今日(5月1日)は、 ロンドンで第1回万国博覧会が開催された日。
万国博覧会がはじまったのは、1851(嘉永4)年5月1日。ヴィクトリア朝大英帝国の技術と力の粋を結集した「万国博覧会」が、ロンドンで開催された。その会場となったのが総ガラス張りの巨大な建物として有名なクリスタル・パレス(水晶宮)である。これが、世界で初めての万国博覧会だと言われている。この万国博には25か国が参加し、大変な評判になった。その後、1853(嘉永6)年、ニューヨーク万博、1855(安政2)年、パリ万博と2年毎にたてつづけに行われている。そして、日本が西欧艦隊の圧力に屈して鎖国を解き開港したのは1859(安政6)年、ロンドン万博からは8年後のことであった。その後、1862(文久2)年に、ロンドン万博が開催された折には、初代英駐日行使・オールコックの収集した日本の工芸品を展示。福沢諭吉ら幕府の遣欧使節団一行が会場を見学している。1865(慶応元)年、仏駐日行使ロッシュがパリ万博参加を幕府に勧め、幕府が承諾。1866(慶応2)年12月には、福沢諭吉が「西洋事情」所編を刊行し、博覧会を日本に紹介している。そして、日本が将軍の弟である、満13歳のプリンス徳川昭武(あきたけ)を代表として、最初に参加したのは1867(慶応3)年のパリでの2回目の博博覧会のときであった。このときは、幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品をした。この万博への参加は、開港したばかりの国としては随分と早いと注目を集めたそうだ。しかし、ヨーロッパの工業化の歴史と重ねて日本のこの早期の万国博参加を振り返ってみると歴史の皮肉を感じざるを得ない。
フランスの産業革命は、ナポレオン3世の時代の、1855年、1867年の記念すべき2度のパリ博が開催された時代にである。それは、フランスが鉄道建設を中心に急速な発展を遂げた時期であり、オスマンの改造によってパリが近代都市へと相貌を一変させた時期であった。産業革命初期のロンドンや19世紀前半のパリは恐ろしく汚く、混乱した都市であったといわれる。工業化の進展とともに都市設備が整えられ、工業に支えられた快適な都市生活が「文明」と言う名で人々の心をとらえはじめた時期が、「文明」と「進歩」をキャッチフレーズとする万国博の始まる時期なのである。その時期に世界に参入した日本人は、実際には敷き終わったばかりの鉄道網や、装いを整えたばかりの大都市や港湾を、あたかも、何百年も前から厳然と存在する西洋文明であるかのように眺めたことになり、それは、彼我の較差が最もひらいた時期であった。1867(慶応3)年のパリ博に参加した渋沢栄一はパリからその時の衝撃を日本に当てて書いているという。当時、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、五代友厚、寺島宗則、松本弘闇、森有礼、榎本武揚や西周らも何らかの方で西欧に行っているが、これら日本から西欧の実情を見た者の驚きは、皆渋沢と同様であり、彼らは彼らの見たものを直ちに日本につくろうと思った。渋沢栄一が、後に繰り返し語っているところから、彼が、万国博覧会のパリに滞在中に、日本に必ず作らねばならぬと考えたものが、鉄道、新聞、銀行、株式会社である。このうち、鉄道は伊藤博文と井上肇が大隈重信を動かして着手してしまったが、他のものは日本の先駆者となっている。電信の建設は明治元年からであるがそれを建議したのは、寺島宗則であった。日本最初の工学教育の制度である工学寮の設置は明治4年であり、その責任者は山尾庸三であった。日本で最初の近代紡績工場は慶応3年操業開始の鹿児島紡績とされるがそれを買い付けたのは五代友厚であり、この年、閉鎖された香港造幣局の設備一式を買い取り、ほぼそのまま、大阪に移転し、明治4年、日本の近代貨幣制の確立に重要な役割を果たす大阪造幣寮にいち早く仕立て上げたのも五代友厚であった。
このように、明治初期の日本の工業化、近代化諸事業は、この時期の滞欧者・留学生の仕事であり、彼らの受けた文明の衝撃と結びついている。
このように、日本の工業化は、お上からの工業化であったことは紛れもない事実である。このような明治の時代の日本の工業化に博覧会の果たした役割は非常に大きかった。
普通「万国博」と言っているのは、「国際博覧会」のことで、「国際博覧会条約」という国際条約に基づいて、正式に博覧会事務局(BIE)に登録又は認定されたものである。
