそのあとの話、
親鸞会の浄土真宗本願寺派批判(お西)の話に続いていく
蓮如上人がこう言ったから、お西がどうのこうのっていってもねえ・・
お東的に見ると、そういう権威主義的批判精神が、真宗に合ってない。
お西はお西の考え、お東はお東の考えがあっていい。
けど、批判するのは、親鸞聖人の精神に合ってない。
そう考えないと歎異抄の二章の意味が通じない。


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なぜ念仏を称えるのか。念仏を称えると極楽浄土に行けるのか?

2024-05-09 07:10:50 | 仏教・神道・その他宗教

今日、秋葉原親鸞講座を聴いて、講師の意図とは全く違うとは
思うんだけど、講義を聴いて、
なぜ浄土真宗では(親鸞は)念仏を称えるのか
が、はっきりと分かった気がするので、
その内容をシェアしたいと思います。



念仏でもなんでもいいけど、
自分の意思なり努力なりで、浄土に行けるかどうかは、
逆に、
今この世(穢土)にみんな生まれてきたわけだけど、
 そのとき、自分の意思なり、努力で生まれてきましたか?
を問うてみればわかる。

スピリチュアルの人は、答え違うと思うけど、仏教の人は
 (あるいは一般的には)自分の意思で生まれて来たのではなく、
 生まれさせられたという形をとっている。
この、この世に生まれさせた働きこそが、「阿弥陀仏の働き」である。



この世に生まれたのが、阿弥陀仏の働きであるならば、
あの世(浄土)に生まれる働きも、阿弥陀仏の働きである。
自分か決めるのではない、。

そして、阿弥陀仏は弥陀の本願により、
 みんなが浄土に生まれない限り、自分は仏にならない
と誓願を立てられた。
ということは、阿弥陀仏のおかげで、浄土に生まれるという
方向性は決まっているのだから(でも現世は穢土に生まれちゃったけど)
あとは阿弥陀仏にお任せして、ついて行くしかないのではなかろうか?
自分はどう匂出来ないことなのだから



このことに気づいたとき、
私は、浄土を求めるので、阿弥陀について行きます。帰依します
となり、心から、南無阿弥陀仏が出てくる。

そして困難なことに当たった時、
自分ではどうすることができないとき
きっと、阿弥陀様の慈悲で、よくなるに違いないと
信じて、心から、南無阿弥陀仏が出てくる。

つまり、自然と心から、南無阿弥陀仏が出てくるものである
(これを講義では、言わされるものであると説いていた)



そもそも、念仏を何回称えたら、どうやったら極楽浄土に行けますか
という問いを立てる人は、浄土というのは自分にとって良いところで、
他人はさておき、自分が浄土に行きたいと考える人たちである。

しかし、極楽浄土とは、阿弥陀仏のいるところ、
すなわち、自分はさておき。他の人が幸せになってほしい、
他の人が浄土に行くことを願う世界である。
つまり、自分が浄土に行きたいと考える人たちとは真逆の世界である。
そんな世界に行って、やっていけるのか・・・



つまり、
念仏を何回称えたら、どうやったら極楽浄土に行けますか?
念仏を称えると、本当に極楽浄土に行けますか?
という問いを立てる時点で、極楽浄土とは程遠い人間である。


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なぜ、南無阿弥陀仏と称えると苦を超えられるのか?

2024-04-14 08:03:07 | 仏教・神道・その他宗教
4月13日に、大人の寺子屋講座に行ってきたんだけど、
そこの質問で
「弥陀の本願って何ですか?」
と質問した人がいて、先生が
「一切衆生を救いたいという願いです」
と答えて、
質問した人は、わかんないけど、まあいいやみたいな顔をしてました。



ごめ~ん、これ、私が前回質問用紙に書いて、今回取り上げられた

「仏道とは何なのでしょうか。
 帰すべき仏の教えを基に自分を見つめるということなのでしょうか?
 そのとき、浄土真宗の教え(=仏の教え)は「阿弥陀仏の本願に帰すること」だとすると、阿弥陀仏の本願の意味が分かりません」

っていう質問に対して、今日のお話はこれの答えになるような話をすると先生がおっしゃっていたので、
たぶん質問した人は、今日の先生のお話を聴いてもわからず、この質問が出たんだと思います。

質問した本人(=私)は理解したのですが、たぶん、他の人はわかってないと思うので、私が理解したことをシェアしたいと思います。



■弥陀の本願とは

先生の答えだけだとわからないので、もう一度確認します。
↓を参考に
(聞いてきた内容が大谷派の内容なので、東本願寺関連から引用しました。
 真宗でも親鸞会の人とは考え方が違うかも?)

