滝番小屋

新城市出沢と鮎滝の近況を紹介、その他雑感を少々。

遠州森の石松③-堀切(ほっきり)

2009年02月23日 | 瑠璃光浄土

■2月15日 堀切(新城市富岡)

 洞雲寺の鈴木住職に教えてもらったとおりに、国道301号線を横切り宇利川の右岸に出た。

 此の辺が堀切なんだが・・・。

畑仕事に行く途中だろう、道を歩いて来た農家のおばさんに尋ねた。
『この辺に石松の生まれたとこがあるって聞いてきたんですが・・。』
「ああ、もう少し向こうへ行ったとこだけど、ちょっと待って、今、お祖父さんに聞いてみるで」
『お忙しいとこすいません』
「ホイ、お祖父さん、石松の生まれたとこを教えてほしいんだって」
70代半ばであろうか、品の良い男の人が、畑仕事の手を休めてこちらに歩いて来た。
「うん、ちょっと分かりにくいで、わしが案内してあげるわ」

 この人が、八名郷土史会の伊田さんだった。伊田さんの案内で石松の生家跡まで行った。宇利川の[堀切高橋]を目印に行けば分かり易いだろう。高橋の右岸100mぐらいのところだ。

 伊田さんの話によると、石松の先祖の山本家は元信州諏訪藩士だったそうである。諸事情で堀切で百姓となり庄屋を務めていた家柄だったが、石松が3歳の時火災で家が焼け、母〈かな〉も焼け死んでしまったそうである。父の助冶はしかたなく石松を連れて遠州森町に炭焼きの出稼ぎに行ったとのことである。昨年、町おこし事業で助成金を貰って此処に看板を立てたということである。話せば限がないので、興味があれば今までに調べた資料を戴けると云うので、帰り道、伊田さん宅に寄って戴いてきた。

 伊田さんに戴いた資料
 【森の石松は三州堀切の生まれ】

 思えば、昨日から何か不思議な縁に導かれていたような気がする。太田川ダムを見に行くつもりだったのが、いつの間にか石松を訊ねる旅になってしまった。大洞院の門前の香具師のお兄ちゃん、洞雲寺の鈴木住職、堀切の伊田さんと行く先々で待ち構えていたように石松について語ってくれた。

 石松は万延元年(1860年)に没したので来年がちょうど150年に当たり、森町では150年忌と各種イベントが予定されているそうである。
 現今では、とても石松のような人生を送る訳にはいかぬが、あの純粋な生き方に少しでも近づけたらと思う。

 何処からか石松兄ぃの声が聞こえる。
 「細けえこたぁどおでもいいが、義理と人情を失くしちゃあ世も末だぁ・・」

石松___完

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遠州森の石松②-洞雲寺

2009年02月22日 | 瑠璃光浄土

■2月15日 洞雲寺(新城市富岡)

 森の石松が実は新城生まれだと森町で聞いた。富岡の洞雲寺に石松の墓があるらしい、とりあえずそこに行ってみるかと、道敏君を誘って出かけてみた。

 富岡の交差点から北東約500m、広いというより、だだっ広い林の中に洞雲寺はあった。駐車場に車を止めて、案内板の一つぐらいはあるだろうと、二人で周りを見回したが何もない。本当にここに有るのかと道敏君が疑うように言った。ここの筈なんだけどなあ、と思いながら、ふと見ると寺の入口に寺男らしい老人がじっと此方を見ている。
『すみません、このお寺に石松のお墓があると聞いて来たんですが・・。』
「ああ、あっちに有るよ」
ボソっと頷いて、尚、警戒するようにこちらを見ている。
『立派な広いお寺ですねえ、管理するのも大変でしょう。実は森町の石松のお墓参りに行ったら新城が本物だと聞いて尋ねて来たんですが・・。』
漸く警戒心が解けたのか、このお寺は徳川家康の時代の陣屋跡で、家来の何某が遠国の領地の代わりに此処を貰ったのが始まりで、武家のお寺で、何でも北辰一刀流の3番目に強かった人の墓が有るからそれを参れという。ちょっと方向が違ってきた。
『すみません。先に石松さんに挨拶をしたいのですが』
「おおそうだった、それならこっちだ。」
と、歩きだした。それにしても寺男にしてはやけに詳しい。
『和尚さん・・、ですよね・・・』
「ああ、」
小さく頷いた。???、道敏君はまだ半信半疑だ。

