■2019-04-29_1137;WT16℃;鮎滝
先日の雨以降水温が下がり、新滝・鮎滝ともに鮎の姿見えず。
毎月の28日はお不動様のご縁日だ。
特に豊作、安寧、無病息災を祈願する春4月28日と、その年を無事に過せ収穫できたことを感謝する秋10月28日は特別だ。奉賛会は解散したが、七久保のお不動様が無くなったわけではない。春秋の御縁日だけは、欠かさず奥の院にお参りをしてきた。太田さんが亡くなって荒れてしまっただろうと思い、落葉かきを杖に登っていくと、誰かが世話をしたのだろう、小ざっぱりと片づけられ、榊に注連縄が新しかった。
『不動明王は大日如来の化身とされ、煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている(Wikipedia)』のだが、七久保のお不動様の顔は優しい。これまで彼方此方のお不動様をお参りしたが、こんな顔のお不動様に出会ったことはない。長年此処の世話をしてきた太田さんの面影が重なって、涙を流しているように見えるのは私だけか・・。
ノウマク サンマンダ バサラダン
センダンマカロシャダ
ソハタヤ ウンタラタ カンマン
■2019-04-23_1227;WT20℃;新滝
ヤハズに溜まった稚アユの群れを見ると、今年の遡上は例年並。もう直ぐ漁協の特別採捕(稚鮎の掬い上げ)が始まる。
■2019-04-22_1243;WT19℃;鮎滝・新滝
鮎滝でも遡上を確認。両サイドにパラパラと飛ぶ稚鮎を後目に、真ん中を鮮やかな婚姻色のウグイが豪快に跳ねる。ヤハズから新滝にかけては、先を争うように遡上する鮎で真っ黒。待ちかねた鮎の季節がやってきた。
■2019-04-21_1541;新滝;WT18℃
今日、新滝で今年初めての遡上を確認。ほぼ例年並みだ。ヤハズ、馬ノ背にも溜まっている。渇水で心配をしていたがこれで一安心。
渋沢敬三アーカイブより
新一万円札の肖像画が渋沢栄一氏に決まった。栄一氏は「日本資本主義の父」と称され、現代日本の礎を創った経済人だと言われている。
その孫の敬三氏は、渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を見込み後継者に指名。学者になりたかった敬三に、羽織袴の正装で床に頭を擦り付けて自分の後を継ぐよう懇願したとされる。
敬三氏は若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、自分に代わるべく多くの民俗学者を援助し育てた。その中の一人が早川孝太郎である。
その孫の敬三氏は、渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を見込み後継者に指名。学者になりたかった敬三に、羽織袴の正装で床に頭を擦り付けて自分の後を継ぐよう懇願したとされる。
敬三氏は若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、自分に代わるべく多くの民俗学者を援助し育てた。その中の一人が早川孝太郎である。
に孝太郎との出会いが収録されている。
孝太郎の著書『花祭り』を出版し、花祭りを東京に呼び公演させたのも敬三氏である。敬三氏との出会いがなかったら、孝太郎も花祭りも世にでることはなかったであろう。敬三氏は日本に民俗学の花を咲かせた偉人であると同時に、この地にとってもかけがえのない恩人である。
孝太郎の著書『花祭り』を出版し、花祭りを東京に呼び公演させたのも敬三氏である。敬三氏との出会いがなかったら、孝太郎も花祭りも世にでることはなかったであろう。敬三氏は日本に民俗学の花を咲かせた偉人であると同時に、この地にとってもかけがえのない恩人である。
今年も白鳥神社入り口の道端に銀竜草が咲いた。ユウレイ村は過疎化少子化とは無縁なのだろう。毎年少しずつ増えているような気がするが、今年は特に群生している。一輪二輪なら寂しく風情もあるが、これだけ揃うとユウレイ草の名に似つかわしくない。少雨の影響だろうか、伸びも今ひとつだ。
四月初旬、七久保のお不動様は、この小さな山里にユートピアを具象化する。
窪を渡る春風に舞う無数の蝶に誘われるように、七久保の太田さんが旅立った。
七久保はかつては七戸ほどあったそうだが、近年は太田さん一軒になってしまい、幸市さん一人でこの里を守っていた。
早川孝太郎の『地狂言雑記』のなかに、
・・・・・なんにしても村の氏神の祭りにはなくて叶わぬほどの人気のあったことだけに、村という村で、ほとんど演らぬ土地はなかったのである。南設楽郡作手村字七窪などという村は、山の中の戸数わずか7戸の小村で、全部が炭焼きを渡世にしていたが、こんなところでも狂言を演り、それをまた山坂を越えて、遠くから見物にも行ったものである。七窪などは生涯に一度だって用のある土地ではないが、狂言見物に行って初めて知ったなどと言っている人もあった。村のある限り氏神の祭りには、狂言は必ず演るものという風な思想をお互いがまだ心の奥底に持ち合わせていたのも頼もしかった。氏子の好むところすなわち神の納受し給うと考えたのはもっともなことである・・・・・