まず、法蔵菩薩という方がいて
「全てのものを救うための仏国土を作ろう!」
と思いました。仏国土とは仏道により国を作ることであり、その国は「苦しみがないためにこれを極楽といい、穢れがないためにこれを浄土といいます。」
苦しみがないというのは、苦しいことが起こらないということではなく、苦しいことを克服していて、苦しみを感じないということだと思います(私の解釈)。

で、この世界を実現するには、弥陀の誓願、とくに18願
 (ごめん、適当な例がなかったので、西本願寺派の↓からとってきた。
 考え方は同じっぽい)

全ての生きとし生けるものが、私の真心からの願いを疑いなく信じ、浄土という仏の国に往き生まれたいと思い、たとえ十回でも念仏するならば、必ず浄土に往き生まれる。 

ということが大事とされました。



この18願とは

迷いやすく、悩み苦しみの多いこの世界に、あなたのことをずっと思い通しの仏がいるよ。迷い苦しみの中にも、温もりに包まれて生きていける道があるよ。だからどうか、私の願いをそのまま受け取ってほしい。 
という思いを信じて、「この考えすげ~」と称賛すれば(=称える、浄土宗の唱えるとは意味が違う)、あなたも浄土に行けます(っていうか、大谷派の場合、浄土に生まれています)

っていうことですよね。

で、質問した人も、そのことは知っていると思うんですよ、聴きたいのは

あなたのことをずっと思い通しの仏がいるよ。」

いるって、なぜ断言できるの?
ってことだと思う。

これ、「阿弥陀仏は存在るか」という話を思い出してもらうと判ると思う



「阿弥陀仏は実在するかどうかは(お釈迦様とちがって=お釈迦様は実在する)人間ではわからないが、その働きは確かに存在する」ということだったと思います。

たしかに、法蔵菩薩のように考えれば、その働きは存在することになります。

法蔵菩薩は、「自分はさておき、すべての衆生が救われますように」と考えました

みんなこの考えになると、

Aさんは、自分はさておき、Bさんが救われますように
Bさんは、自分はさておき、Cさんが救われますように
     :
Zさんは、自分はさておき、Aさんが救われますように

って考えることになりますよねえ、

そしたら、Aさんが苦しんだら、Zさんが、助けてくれません?

つまり、自分が苦しんだら、他人が助けてくれるという社会ができますよね!
これが、苦を乗り越える方法。



みんなが法蔵菩薩のように
「自分はさておき、他の人が救われますように」
と考える社会(=浄土)は、まるで、阿弥陀様が存在するかのように
他の人が自分を助けてくれて、苦を乗り越えられる社会になりますよね!

つまり、「あなたのことをずっと思い通阿弥陀仏の(実在はわからないけど)働きは存在していて、迷い苦しみの中にも、温もりに包まれて生きていける道(=法蔵菩薩のように、
「自分はさておき、他の人が救われますように」
と考える生き方、視点、宗(よりどころ、立脚点)=仏道)はあるということを信じる(=南無)

ってことで、これをまとめると南無阿弥陀仏ってこと。

なので、これを称える(信じて称賛すると)・・・苦を乗り越えた、「私が私が」というエゴで固まった煩悩のけがれた世界から抜け出した、けがれなき世界に行けませんか?



っていう風に理解しました。違うかな・・・

・・・まあ、自分はこう理解しました。

ということで、いつものように講義メモ↓
なのですが、今回はオフレコ部分があったので(インターネットに載せてはいけない個人的な話の部分)、そこは削除してメモっています。



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命は自分のものではなく、お返しするもの

2024-04-11 17:50:13 | 仏教・神道・その他宗教
秋葉原親鸞講座に4月10日に行ってきたので、
メモをシェア。

歎異抄に基づいてお話してくださったのですが、
印象に残った言葉は表題の
「命は自分のものではなく、お返しするもの」
ただ、どこの文脈で言われたのか、覚えてない・・・

あと、真宗とほかの宗派・宗教との違いについて、
お話がありました。
他の宗派は、教祖様なり、師匠なりがいて、
階層構造になっている(縦社会)
真宗は、先人の書物などを見て、自分で考え、書物を残すと
いう、先人と自分が同じ立場で、横に広がっていくという
立場をとる(横社会)
なので、「いつでも」「どこでも」「だれとでも」が成り立たないと
真宗ではないそうな

以下、詳細は↓




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カルチャーセンターは親鸞「を」学び、浄土真宗は親鸞「で」学ぶそうな

