■2月15日 堀切(新城市富岡)
洞雲寺の鈴木住職に教えてもらったとおりに、国道301号線を横切り宇利川の右岸に出た。
此の辺が堀切なんだが・・・。
畑仕事に行く途中だろう、道を歩いて来た農家のおばさんに尋ねた。
『この辺に石松の生まれたとこがあるって聞いてきたんですが・・。』
「ああ、もう少し向こうへ行ったとこだけど、ちょっと待って、今、お祖父さんに聞いてみるで」
『お忙しいとこすいません』
「ホイ、お祖父さん、石松の生まれたとこを教えてほしいんだって」
70代半ばであろうか、品の良い男の人が、畑仕事の手を休めてこちらに歩いて来た。
「うん、ちょっと分かりにくいで、わしが案内してあげるわ」
この人が、八名郷土史会の伊田さんだった。伊田さんの案内で石松の生家跡まで行った。宇利川の[堀切高橋]を目印に行けば分かり易いだろう。高橋の右岸100mぐらいのところだ。
伊田さんの話によると、石松の先祖の山本家は元信州諏訪藩士だったそうである。諸事情で堀切で百姓となり庄屋を務めていた家柄だったが、石松が3歳の時火災で家が焼け、母〈かな〉も焼け死んでしまったそうである。父の助冶はしかたなく石松を連れて遠州森町に炭焼きの出稼ぎに行ったとのことである。昨年、町おこし事業で助成金を貰って此処に看板を立てたということである。話せば限がないので、興味があれば今までに調べた資料を戴けると云うので、帰り道、伊田さん宅に寄って戴いてきた。
伊田さんに戴いた資料
【森の石松は三州堀切の生まれ】
思えば、昨日から何か不思議な縁に導かれていたような気がする。太田川ダムを見に行くつもりだったのが、いつの間にか石松を訊ねる旅になってしまった。大洞院の門前の香具師のお兄ちゃん、洞雲寺の鈴木住職、堀切の伊田さんと行く先々で待ち構えていたように石松について語ってくれた。
石松は万延元年(1860年)に没したので来年がちょうど150年に当たり、森町では150年忌と各種イベントが予定されているそうである。
現今では、とても石松のような人生を送る訳にはいかぬが、あの純粋な生き方に少しでも近づけたらと思う。
何処からか石松兄ぃの声が聞こえる。
「細けえこたぁどおでもいいが、義理と人情を失くしちゃあ世も末だぁ・・」
石松___完