滝番小屋

新城市出沢と鮎滝の近況を紹介、その他雑感を少々。

出沢紙芝居制作委員会

2022年04月18日 | 寒狭峡郷土研究会

出沢に伝わる昔ばなしを、
紙芝居にして後世に残したいと、
新城の伝説(山本一三二著)を元に脚本を作り、
しげ子さんに相談をしたら、
「それじゃあ、わたしが絵を描いてみるわ」
と快く引き受けてくれた。

出来上がった絵を見てびっくり、
思った以上の出来映えだ。
『しのぶさんはもっと上手い』と頼んでくれた。

上手い、上手い、二人とも、半端なく上手い。

なんでこんな絵が描けるのか。
出沢にこんなに絵が上手い人がいたとは・・・。

簡易な舞台を作ろうかと思ったが、
こんな立派な素晴らしい絵に、
ダンボールの舞台はそぐわない。

コバちゃに絵を見せ、一話語ると、感動し、
「そんならワシが舞台を作るわ」
と二つ返事で引き受けてくれた。

拍子木・BGMも目処がついた。
製作中の舞台が完成したら、
コロナが収まるのを待って、
紙芝居舞台のこけら落としだ。

不思議な石

大淵と竜宮

 

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早川孝太郎と渋沢敬三

2019年04月17日 | 寒狭峡郷土研究会
渋沢敬三アーカイブより
 
 
新一万円札の肖像画が渋沢栄一氏に決まった。栄一氏は「日本資本主義の父」と称され、現代日本の礎を創った経済人だと言われている。
その孫の敬三氏は、渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を見込み後継者に指名。学者になりたかった敬三に、羽織袴の正装で床に頭を擦り付けて自分の後を継ぐよう懇願したとされる。

敬三氏は若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、自分に代わるべく多くの民俗学者を援助し育てた。その中の一人が早川孝太郎である。
に孝太郎との出会いが収録されている。

孝太郎の著書『花祭り』を出版し、花祭りを東京に呼び公演させたのも敬三氏である。敬三氏との出会いがなかったら、孝太郎も花祭りも世にでることはなかったであろう。敬三氏は日本に民俗学の花を咲かせた偉人であると同時に、この地にとってもかけがえのない恩人である。
 
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語り部はPC

2017年06月22日 | 寒狭峡郷土研究会

寒狭峡伝説を語る会も5回目。
6月19日有海の公民館で開催。
大谷先生の早川孝太郎の紹介、
おはなしおばさん梅村さんの語りの後、
ご当地有海の『生きている石』の伝説は、
織田さんのPCが語り部だ。

内容を聞き取れないことはないが、
間のとり方に違和感がある。
AIが語る昔ばなしに、心を動かされる日は
まだ少し先になりそうだ。

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寒狭峡伝説を語る会(緑が丘)

2017年05月11日 | 寒狭峡郷土研究会

■2017-05-10;緑が丘公民館
2月14日に出沢で第一回目を開催してから、月一で横川、
大海と回り、今日は緑が丘で開催。
緑が丘では週一回、お年寄りのお楽しみ会(食事会)をしているとのこと。
そのアトラクションとして、本日開催することになった。

大谷先生の『早川孝太郎の話』に続いて、伝説三話。
語り梅村さん、プロジェクターは自分の担当。
・・・観客が真剣に聴いてくれて、嬉しい。
年寄りが昔ばなしに引き込まれ共感するのは、
原体験のせいなのだろう。
ということは、昔を知らない今の子供たちに昔ばなしをしても、
理解できないということになってしまうのだが・。

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『寒狭峡伝説を語る会』開催

2017年02月14日 | 寒狭峡郷土研究会

2月14日;出沢公民館;
おもてなしサロンのアトラクションで
『寒狭峡伝説を語る会』が開催された。
寒狭峡郷土研究会が、3年ほどかけて蒐集した伝説の中から
三話を選り抜き、今日の公演会となった。

大谷先生の我が古里の民俗学者、早川孝太郎のお話に続いて、
豊川の語り部梅村さんが、
寒狭峡伝説『禄代塚』『大淵と竜宮』『氏神様の話二つ』
の三話を情緒豊かに語った。

日本一足の早い泥棒を捕らえた、荒原の庄屋、
龍神から御用材を取返そうと大淵に潜った、滝川の惣兵衛、
諍いをやめさせようと神様を貰いに行った、大海の庄屋、
泥棒さえも塚となって、旅人を見守る・・・。

民話の中の人々は、我が身を呈しこの地域を守ってきたのだ。
ヤレ自治区だ、交付金だ、プレゼンだと僅かな予算を奪い合う我々を
どんな思いで見ているのだろうか・・。
彼らには及ぶべくもないが、少しでも彼らに近づきたいと
思ってはいるのだが・・。

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伝説に惹かれて

2016年09月11日 | 寒狭峡郷土研究会

寒狭峡に伝わる伝説を後世に伝えたいと、
郷土研究会のメンバーが、語り方や挿し絵のイメージを固めるため
現地を訪れた。台風の余波で昨日まで荒れていた川が今日はウソの
ように穏やか。まるで、寒狭峡が自ら身繕いをしたようだ。
『あの岩に淵の主が約束書きをしたのではないか?』
『此処に大海の神様が流れ着いたのか・・』
伝説を読み、現地に来ると淵の主の龍神や、流れてくる御神体を
待ち受ける人々姿が目に浮かぶ。

