「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「妙法院」(みょうほういん)

2008年09月02日 10時00分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東山区にある天台宗寺院で、山号を南叡山と称する。
 皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られ、近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置いている。妙法院という名称は、永暦1年(1160)比叡山西塔本覚院の昌雲が法住寺殿に接して里坊を開いたことに始まる。

 当院で唯一国宝に指定されている庫裏は、文禄4年(1595)頃の建築で本瓦葺入母屋造、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養をおこなった際の遺構といわれる。庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、ここの庫裏は入母屋造で、内部は土間、板間、座敷の三部分に分かれ、土間・板間部分は天井板を張らず、貫・梁などの構造材をそのまま見せており、桃山期の豪快な建築様式をとどめている。

 大書院は元和5年(1619)東福門院の女御御所の建物を移築したものといわれ、狩野派の筆による「唐美人図」「四季花鳥図」など、大画面の豪華絢爛な金碧画、桃山の美がたっぷり楽しめる。しばし身動きができなくなるほど目がくぎ付けになったというのは大げさでもない。

 伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。境内は西側正面に玄関、その左手に庫裏、右手に宸殿が建ち、東側の境内奥には大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが建つ。これらの堂宇の間は渡り廊下でつながれている。本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、やや離れた境内東南方に建つ。

 庫裏-桃山時代の建築。庫裏は寺院の台所兼事務所の役割を果たす内向きの建物である。妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える豪壮な建物である。 

 史料として興味をひきつけたのが、ポルトガル国印度副王親書(天正16年(1588))で、これは、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴアの副王から豊臣秀吉に宛てた羊皮紙の書簡で、内容は当時の日本が行っていたキリスト教弾圧政策の緩和を求めたものである。豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された。

 「太平記」にこのような話がのっている。
 佐々木道誉は、鷹狩りの帰り妙法院の前を過ぎる時、モミジの枝を従者に折らせる。それを咎め立てした妙法院の手の者ともめる。腹の虫が治まらぬ道誉は、後日、事もあろうに妙法院に火を放つ。比叡山延暦寺の強硬な抗議により上総の国への配流ということになったが、その地に向かう時、見送りと称して多くの配下の者が、猿の面などをつけたり、腰に猿の皮をぶら下げたりして妙法院の前を通過した。猿は日吉大社(延暦寺)の神使であり、妙法院に対し面当てをしたという訳だ。

 「妙法院」は非公開寺院で、例年11月頃に特別公開されるが、内部の写真撮影は禁止されている。

 所在地:京都市東山区東大路通り渋谷下ル妙法院前側町。
 交通:市バス東山七条バス停下車すぐ。京阪電車七条下車、徒歩約10分。
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