2024-03-30 18:30:20 | 仏教・神道・その他宗教
3月30日、真宗会館で「大人の寺子屋講座」に行ってきた。
講師は同朋大学の伊藤先生。こんな本書いてる↓
 講義の内容は、親鸞の前半生(越後に流罪になる前まで)

カルチャースクールなんかだと、
親鸞を学ぶ
となり、何年に何が起こり・・・とか親鸞について習うけど、
浄土真宗では、
親鸞で学ぶ
つまり、学ぶ対象は親鸞ではなく、親鸞を手掛かりとして、
自分自身の人生を学ぶんだそうな

以下、講義メモ


合ってるかどうかわかんないけど、お話を聴いていると、どうやら

仏道とは、帰依すべき仏の教えに基づいて、わが身を見つめていくこと
であり、その
「帰依すべき仏の教え」は、浄土真宗の場合、弥陀の本願らしい。
(間違ってたらゴメン。早めのエイプリールフールだと思ってくれ)

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仏法は鉄砲の反対だそうな

2024-03-27 07:14:57 | 仏教・神道・その他宗教
池袋親鸞講座の最終回を聴いてきたんだけど、
ここに載せていないのでシェア

仏教とは、仏法とは、何だろうかというお話。
それは、内観の眼を持つということ。

昔、高光大船氏か、松本梶丸氏かに向かって(講義ではどっちかはっきり言ったんだけど、自分が今各時点で忘れた)「仏様とは何か」という質問をした人がいて、その答えが「仏法は鉄砲の反対」だったそうな

どうも、
鉄砲は、生きている人が外に向かって打って、人を殺す武器
仏法は、死んだ人を生かして、生きている人の心の内側に向かわせる武器
ということらしい。

そして、外側に向かう場合、人の心の煩悩を基に外界のものを見る。
この心の煩悩は、もっとお金を得たい、そのためにもっと効率的に働きたいと思い、将来に向けて計画を立ててそれ通りに、今、動こうとする。
将来のために、今という時間を失っている。

しかし、効率や、もっとお金を得たいという考えなら、ここに来る人はいないはずである。効率的な話や、お金儲けの話を仏法はしない。なのに、仏法の話を聴きに、ここにきている人が、こんなにいる。それはなぜか。

仏法は、人の内面に目を向ける。これが内観の眼。内観の眼により命そのものをどう受け止めたらいいか、生きていくことの意義を、今、いただく。

というような話を聴いてきました。
以下メモ



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結局、念仏を唱えると、なぜ苦を乗り越えられるのかは分かっていないが、スピリチュアル的には理解できる

2024-03-20 08:09:35 | 仏教・神道・その他宗教
オンライン親鸞講座を聴いているっていうことは書いていたけど、
ちょっと前に最終回があったので、そのシェア

結局、「念仏を唱えると、なぜ苦を乗り越えられるのか」については
最後に触れてたけど、「この講座では説明しきれない」ので省略となった。
まあ、そうですよね、これ1つで講座ができますよね・・・

で、最終回は親鸞聖人が越後に流された後の話(関東に行って、京都に戻る)
についてでした↓がその時のメモ




なんだけど、最近、お念仏と同じような話を田淵可愛さんがしていた。
↓の8分20秒~

2024年3月12日〜14日【重要日3月15日までに済ませておくとよい3つのこと】 

「私は何が起ころうと宇宙を信頼し、お任せします」というという話。
こういっても、悪いことや思い通りではないことが起こるかもしれないけど、それは、エゴを手放すチャンスで、宇宙は私たちのことをよくわかっているから、宇宙にお任せするのがよいというお話。

宇宙→阿弥陀仏、エゴを手放す→煩悩を超えるということに置き換えると・・・「私は何が起ころうと阿弥陀仏を信頼し、お任せします」(南無阿弥陀仏)となるんだけど・・・

・・・これなら、スピリチュアル的には、理解できる。

・・・こういうことなのかなあ?


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苦しみを乗り越える方法があるらしいのだが、その方法がわからない…そこが知りたいんだけど…

2024-03-11 07:10:53 | 仏教・神道・その他宗教
前に聴いたオンライン親鸞講座について書いていなかったので
書いてみる。

ここまでのことで、わかったこと。
(池袋親鸞講座で学んだことと、混ざってる)

・人の世界には老病死があり、四苦八苦というように、苦が必ず存在する。

・そして、人の内側には煩悩があり、とくに三毒を持っているがゆえに、
 苦を感じる。

・この苦を乗り越えることが、弥陀の本願の本質であり、

・法蔵菩薩は、この弥陀の本願を成就して、阿弥陀仏となった
 →ということは、苦を乗り越える方法はあり、
  阿弥陀仏はそれを悟ったということ

ってことまではわかったんだけど、肝心の

「苦を乗り越える方法」

がわからない・・・

念仏を唱えること?

