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「宝慈院」(ほうじいん)

2009年08月14日 07時24分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宝慈院は、烏丸通りを上がって行き、同志社大学の北西にあたる寺之内の交差点を左折、3つ目の通りを右折し100mほど行くと小さな山門がある。車だと一方通行で進入禁止、一つ手前の通りを右折し、「無学寺」を通り過ぎて一筋目の離合できないほどの小路を左折、一筋目をさらに左折。知らない人は気が付かずに通り過ぎてしまうようなひっそりと佇んでいる山号を樹下山(じゅげざん)という臨済宗の尼門跡寺院である。

 鎌倉時代の弘安年間(1278~87)、現在の上京区西五辻東町には日本で最初に女性として禅僧となったと伝えられる無外如(むげにょ)大禅尼が開山した「景愛寺」(けいあいじ)の塔頭の一つとして創建された。宝慈院は、はじめは「資樹院」と称していたが、応仁の乱の後に宝慈院と改められたという。そして、南北朝時代の光厳天皇の皇女・華林恵厳(かりんえごん)尼(人形の寺として知られる宝鏡寺の創建者)が住寺の時に、無外如大禅禅尼の幼名に因んで「千代野(ちよの)御所」と号し、紫衣を許され、以降、宝慈院の住持は皇族か公卿の女子と定まり、江戸時代には比丘尼御所の一つに列した。

 本山の景愛寺は、足利氏の庇護をうけ、京都尼寺五山(景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺)の第一位として、南北朝時代には大いに栄えたというが、応仁の乱以降に衰退消滅した。宝慈院には景愛寺の貴重な寺宝が継承されている。
 無外如大禅尼は、幼名を千代野(ちよの)といい、鎌倉幕府の有力御家人重臣・安達泰盛の娘と伝えられている。
 金沢文庫を開いた北条氏一族の金沢実時の子・顕時に嫁いだ後、中国(南宋)より来日して臨済宗を広めた高僧・無学祖元に従って出家し、永仁6年(1298)、76歳で死去した。生涯に不明な点も多いが偉大な女性宗教者として語り継がれている。

 現在の本堂は天明8年(1788)の天明の大火後の再建で、収蔵庫に安置されている本尊・阿弥陀如来像(重要文化財)は、平安時代末期の作といわれ寄木造で丈六(約2.8m)の大きな坐像で景愛寺の旧仏といわれている。また脇壇には木造仏光国師像と木像無外如大坐像(共に重要文化財)を祀っている。

 一説によれば、「千代紙」の名前の由来は、この宝慈院(千代野御所)で尼僧らが書いた絵から始まったために、「千代野御所」をとり「千代紙」と呼ばれるようになったというが、これには諸説あり、土佐藩の藩主となった山之内一豊の妻・千代(見性院)が考案した小袖の柄から起こったという説や、京都で鶴亀・松竹梅などめでたい柄を刷ったのが始まりで、千代を祝う意から名づけられたとか、千代田城(江戸城の別名)の大奥で使われたのが始まりということから付けられたともいわれている。

 所在地:京都市上京区衣棚通寺之内上る下木下町171。
 市バス51・59・102・201・203系統「烏丸今出川」」下車、徒歩6分。地下鉄「今出川」下車、烏丸通を北へ徒歩7分。
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