川があり、人がいて、時が流れ、物語がうまれる。
今こうして川をながめている我々も、何かの縁に導かれている
のだろう。
※平成28年9月10日

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落してももどる水神様

2016年05月21日 | 寒狭峡郷土研究会

 鵜ノ首の水神様を拝むのはちょっと勇気がいる。

花ノ木で寒狭峡郷土研究会の会合中、水神様を見に行くことになり、鵜の首に降りていった。
我々山猿は、この程度なら何ということはない。水神様の脇まで降りて直接拝んできたが、
普通の人は身を乗り出して覗き見るのも怖いようだ。

落としても戻るかどうか定かではないが、自分が子供の時から
60年近く、大水に耐え、此処に鎮座しているのは間違いない。

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小松の逆さ桑

2016年05月13日 | 寒狭峡郷土研究会

 この前は来たのは一月で桑の木らしくなかったので、再度訪れた。
やっぱり桑の木は今だ、五月だ。葉っぱが茂っていなければ。

・・・確かに枝が垂れ下がっている。
枝垂れ桜もあるし、こういう種類なのだろう・・・
などど余計な詮索はせずに、垂れ下がる枝に、
四百年経ってなお晴れぬ勝頼の恨みを想う。
 茶臼山稲荷で戦勝祈願した信長に一矢報いたいとの執念で、
根付き芽を出したが、どうしても上に伸びることが出来ず
垂れ下がってしまう。小松の逆さ桑は勝頼の哀れを今に語る。

 昔は至るところ桑畑だったが、最近は殆ど見かけなくなった。
久しぶりに久栄さんの桑畑に行ってみると、勢いよく上に伸びている。
そうだよな、これが桑の木だ。

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大巻淵と大蛇

2016年02月12日 | 寒狭峡郷土研究会

 深い淵には、大概魔物が棲んでいる話がある。

 龍とか大蛇の類が多いが、細長いものなら隠れていそうな気がするのか。
或いは水中にいるので、どうしても魚のように細長い物をイメージしてしまうの
だろうか。出沢のせと淵の魔物は、只魔物とだけ伝わっていて、龍か蛇か
はっきりしないが、大巻淵のは大蛇だ。

 せと淵の魔物は、めくら淵、かいくら淵と三つの淵を行き来していたことに
なっているが、大巻淵の大蛇も、塩瀬の蛇穴、ひつ淵の間を行ったり来たりして
いたらしい。

 同じ淵に棲む魔物なのに、橋詰の大淵に棲んでいるのは龍神だ。
願いを聞いてくれれば神で、暴れたり悪さをしたりすれば魔物か・・・。

 空爆。。処刑。。自爆テロ。。ネグレクト・・・。
最近は何でもありの世の中だが、どうしても人間のすることとは思えない。
本物の魔物が棲んでいる淵は、人の心の中にあるのではないだろうか?
その淵に棲む魔物は人の願いを聞いてくれる魔物だと信じたい。

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小松が瀬とさかさ桑

2016年01月18日 | 寒狭峡郷土研究会

 ―小松が瀬とさかさ桑―〔只持・布里小松〕

 長篠の戦で大敗した勝頼は、出沢の橋詰で、身代わりに、勝頼に扮した
笠井肥後守と、名代の武将馬場美濃守が壮絶な殿《しんがり》戦をしている間に、
急ぎ寒狭川を北上し只持小松まで辿り着いた。一万五千を誇った武田軍も、
残るは僅か十数名。梅雨時の雨で増水した寒狭川は板橋が流されて渡れない。
勝頼は家来に命じ、両岸の竹を曲げて束結い橋にして渡った。

 渡って、布里小松、ここまで来れば一安心。小休止して飯を食う事にした。
家来が、近くの畑の桑を切って箸を作った。勝頼はその桑の箸で飯を食って
いる内に、戦を思い起こし、段々と腹が立ってきた。

『遺恨重なる織田信長、必ずこの地に立ち返り、家康諸共討取ってくれん』
勝頼は、怒りに髪を逆立たせ、手に持つ箸を地面に突き立てた。
(杖という説もある)
勝頼の執念が乗り移ったか、この時突き刺した桑の箸が根付いて芽が出たが、
逆さに刺されていたため、枝葉が下に向かって伸びた。

 (この不思議な桑の木は、桑では珍しい二尺ほどの大木になり、
〔小松の逆さ桑〕と呼ばれ、近郷近在の評判になっていたが、明治のはじめ頃
に道路改修のため切られてしまった。只持小松の国道257号線沿いに現存する
ものは、今から50年ほど前に、加藤淳《すなお》さんという人が植えたそうで
ある。飯田線長篠城駅構内のものは、大正15年に医王寺の先住が植えたと
言われている。他に長篠城址の駐車場の横にもある)

 その後、勝頼は追手を気にかけながら、布里栃沢を通り、田峯から段戸山を
越して信州へと落ち延びていった。
 敗走して行った勝頼を哀れんで、後世の人たちは、
  『勝頼や武田の武士の甲斐もなく
      小松が瀬にて名をば流しの』
 と詠いついでいる。
                           寒狭峡郷土研究会

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