「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

太鼓の練習日

2024年11月24日 21時37分37秒 | 和太鼓
 今月と来月の練習は1回きりだ。会場が取れなかったため止むをえない。
 今日の練習課題は創作曲「枚方風情くらわんか船」を中心に各曲のおさらい。
 今年、かつて重要な旅の手段だった京都伏見から大坂天満橋八軒屋までの船便「三十石船」の運行を復活させることになった。万博のインバウンドを目的にした観光船にするためだ。その航路で重要な船着き場となっていた「枚方宿鍵屋」(東海道56番宿場・ブラタモリで取り上げていた)は歴史的にも語り継がれている船宿で、広沢寅蔵の浪花節「清水次郎長伝」で森の石松が船中で「江戸っ子だってねぇ 食いねえ食いねぇー寿司食いねぇー。清水一家で一番強えーのはだれでぇー・・・」と語る場面はこの淀川三十石船の船中でのこと。そして寿司は「くらわんか船」が売りつけた寿司と思われる。「くらわんか船」は天下御免のもの売船で、いまでは嵐山の堰でみられる物売り船と同じようなものだ。
 雑言、悪態をついて押し売りしたようでその雑言も許されていたようで、枚方宿鍵屋浦で商いをしていた。その三十石船とくらわんか船の光景を曲に描いてみた。
 曲作りのとき資料館として残っている鍵屋を何度も訪ね鍵屋から淀川を見つめながら曲想を練った。あらかたできのが2011年、それからしばらく演奏しなかったが、三十石船が復興すると知り、作風を作り変え篠笛も入れた。賑やかパフォーマンスを取り入れ楽しく演じられるように工夫。
 「ここはどこじゃと船頭さんに問えば ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には錨がいらぬ しゃみや太鼓で船止める」とナレーションを入れ、締太鼓がテンポよくリズムを刻み、三十石船が川下りしてくる光景を演じる・・・。そして中間にくらわんか船の船頭の雑言を入れる「くらわんかーくらわんかー ごんぽじゅる(ゴボウ汁)ごんぼじゅるくらわんかー あんころ餅どうじゃ お寿司はどうじゃ 銭がないからよー食らわんか くらわんかー食らわんかー さぁーささーあさみんな起きなハレー(船中で寝ている人を起こすもの) それそれそれそれ」と口上を声高に張り上げるというもの。この語りは資料館でテープで流されているのを再現した。ナレーションも口上も声の大きい私が担当。
 この曲をイベントなどで演奏しまたYouTubeにアップ、わがチームを知ってもらい枚方に「くらわんか船」をテーマにした曲があるとPRしたい。完成までにもうしばらくかかるが、いずれか枚方宿の船着き場で演奏することを夢見ている・・・・






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マンション創立50周年誌作成 思い出原稿寄稿

2024年11月24日 10時36分58秒 | 日常のこと&写真
 自治会会長よりわがマンション創立50周年を記念して記念誌を編纂するから太鼓や文化祭についての経緯・思い出をつづった原稿を寄稿して欲しいと依頼された。
 どちらも私が深く関わっていたことからの依頼だった。
 太鼓の方はいささか思い入れがあるため長編になったことからここへの掲載はしない。

「文化祭の思い出」 
  「文化祭」を開催する切っ掛けとなったのは本部(自治会)委員の一言だった。 
その委員と写真を撮りに平等院へ出かけ、宇治川の畔でコンビニ弁当を食べているときのことだった。 
「yamaさん、私、夢があるんですよ。マンションには多彩な趣味をお持ちの方が多くいると思うんです、その人たちの発表の場の文化祭を開いてあげたい」と委員がつぶやいた。  
とても素敵な夢だと思い自治会長にそのことを話した。文化振興に関心を寄せておられる会長だったことから早速役員会に提案、本部役員の快い賛同が得られたことから、文化部長・副部長と協議、「やりましょう」ということになり会長のもと企画を練り始めた。4番館集会所を会場とし展示するボードをレンタル業者から借りることなど具体的に骨格が整い開催期日を決め「文化祭」と銘打ったがもう少し柔らかくした方がとい意見で「趣味の作品展」というキャッチコピーで掲示し会報にも掲載、作品を募集することとなったが「果たしてどれくらいの作品が集まるだろうか?」という一抹の不安が皆によぎった。 
 「作品応募者に金券を渡しましょうか」と意見がまとまり、1番館で営んでおられた薬局店と相談、金券引き受けを快諾してもらった。金券は500円と決まり作品応募者に配った。その影響ということでもなかったと思うが手芸をはじめ多くの力作が集まり、心配をよそに大盛況の初開催となった。 
 文化祭当日の朝9時、管内放送ののち児童を集め文化祭開催の「ふれ太鼓」を叩いた。ところが途端に「朝っぱらからうるさい」と苦情がきて即座に中止したという苦い思い出も。 
 当時、KCC(敬老クラブ)が発足したばかりで連携していなかったこともあり、個人からの作品となった。「文化祭をやりたい」とつぶやいた委員の一言からタウンの新たな文化の歴史がはじまった。その後、KCCも加わり4番館集会所だけでは作品が収まらず6番館集会所も加えた。 
 時を経て駅前モール街にアートギャラリーがオープン、集会所でのボードレンタル料負担もそれなりにかさんでいたことから、費用対効果から「ご近所の力作展」としてアートギャラリーに場所を移しギャラリーが閉鎖されるまで続き、再び集会所に場所を移した。 










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