生きていくために1番大事にするべきことは「お仕事」なのか、
それともお勤め後の「趣味の時間」のためか。
そのどちらにも否と自信をもって答えられることは
この上なく至難なことです。
「生きるために食べる」「生きるために眠る」
そのための燃料をつくり、野菜をつくり、寝床をつくるために働き、動くこと
それが一番生きていくうえで1番、大切なことだと思うのですが、
もちろん、それは非常に「現代」からは、うわすべっている感覚です。
でも、本当なら生きていくうえで1番大切なことが
今1番後回しにされています。
都心で生きていた時の、たった250円の食事は「仕事のための食事」でした。
都心で生きていた時の、たった3時間の睡眠は「仕事のための眠り」でした。
本当は、大切な人と大切な時間をすごすために、働いているはずなのに
いつのまにか仕事のための仕事になっていたように思います。
今、新聞やHPでいわれている日本で年間に必要とされる(とされている)
総エネルギーのほとんどが
無駄なことのために使われているのではないか、と思います。
「今ある電気量だけでは、電気は足りません」
さらにこれ以上の電気量が必要だ、と電力会社に言わせてしまっているのは
何なのか。
「そういわれてみれば、やっぱり電気量は必要だよなあ」と思ってしまう。
「なあに言っているさ。電気は十分に足りているじゃあないのさ」と
笑って言えるだけの、生活をつくるべきなんじゃあないかな、と。
都市生活をしながら、電気量を減らすことを提案をできたらいいなあ、と思います。
「そんなことを言われても…」と言う人も多いけれど
田舎暮らしの例を提案するよりも、もしかしたらずっと現実的かもしれません。
それともお勤め後の「趣味の時間」のためか。
そのどちらにも否と自信をもって答えられることは
この上なく至難なことです。
「生きるために食べる」「生きるために眠る」
そのための燃料をつくり、野菜をつくり、寝床をつくるために働き、動くこと
それが一番生きていくうえで1番、大切なことだと思うのですが、
もちろん、それは非常に「現代」からは、うわすべっている感覚です。
でも、本当なら生きていくうえで1番大切なことが
今1番後回しにされています。
都心で生きていた時の、たった250円の食事は「仕事のための食事」でした。
都心で生きていた時の、たった3時間の睡眠は「仕事のための眠り」でした。
本当は、大切な人と大切な時間をすごすために、働いているはずなのに
いつのまにか仕事のための仕事になっていたように思います。
今、新聞やHPでいわれている日本で年間に必要とされる(とされている)
総エネルギーのほとんどが
無駄なことのために使われているのではないか、と思います。
「今ある電気量だけでは、電気は足りません」
さらにこれ以上の電気量が必要だ、と電力会社に言わせてしまっているのは
何なのか。
「そういわれてみれば、やっぱり電気量は必要だよなあ」と思ってしまう。
「なあに言っているさ。電気は十分に足りているじゃあないのさ」と
笑って言えるだけの、生活をつくるべきなんじゃあないかな、と。
都市生活をしながら、電気量を減らすことを提案をできたらいいなあ、と思います。
「そんなことを言われても…」と言う人も多いけれど
田舎暮らしの例を提案するよりも、もしかしたらずっと現実的かもしれません。
「足りない」のではない、「使いすぎ」ているだけだと。
「足りないから使用量を減らしましょう」とは、
「潤沢にあればどうぞ使ってください、ご自由に」ということですよね。
やっぱりおかしい、この呼びかけ。
どうお感じですか??
このご質問に対し、返答しようと思うとものすご~くものすご~く長くなりそうなので(笑)今回はひかえ、またブログの中で自分なりの考えを伝えたいと思います。
ただ一言「電力が足りない」というのは、使いすぎ故よりも、情報操作故ではないかな、というのが私の考え。今ある原発ある程度とめても電力はまかなえるというのを聞いたことがあるのだけど、実際はどうかな???