と寒村の代表のように書いてあるが、
90年ほど前、先代の欽丈さんがお不動様をお祭りし、最盛期には御縁日に数百人の参拝客があったのも今や遠い昔ばなしになった。
やすらぎホールのディスプレイに昔の七久保が映っていた。
百年ぐらい前の写真だという。
上平井の幸市さんの従姉妹だという、かなり年配の女性(年齢は想像にお任せしますと言われた)に話を聞くことができた。右側の家が太田さんの家だという、新しい家には行ったことがないそうだがこの写真の家はよく覚えている(新しい家でも築後70年ぐらいは経つ)、当時、手前の「あかっと」の窪に3軒あって、この窪に4軒あったので、確かに7軒あったそうである。
その内の一軒が昭和の初めまで七久保にあった私の先祖の家だ。この写真には写っていないが、右下の方にあったと聞いている。子供のころの記憶にあるのは、お茶工場とそれを動かす発電所、一面のお茶の段々畑。私の家から4キロ位あるが、よく遊びに来た。もちろん歩いて。今思うと当時は皆体力があった、一つ下の女の子が、ここから学校に通っていた、私の家のある橋詰まで4キロ、更に小学校まで4キロ往復16キロを小学一年の女の子が一人で通っていたのだ。朝、家を出るとき星が出ていると言った。住むには厳しいところだった。
豊川に住む幸市さんの息子さんが、世話に通っていたそうだが、今後、此処に帰ってくる予定はないという・・。数百年続いた里の歴史が今終わる。
式場の都合と、花祭りで少し足止めされた代わりに、素晴らしい立ち日になった。住めば都、山里の手入れに黙々と日課をこなし、花吹雪に抱かれて旅立った太田さんにとって、ここは替えがたい終の棲家だったのだ。不動の風に舞う花びらは、里の感謝と祝福の涙なのだ。・・・ご冥福をお祈りします。
念仏も とぎれとぎれの 精進落し
太田幸市、享年八十五歳、平成三十一年四月四日逝去・・合唱。
窪を渡る春風に舞う無数の蝶に誘われるように、七久保の太田さんが旅立った。
七久保はかつては七戸ほどあったそうだが、近年は太田さん一軒になってしまい、幸市さん一人でこの里を守っていた。
早川孝太郎の『地狂言雑記』のなかに、
・・・・・なんにしても村の氏神の祭りにはなくて叶わぬほどの人気のあったことだけに、村という村で、ほとんど演らぬ土地はなかったのである。南設楽郡作手村字七窪などという村は、山の中の戸数わずか7戸の小村で、全部が炭焼きを渡世にしていたが、こんなところでも狂言を演り、それをまた山坂を越えて、遠くから見物にも行ったものである。七窪などは生涯に一度だって用のある土地ではないが、狂言見物に行って初めて知ったなどと言っている人もあった。村のある限り氏神の祭りには、狂言は必ず演るものという風な思想をお互いがまだ心の奥底に持ち合わせていたのも頼もしかった。氏子の好むところすなわち神の納受し給うと考えたのはもっともなことである・・・・・
と寒村の代表のように書いてあるが、
90年ほど前、先代の欽丈さんがお不動様をお祭りし、最盛期には御縁日に数百人の参拝客があったのも今や遠い昔ばなしになった。
やすらぎホールのディスプレイに昔の七久保が映っていた。
百年ぐらい前の写真だという。
上平井の幸市さんの従姉妹だという、かなり年配の女性(年齢は想像にお任せしますと言われた)に話を聞くことができた。右側の家が太田さんの家だという、新しい家には行ったことがないそうだがこの写真の家はよく覚えている(新しい家でも築後70年ぐらいは経つ)、当時、手前の「あかっと」の窪に3軒あって、この窪に4軒あったので、確かに7軒あったそうである。
その内の一軒が昭和の初めまで七久保にあった私の先祖の家だ。この写真には写っていないが、右下の方にあったと聞いている。子供のころの記憶にあるのは、お茶工場とそれを動かす発電所、一面のお茶の段々畑。私の家から4キロ位あるが、よく遊びに来た。もちろん歩いて。今思うと当時は皆体力があった、一つ下の女の子が、ここから学校に通っていた、私の家のある橋詰まで4キロ、更に小学校まで4キロ往復16キロを小学一年の女の子が一人で通っていたのだ。朝、家を出るとき星が出ていると言った。住むには厳しいところだった。
豊川に住む幸市さんの息子さんが、世話に通っていたそうだが、今後、此処に帰ってくる予定はないという・・。数百年続いた里の歴史が今終わる。
式場の都合と、花祭りで少し足止めされた代わりに、素晴らしい立ち日になった。住めば都、山里の手入れに黙々と日課をこなし、花吹雪に抱かれて旅立った太田さんにとって、ここは替えがたい終の棲家だったのだ。不動の風に舞う花びらは、里の感謝と祝福の涙なのだ。・・・ご冥福をお祈りします。
念仏も とぎれとぎれの 精進落し
太田幸市、享年八十五歳、平成三十一年四月四日逝去・・合唱。