い~や~、そーは思えない。
(念仏の南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏が弥陀の本願を達成して悟ったということ」を信じます(帰依します)っていう、信仰表明だとおもうんですけど。で、知りたいのは、その悟った内容なんだけど・・・)

その「苦を乗り越える方法」が知りたいんですけど・・・

わかったら、報告するね!

以下、その親鸞講座のときに取ったメモ



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「極楽浄土に生まれ変わる」とは? ー ってか、そもそも、「極楽浄土」の定義は?

2024-02-25 09:01:00 | 仏教・神道・その他宗教
先日行ってきた、池袋親鸞講座の内容のまとめ。

質問への回答で終わってしまっていましたが、
うち、2つめの質問
「極楽浄土ってあるんですか」の回答をめぐってのお話
が、表題の件となります。


経典には、極楽浄土は存在することが記されていて、
具体的には
「阿弥陀仏がいらっしゃる浄土」が極楽浄土



で、問題は、極楽浄土が存在するかどうかではなく、
(たぶん質問者の意図もそこではなく)
極楽浄土にいつ生まれ変わるか?ということ。

なんでこんなことが問題になるかというと、

「仏教は、四苦八苦を超えた世界に行くことを説いた」のであれば、
仏教により四苦八苦を超えた世界に行った人、つまり悟った人は、
人間界の穢土にいても、浄土にいることと同じになりませんか?
(穢土=人間界=四苦八苦の世界、浄土=神仏=四苦八苦を超えた世界)

ということ。



これは、浄土がないことを意味しているのではなく、
浄土にいつ生まれ変わるのか(浄土に生まれ変わる=往生)という問題。

2つの時点が考えられている
  ・煩悩を超え、四苦八苦を超えた世界に行ったとき
  ・死んだとき

 死んでしまえば、煩悩を興そうとしても肉体がないので興せない
  死んでいたら四苦八苦は越えている。
  なので、死んだときは往生していると考えられる
 なので問題は、「煩悩を超え、四苦八苦を超えた教えである仏教を
 悟った時、往生したとみるか、見ないか?」

浄土真宗大谷派(お東)は、このとき、「浄土に生まれ変わった」
  とみる人が多い

浄土真宗本願寺派(お西)は、死んだとき浄土に生まれ変わった
  とみる人が多い

とかなんかのお話。

↓はその話などの講義のまとめ

↑の右側は、教行信証の一部が書いてある



【以下、個人的所感:上の親鸞講座では言ってないし、関係ない話】

この話、スピリチュアルと対比して考えるとすごくわかりやすい

穢土=3次元
浄土=高次元
極楽浄土=阿弥陀様がいる高次元
  (↓の動画で、饒速日命(にぎはやひ)と瀬織津姫がいる次元と、
   ほかの神々がいる次元は次元が違うって言ってるけど、
   阿弥陀仏も、他の神々と違う次元にいると考えれば、
   納得できる)

往生(極楽浄土に生まれかわる)
  =穢土から浄土にいくこと
  =3次元から高次元に行くこと
  =アセンション

アセンションはいつ起こるのか
 死なないでも起こすことは可能(大谷派)
 死なないと無理(本願寺派)
→2つの考え方がある。

【次元を考える参考】
饒速日命からの御神託【ある計画が実行される。まず日本の復活を遂げる事が必要だ】

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「むさぼりの心」、「満足を知らないこころ」とは…

2024-02-22 07:12:30 | 仏教・神道・その他宗教
先日、「オンライン親鸞講座」を聴いたんだけど、
「むさぼりの心」が人生、生きる上で参考になった。

仏教には、「煩悩」は108個あるけど、その中で根本的なものは、
「貪瞋痴」(とんじんち)の3つなんだそうな(これを三毒というらしい)。
(↓のサイトに詳しい)

で、貪は「むさぼりの心」、つまり「満足を知らないこと」だそうで
これについて納得いく例を、この「オンライン親鸞講座」
で教えてもらったのでシェア
「ほしいほしいと思っていた洋服を買ったとたんに
 次にどの洋服を買おうか見ている」
・・・確かに・・・ありますよねこれ、資本主義だと
この満足を知らない心によって、いつの間にか自分の限界を超えてしまい
(=限界を超えて使いこんでしまい)破滅してしまうんですよね・・・

ってことで、それ以外の内容についても書いた、
メモを↓にシェア


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