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滝番小屋

新城市出沢と鮎滝の近況を紹介、その他雑感を少々。

サバ山とガラ山の境

2016年01月17日 | 寒狭峡郷土研究会

 花ノ木ダムの工事で、堰を切ったため水位が下がり、川岸が露出した。
七久保川の出口から100m位下流、白っぽい花崗岩の岩盤に、黒い片麻岩が
覆い被さるように重なっている。紛れもなくここが境界だ。すると自宅は
領家変成岩の片麻岩の上にあって、隣の宮川さんの家は花崗岩の上に建って
いることになる。70年近く住んでいても、まだまだ知らないことが多い。

 出沢のサバ山と七久保のガラ山、花崗岩は風化して、厚い真砂土の層に
覆われるが、片麻岩はあまり風化せず殆ど表土がない。七久保の猪が
痩せているのは、地質に依るに違いない。それは勿論、人にも当てはまる。
努力の限界を感じる今日此の頃。

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むそうれの地蔵様

2016年01月09日 | 寒狭峡郷土研究会

 国道257号線は、追分から鳳城苑を通り過ぎ音為川を越えると、
右に急カーブし急峻な岩盤の山肌をえぐって長楽へと続いている。
左は切り立った崖でその下は寒狭川の河川敷だ。その崖の岩の上に
ご利益に預かった人が寄贈した、幾つかの馬頭観音に囲まれて
お地蔵様が立っている。

 これが、〔むそうれの地蔵様〕だ。お地蔵様の前は路肩が少し
広がっていて、車が数台駐車することができる。

 〔むそうれの地蔵様〕は昔、田峯の篤志家が、先祖の追善供養に、
難所だった此処を改修した際に建てたそうであるが、がけ崩れを
事前に知らせて旅人を救ったり、事業に失敗した人の願いを聞いて
再起させたりしたというので、今なお、お参りをする人が絶えないそうだ。

 所用で通りかかったので、ちょっと停まってお地蔵様に祈願。

 『願わくは、新城市に民主主義の光明が遍く遍照いたしますように』

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寒狭峡郷土研究会資料_160103

2016年01月03日 | 寒狭峡郷土研究会

寒狭峡伝説語り台本①がまとまりました。
禄代塚・大淵と竜宮・氏神様の話二つ、の三話です。
関係者の方は下記よりダウンロードしてください。
PDF_250KB

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寒狭峡伝説

2015年06月24日 | 寒狭峡郷土研究会

今年の寒狭峡ウォーキング(11月15日開催予定)の資料が出来ました。
関係者の方は下記からダウンロードして下さい。

 寒狭峡伝説(PDF・11MB)

 

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生きている石

2015年03月13日 | 寒狭峡郷土研究会

〔寒狭峡伝説蒐集中〕

有海の鈴木太一郎(現泰彦)さん宅に不思議な石があると聞き訪ねた。
その石は生きていて、だんだんと大きくなるのだという。

『わたしもおじいさんに話は聞いているんだけど・・』
泰彦さんの奥さんも半信半疑のようにみえたが、
地の神様の横に鎮座している石のところに案内してくれた。

 径三十センチ、重さは二・三十キロはあるだろうか、
苔が生えているが、何の変哲もない石のように見える・・。
俄には信じがたいが、鈴木さんのご先祖さまが四国巡礼の旅で、
ニワトリの卵より小さな石を持ち帰ったものが、家が栄えると共に、
大きくなったのだという。

----------------------------------
〈・・そうか、家運が盛り上がり財を成すのか!、・・・ダメ元だ、
 同級のよしみで、泰彦くんに頼んであの石を借りて暫くうちに置いてみるか・・〉

『おとーさん!、その石、うちに持ってきたら小さくなるかも知れんよ』
 脇で家内がつぶやきに答えた。

・・それはないだろうと思いながらも、家内にそう言われると納得せざるをえない。
 肝心なのは石ではなくて、子孫の繁栄を願ったご先祖様の気持ちと努力なのだ。

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禄代塚

2015年03月02日 | 寒狭峡郷土研究会

『七久保に〔禄代塚〕っていうとこがあるって聞いたんだけど?』

「おー、〔禄代塚〕なら、お宮からぐねぐねと坂を登って行くと、
左に別れ道があるが、そっちにはいかんで、少し右の方へまたぐねぐね登って行くと、
布里から来る道にぶつかるで、そこを左のほうにちょっといったところに、
馬頭観音が祀ってあるで、そっから三百メートルぐらい荒原のほうに行くと、
道端に大きな石の塚があるで、どおせんでもわかるわ」
と、簡単な地図を描きながら、七久保の太田さんが教えてくれた。

 十時を少し過ぎていたが、小一時間で行けると聞いて、昼までには戻れるだろうと
行ってみることにした。太田さんが〈ぐねぐね登る〉を二回言っていたので、
気にはなっていたのだが、案の定、雁峰線からツルネまでの上りは半端ではない。
とても一気には登れない。一人では心細くなって何度か引き返そうと思ったが、
一度は〔禄代塚〕を見ておきたいという思いが勝った。途中、息が切れて二度休む。
七久保でもクマを見かけたという噂を思い出して、また急ぎ上った。