様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年パリで開催されたものが最初期のものである。次いで19世紀にパリで度々開催され、徐々に規模が大きくなっていった。ベルギー・オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851(嘉永4)年に第1回国際博覧会がロンドンで開催されることになったのである。1928(昭和3)年には、国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局が設置された。
この国際博覧会である万国博に日本政府が公式参加をしたのは、1873(明治6)年ウィーン万博からである。明治・大正頃の博覧会では、日本の芸妓が接待役を務め、フジヤマ・ゲイシャを広くアピールした。日本の展示館は、シカゴ万博では宇治平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)、1900(明治33)年パリ万博では法隆寺風のものなど、伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。しかし1900年パリ万博では日本の出品物は酷評され、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』誌を発行するなど、日本の芸術・産業にも大きなインパクトを与えたという。明治の日本は、西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた。そして、明治政府は、国民に一等国を目で確かめるため為に、万国博覧会の誘致を計画した。博覧会は、資本主義の格好のよい数々の所産を陳列することが出来、また、殖産興業の実も挙げることが出来るので、博覧会の開催に力を注いだ。日本国内の博覧会では、明治4年京都西本願寺で京都博覧会、明治5年湯島聖堂で文部省博覧会が開催されたほか各地で地方博覧会が開催される。明治10年には上野公園で第1回内国博覧会、この時、荒木小平がジャガード機を出品。1879(明治12)年、第1時農業博覧会、1881(明治14)年上野公園で第2回内国勧業博覧会、この時、沖牙太郎がエジソン式送話機を出品。1883(明治16)年上野公園で第1回水産博覧会、1890(明治23)上野公園で第3回内国勧業博覧会、この時、東京電燈会社が、会場内にスプレーグ式電車2台を展示、運転(日本初の電車)。1895(明治28)年京都で第4回内国勧業博覧会、この時、市街に市電が登場した。1903(明治36)年、大阪で第5回内国勧業博覧会、この時、会場ー梅田間をバスが運行。夜間のイルミネーションが注目を集めた。第1回内国勧業博覧会以降、規模・出品作品・入場者数は次第に高まりこの第5回目では会場敷地11万余坪、開催日数153日、出品作品27万点、入場人員500万人を超えるものになったという(週刊朝日・日本の歴史)。そこには、ヨーロッパ・アメリカなどから10数カ国が参加したこともあって、日露戦後の西園寺内閣は日本大博覧会と称する日本では初めての万国博の開催を決意した。そして、開催のための事務局も開設され、日本大博覧会会長に就任した金子賢太郎は、万国博の目的を「世界列国ノ物産ノ実況ヲ目撃シ、自国ノ製品ヲ以テ他国ノ需要ニ応ズル方法ヲ研究スル」ことを第1とし、日本が列国と肩を並べるに至ったことを強調した。しかし、財政難が理由となって「幻の万国博」に終わってしまった。その代役として、1907(明治40)年、東京博覧会(東京勧業博覧会)、1914(大正3)年、大正博覧会が、いずれも東京・上野公園を会場として盛大に行われた。そして、日本で、初めて、悲願の万国博の開催が出来たのは、1970(昭和45)年の大阪万博であった。
西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた日本は、今やフランスやイギリスを抜き去り、世界屈指の工業国となった。大阪万博が「人類の進歩と調和を」謳いあげる一方で、国内では公害が最大の社会・政治・経済問題となっていた。そして、昨2005年3月25日より、愛知県で「愛知万博(愛・地球博)」が開催された。 日本での万博は、大阪万博以来、沖縄国際海洋博などに続き5回目の開催となる。そして、その反省から、この万博では、自然の環境を生かしたものを行う予定だったが、実際には、従来の科学万博と変わりのないようなものであったと思われるのだが・・・。大阪万博が行われた3月15日は「万国博デー」となっている。この日の記念日のことは、私のブログ「今日(3月15日)は「万博デー」)でも書いたので興味のある方は見てください。
(画像は1970年大阪で行われた日本万国博覧会のパンフレット。シンボルタワーの「太陽の塔」は、故岡本太郎によるデザイン。)
参考:
