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新選組壬生屯所旧跡「八木家」(やぎけ)

2009年08月29日 23時45分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 幕末の文久3年(1863)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護のために上洛した浪士達は、洛西壬生村に宿所を求めたが、程なく江戸に呼び戻されることになった。しかし「八木家」を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京都に残り、同年3月16日、八木家門柱に「松平肥後守御領新選組宿」という表札を掲げ、新選組が誕生した。

 当時、八木家は壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめており、当主は11代目の八木源之烝應迅であった。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも分宿していった。
 文久3年9月18日、近藤一派と対立していた芹澤鴨派を、酒席で酔いつぶさせたどしゃ降りの深夜、奥座敷で寝込んでいた芹澤鴨とお梅、平山五郎ら四人を襲撃し斬殺した。今も芹澤を斬りつけた刀傷が鴨居に生々しく残りその凄惨さを物語っている。
 この後、近藤勇が実権をにぎっり規律のある戦う軍団となり、新選組の最盛期を築いた、慶應元年(1865)夏、壬生が手狭になってきたことから西本願寺の太鼓番屋に屯所を移した。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがあった。

 建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804)主屋は文化6年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を3室ずつ2列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある。長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。

 八木家には元々但馬の国(兵庫県養父郡朝倉の庄)に祖を発し、鎌倉時代初期に、遠祖より八木安高によりて起る。
 源頼朝の富士の裾野の巻狩りの時、関東一円を震撼させた白い猪を射止めた功績で、頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したといわれている。(鎌倉武鑑)
 十数代の後、越前朝倉を経て天正年間中(室町時代)に、京・洛西壬生村に居を構え、江戸時代には十家程の郷士(壬生住人士)と共に、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役をも勤めていた。また、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがあった。(八木家文書)

 壬生は湧水の豊富なところで、水質にも恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地でもあった。その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色にも古くから使用されている。新選組が使っている羽織の段だら模様の水色は、この壬生の色を使ったものといわれている。

 八木家は、天正年間より現代まで15代を数え、代々血脈相続している。
  入観料は1000円(京都鶴屋鶴寿庵の抹茶、屯所餅付き)で、説明係りの人が朗々と語ってくれる。観光を急がれる人には、いささか説明がながすぎる(約30分)ので、中座されるとよい。

 在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24。
 交通:阪急京都線大宮駅より四条通り西へ徒歩6分、坊城通り南へ4分。

 長きに亘ってご愛読いただき心より感謝申し上げます。ここいらで一端、筆を置かせていただき、改めて「奈良編」として再開を考えております。目下、取材を重ねておりますが、しばらくの間、更新を休止させていただきますので悪しからずご容赦ください。
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