 漸く、頂上に辿りつき、一休みして南に百メートル程進むと馬頭観音があった。
やれやれ、ここで間違いない。木に覆われているが背後の切り立った岩盤が
鏡岩に違いない。驚いたことに、ツルネの道は近頃は殆ど人通りが無いはずだが、
道の体をなしている。昔は信州に通じる街道だったというが百年近く前のことだ。
長い間の知恵で、ツルネに道を作れば、移動時間、維持管理共に最小の労力で
できることがわかっていたのだろう。尤も、十分な体力があればの話だが。

 更に三百メートル程南進。あった、あった。六畳間ほどのところに
小石が積み上げられて塚になっている。間違いなくこれが〔禄代塚〕だ。
出沢と荒原の境だ。太田さんの話では、足が早くなるように願かけをして、
石を放り投げたという・・・。考えてみれば、ここに石を放りながら、
七久保と荒原を通っていれば、誰だって山歩きが得意になるに決まっている。
箱根の山の神にだってなれるだろう。日本一足の早い泥棒も、山道で鍛えた
荒原の庄屋には敵わなかった。 

 ものは試し、せっかくここ迄来たのだから、自分も足が丈夫になるようにと、
傍らの石を二個放り投げた。両足の分だ。・・まてよと思い直して、
少し大きめの石を持って行って三個目をそっと積んだ・・・。

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寒狭峡伝説蒐集中

2015年02月22日 | 寒狭峡郷土研究会

 本伝はほぼ完了。
 これを元に秋にウォーキングを企画予定。

 

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鵜ノ首の水神様

2015年01月22日 | 寒狭峡郷土研究会

 やっぱりあった!。
 岩の上から覗きこむと、10メートル程下の岩盤の凹みにチョコンと
収まっている。大水の時には、今立っているところも、濁流の下になるの
を思えば、あの石が流れないのは不思議といえば、不思議だ。周りには
小石一つ転がっていない。流石水神様。
 身を乗り出して覗いていたら、久しぶりに大事な(だった?)ところが
縮み上がった。67.4歳、まだ、何とかあそこまで行く体力はあるだろう、
と、岩伝いに降りていった。
 落ちれば、鵜ノ首。一昨年、環境調査で潜った潜水夫に聞いた話では、
深さ17-18メートルあって豊川で一番深い所だそうである。
(因みに、アユはおろか、魚影は全然見かけなかったとのこと)

 直径30-40センチ、水流で回されるのだろうか、黒くて滑らかで
きれいな石である。落とせば戻ると言われても・・・、
伝説の真偽を確かめようと、この石を落とした人は大したもんだ。
 水神様なら、お心経でいいだろうと、般若心経をあげて現地を離れた。

 寒狭峡伝説 取りまとめ中。

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橋詰殿戦

2014年11月30日 | 寒狭峡郷土研究会

『ちょっとあんたに頼みたいことがあるだがのん』
 久栄さんに声を掛けられて訪ねてみると、
コピーして欲しいと渡されたのが、この橋詰の戦いの絵だった。
橋詰は自分が住んでいるところだし、これも何かの縁だろうと、
二つ返事で引き受けた。
 ついでに出沢の古地図に勝頼の退路を書き入れ、説明を入れた。
新城ラリーでは、2日間で4万8千人の人出だったが、本当に
一日で5万3千人が戦ったとしたら、さぞ壮観だったことだろう。
 スキャナーで取り込みながら、美濃守の最後に思いを馳せる。
尚、笠井肥後守を討取った(相討)のは地元出沢の滝川源右衛門と
伝えられている。

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鮎の登れぬ滝

2008年01月27日 | 寒狭峡郷土研究会

■ 鮎の登れぬ滝 ■==⇒三州横山話より

  前を流れる寒狭川に二ノ滝という滝があって、川の中央にある二つの岩の間から水が溢れ落ちていて、絶えず物凄い響きをたてていましたが、ここから二町ほど下がったところに、鵜の頸と言う淵があって、大淵とも呼んでいますが、ここは竜宮へ通じているなどと言いました。

 この淵と二ノ滝との間には、奇岩が重畳して、物凄いところでした。 夏、 

 『鮎が川下から登ってきて、この滝を上ることが出来ないため、これより上流には鮎はいませんが』、

 昔上流の段嶺に城のあったとき、城主が滝を破壊して鮎を誘おうと計ると、夢に竜神が現れて、段嶺に城のある限り、鮎を登らせる約束をして、滝の破壊を思い留まらせたと言って、段嶺に城のあった間は、上流にも鮎がいたなどと言いました。 

 明治の初め頃、付近の村の材木商が申し合わせてこの滝の破壊を計画すると、間もなくその人たちが病気になったり、死んだりしたので、竜神の祟りだと怖れて、滝の傍に、南無阿弥陀仏の文字を刻んで中止したと言いましたが、明治四十三年に、水力電気の工事のために破壊されて、昔の形はなくなりました。

  ※この文は早川孝太郎(民俗学者、明治22年-昭和31年、新城市横川生れ)によって書かれ、著書「三州横山話」(大正10年発行)に収録されている。

  昔(堰堤ができる前)から、必死になって鮎滝を上ってきた来た鮎も、二の滝(長篠堰堤のある場所)は登れなかったようです。因みに現在の鮎滝は三の滝で、一の滝は二の滝(長篠堰堤)より一丁(約百メートル)上流の大荷場川の出口附近にあったと言われています。

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