嵯峨野を緑の静寂に包む竹林の参道をそぞろ歩きに奥へと進むと正面に本堂が佇んでいる。山門を入ると下陣と内陣は棟を違えて建っており、内陣は御簾で仕切祭壇に大きな御像か並んで見える「遍照寺」は、廣澤山(ひろさわざん)と号する真言宗御室派の準別格本山である。
「こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ」(後宇多帝)
創建は、永祚元年(989)宇多(うた)天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓の山荘を改めて寺院にしたのが始まりとされる。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当寺はその根本道場として名声を高めていたという。
嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があった。池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院であった。しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化した。寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名跡を伝えた。奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政13年舜乗律師により復興された。昭和に収蔵庫、護摩堂。平成九年客殿、庫裡を建立し現容となった。
池の南東側には、遍照寺を建立した寛朝僧正の侍児を祭神とする児神社(ちごじんじゃ)が建っています。創建年は不詳だが、寛朝僧正が入滅した際に、残された児が悲嘆・悲涙して後を追うように広沢池に身を沈めたといわれ、近在の人々がこの児を哀れと思い、その霊を慰めるためにこの社を創建したと伝えられている。
往古の遍照寺に月見堂があったことでも推察できるが、平安時代には観月の絶好地として王朝の歌人が盛んにこの地を訪れ、歌を詠んだようだ。
所在地:都市右京区嵯峨広沢西裏町14。
交通:市営バス山越バス停から徒歩7分。
「こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ」(後宇多帝)
創建は、永祚元年(989)宇多(うた)天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓の山荘を改めて寺院にしたのが始まりとされる。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当寺はその根本道場として名声を高めていたという。
嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があった。池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院であった。しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化した。寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名跡を伝えた。奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政13年舜乗律師により復興された。昭和に収蔵庫、護摩堂。平成九年客殿、庫裡を建立し現容となった。
池の南東側には、遍照寺を建立した寛朝僧正の侍児を祭神とする児神社(ちごじんじゃ)が建っています。創建年は不詳だが、寛朝僧正が入滅した際に、残された児が悲嘆・悲涙して後を追うように広沢池に身を沈めたといわれ、近在の人々がこの児を哀れと思い、その霊を慰めるためにこの社を創建したと伝えられている。
往古の遍照寺に月見堂があったことでも推察できるが、平安時代には観月の絶好地として王朝の歌人が盛んにこの地を訪れ、歌を詠んだようだ。
所在地:都市右京区嵯峨広沢西裏町14。
交通:市営バス山越バス停から徒歩7分。