 それにしても広い。100mほど歩いただろうか、境内墓地に着いた。以前は小さな案内板があったのだが、墓に悪さをされたので取ってしまったという。和尚さんの話では、勝負運を授かろうと墓石を欠いて持ち帰った男が、帰りがけに事故を起こし怖くなって返しに来た事があった、その時のかけらがそれだと墓の横にある石ころを指さして云った。また、ある時、何度司法試験を受けても受からぬので、これを最後に諦めようと石松の墓にお参りしたら見事合格した。或いは、税理士の試験に受かった者、それからもちろん受験の合格祈願に訪れる者もいるという。だが、宝くじを墓前に当選祈願した人で当たったのは聞いたことがないそうだ。(表情からはジョークかどうか判らなかった)

 言い伝えによると、金毘羅代参の帰り路、都鳥一家に殺された石松の首を弟の庄治郎が持ち帰り此処に葬ったそうである。(このことについては③で詳しく紹介予定)

 せっかく、洞雲寺に来たのだからと〈中村メイコ〉の母のお墓にも案内してくれた。確かに石塔の右側面に中村メイコと建立者名が刻んであった。〈田舎のバスはオンボロぐるま〉の歌詞は、メイコがこどもの頃、浜松からこのお寺にお参りに来た時の詩が歌になったのだそうだ。何と、オンボロバスと凸凹道は新城だったのだ・・・;(^.^);

 小一時間、色々なお話をして頂いたのだが、石松のこと以外は殆ど忘れてしまった。石松の生家の堀切の場所を訊き、丁寧にお礼を言って洞雲寺を後にした。帰りがけ北辰一刀流にお参りしたのは言うまでもない。

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遠州森の石松①-大洞院

2009年02月21日 | 瑠璃光浄土

■2月14日太田川ダムに行く途中、大洞院にある石松の墓に寄った。

 遠州森の…とくれば《石松》以外は思いつかない。人生そろそろ勝負時、石松さんに勝負運を授かろうと墓に手を添えていたら、昨夜の春の嵐の影響だろう境内にはほとんど客の姿も見当たらないので退屈したのか、門前の屋台で土産を売っていた香具師のお兄ちゃんが、
「写真撮ってあげるよ。」
と声をかけてきた。せっかくだからと石松さんと一緒にカメラに納まった。お礼に何か貰っていくよと云うと、いいよ、いいよと云いながらも、此処の名物はお茶だからそれでどうだと勧めた。新城もお茶の産地だからお茶はねえ・・・。
「お客さん、新城から来たのか!、石松は新城で生まれたって聞いてるけど・。」
『えっ?、うん、そういやぁ、そんな話聞いたことがあるよ、お兄さんよく知ってるねえ。
 だけど、新城ではそんなに有名じゃあないよ』

 確かどこかで、富岡のほうに石松の墓があると聞いたことがあったような気がした。しかし、有名になると、あちこちに墓だの生誕地だのと尤もらしい言い伝えがあるので、その類いかと思っていたのだ。だが、この森町の香具師までも石松が新城で生まれたと知っているとなると、それなりの根拠があるのだろう。これは一度訪ねてみないといかんな。
『お兄さん、その豆美味そうだ。それちょだい。』
「うん、これは石松の勝負豆といって、イザという時にぶちまける豆だよ。勿論ウマいよ。」

 勝負豆を貰って、大洞院の本堂にお参りに済ませ右手を見ると、庫裡の入口のところでお札やお守りを売っているのが見えた。石松の墓のカケラが入っているというお守りを500円で買った。境内の鐘楼の前には記念写真用の石松の人形看板が置いてあった。こんなにも寺も町も石松で売り出しているのに、なぜ墓が門前にあるんだ。もっと奥の方に祭ってもいいんじゃないか?。

 後で聞いたのだが、本来、無宿人は戒名はなし墓も作ってはいけないそうだ。だから、境内にも境内墓地にも入れないのだそうだ。なんだか石松が可哀そうになった。

 それにしても、自分が今ここにいるのが不思議な気がした。春の嵐で昨夜は大荒れ、今日も9時近くまで雨が降っていたのに、急に太田川ダムを見に行こうと思い立って、真っ先に来たのが此の石松の墓だ・・。

 ・・・こりゃあ、石松さんに呼ばれたかな。。。

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遠州森の太田川ダム

2009年02月16日 | 設楽ダム

2月14日、太田川ダムを視てきた。

 自宅から車を走らせること約2時間、引佐、浜北を通り天竜川を渡って周智郡森町の太田川ダムに着いた。途中、大洞院の石松の墓へ寄ってきたから正味1時間半ぐらいの距離だろう。

 8日に設楽町で開催された「設楽ダムの建設中止を求める会」の集会で、太田川ダムの紹介があった。

http://diamond.jp/series/inside/08_11_01_002

 必要性がほとんどないダムであること、岩盤が弱く崩落を止めるために無数のアンカーを打って工事をしたため完成までに20年近くかかったこと、堤体にクラックが入って補修をした、ダムの直下で起きている群発地震はダムの影響で岩盤破壊が起きている可能性がある?こと等々、・・まるで設楽ダムと同じではないか?、設楽ダムの10年後の姿ではないのか?、これは一度自分の目で見ておかないと・・。と出かけてきたのだ。

 貯水量1180万トンは大島ダムとほぼ同じ、事業費385億円は設楽ダムの5分の1といったところだ。だが建設までの流れは殆ど同じに見える。ただ決定的に違うのは、太田川は「かわせみ」で設楽は「ねこぎぎ」だ。(太田川ダムでは一メートル位はあるだろう巨大な「かわせみ」があちこちで出迎えてくれた。ダム湖は「かわせみ湖」メインの橋は「かわせみ橋」の名がついていた。設楽も、まさか「ねこぎぎ湖」はないだろうが、おそらく橋の一つくらいには「ねこぎぎ」の名がつき欄干にレプリカとなって「ねこぎぎ」が生き残るのだろう。)

 ダムは昨年の10月から試験湛水中で、現在の水位は約半分、貯水量は4分の一ぐらいといったところだ。ダムの本体は工事中で立入禁止になっていて近づくことは出来なかった。入口が柵で止めてあって横に「大成・大林・日本国土共同企業体」の看板があった。どうしても、岩盤をアンカーで補強したところが見たかったので、下流から回り込んで行った。車一台が漸く通れるだけの幅しかない道を渓谷に沿って10分ほど登って行くとダムの下に出た。見上げるとなるほど左岸はアンカーだらけだ。
「この道はもうすぐ、工事がすんだら閉鎖されるよ。ダムの管理用道路だから」
5人程でダムの放水路に管理用の橋を賭けているという親方らしい人が云った。
「御苦労さま。すごいね~、ゼニがあれば何でも出来るね~。」
遙かに聳えるダムを見上げると、思わず感嘆の声が出てしまった。
親方がニヤリとしてうなずいた。

 帰りがけ道脇の「巨大カワセミ」に聴いてみた。
「おい。住処が無くなって怒れるか?」
「フフン・・、怒ると云うより笑っちゃうよ。人間は学ぶということができん。」

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屋久島ヤギの『めろん』

2009年02月08日 | 出沢

 牛馬屋(2組)の田んぼのボタで小さな犬ぐらいの白い動物が草を食んでいた。カメラを向けると首をかしげてポーズ。。まるで警戒心がない、これではネコにもやられてしまう。角はあるが後ろに曲がっていて相手をやっつける武器にはなりそうもない。
「屋久島ヤギの『めろん』ちゃんです。」
 ウシマの若奥さんが教えてくれた。山羊か・・、どおりで大人しい訳だ。抱き上げると、かるい!、10キロちょっとぐらいしかない、骨格標本に皮を被せたみたいにアバラ骨を一本一本数えることが出来そうだ。田んぼに放しておけば草を食べてくれるので草刈りの手間が省けるのだそうだ。それにしても大人しい、見ているだけで癒される。

 以前、年寄りから家畜に名前を付けてはいかんと聞いたことがある。名前を付けると家族になってしまうと。だから屋久島山羊の『めろん』は家畜などではなくペットであり、立派なウシマの家族の一員なのだろう。

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なめるな!。(壱号館の客)

2009年02月07日 | 出沢

 子供だと思ってバカにするな!。
 この後、飛びかかられて危うくデジカメと一緒に指を喰いちぎられるところだった。イノシシは体重15、6キロを超えると急に凶暴になる。特にオスはギチギチと牙を噛み鳴らし体を溜めて飛びかかる時は一瞬だ。人間は野生のスピードついて行けん。だが、追い詰めたり手負いにしたりしなければ猪のほうから向かってくることはない。

 最近、猪がやたらと愛おしく思える。もしもこの世界から猪が居なくなったら淋しくなるな・・きっと。。

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賦選

2009年02月01日 | 出沢

 例年通り2月1日(第一日曜日)に出沢区の役員改選が行われました。新区長に原田一さん副区長には滝本雅章さんが選ばれました。区長は鮎滝保存会長も兼任です。一年間よろしくお願いします。

  設楽ダムについては、林道敏さんから、

「2月5日に国と設楽町との間で建設同意調印式が行われる予定で、ダム建設に向けて本格的に動き出した」 

と報告があった。出沢区としては 《建設着工の一時凍結を求める要望書》 に署名を集めて、県・国宛てに要望することとなった。

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