万国博覧会とは?(外務省ホームページ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html
国際博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A
万国博覧会がはじまったのは、1851(嘉永4)年5月1日。ヴィクトリア朝大英帝国の技術と力の粋を結集した「万国博覧会」が、ロンドンで開催された。その会場となったのが総ガラス張りの巨大な建物として有名なクリスタル・パレス(水晶宮)である。これが、世界で初めての万国博覧会だと言われている。この万国博には25か国が参加し、大変な評判になった。その後、1853(嘉永6)年、ニューヨーク万博、1855(安政2)年、パリ万博と2年毎にたてつづけに行われている。そして、日本が西欧艦隊の圧力に屈して鎖国を解き開港したのは1859(安政6)年、ロンドン万博からは8年後のことであった。その後、1862(文久2)年に、ロンドン万博が開催された折には、初代英駐日行使・オールコックの収集した日本の工芸品を展示。福沢諭吉ら幕府の遣欧使節団一行が会場を見学している。1865(慶応元)年、仏駐日行使ロッシュがパリ万博参加を幕府に勧め、幕府が承諾。1866(慶応2)年12月には、福沢諭吉が「西洋事情」所編を刊行し、博覧会を日本に紹介している。そして、日本が将軍の弟である、満13歳のプリンス徳川昭武(あきたけ)を代表として、最初に参加したのは1867(慶応3)年のパリでの2回目の博博覧会のときであった。このときは、幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品をした。この万博への参加は、開港したばかりの国としては随分と早いと注目を集めたそうだ。しかし、ヨーロッパの工業化の歴史と重ねて日本のこの早期の万国博参加を振り返ってみると歴史の皮肉を感じざるを得ない。
フランスの産業革命は、ナポレオン3世の時代の、1855年、1867年の記念すべき2度のパリ博が開催された時代にである。それは、フランスが鉄道建設を中心に急速な発展を遂げた時期であり、オスマンの改造によってパリが近代都市へと相貌を一変させた時期であった。産業革命初期のロンドンや19世紀前半のパリは恐ろしく汚く、混乱した都市であったといわれる。工業化の進展とともに都市設備が整えられ、工業に支えられた快適な都市生活が「文明」と言う名で人々の心をとらえはじめた時期が、「文明」と「進歩」をキャッチフレーズとする万国博の始まる時期なのである。その時期に世界に参入した日本人は、実際には敷き終わったばかりの鉄道網や、装いを整えたばかりの大都市や港湾を、あたかも、何百年も前から厳然と存在する西洋文明であるかのように眺めたことになり、それは、彼我の較差が最もひらいた時期であった。1867(慶応3)年のパリ博に参加した渋沢栄一はパリからその時の衝撃を日本に当てて書いているという。当時、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、五代友厚、寺島宗則、松本弘闇、森有礼、榎本武揚や西周らも何らかの方で西欧に行っているが、これら日本から西欧の実情を見た者の驚きは、皆渋沢と同様であり、彼らは彼らの見たものを直ちに日本につくろうと思った。渋沢栄一が、後に繰り返し語っているところから、彼が、万国博覧会のパリに滞在中に、日本に必ず作らねばならぬと考えたものが、鉄道、新聞、銀行、株式会社である。このうち、鉄道は伊藤博文と井上肇が大隈重信を動かして着手してしまったが、他のものは日本の先駆者となっている。電信の建設は明治元年からであるがそれを建議したのは、寺島宗則であった。日本最初の工学教育の制度である工学寮の設置は明治4年であり、その責任者は山尾庸三であった。日本で最初の近代紡績工場は慶応3年操業開始の鹿児島紡績とされるがそれを買い付けたのは五代友厚であり、この年、閉鎖された香港造幣局の設備一式を買い取り、ほぼそのまま、大阪に移転し、明治4年、日本の近代貨幣制の確立に重要な役割を果たす大阪造幣寮にいち早く仕立て上げたのも五代友厚であった。
このように、明治初期の日本の工業化、近代化諸事業は、この時期の滞欧者・留学生の仕事であり、彼らの受けた文明の衝撃と結びついている。
このように、日本の工業化は、お上からの工業化であったことは紛れもない事実である。このような明治の時代の日本の工業化に博覧会の果たした役割は非常に大きかった。
普通「万国博」と言っているのは、「国際博覧会」のことで、「国際博覧会条約」という国際条約に基づいて、正式に博覧会事務局(BIE)に登録又は認定されたものである。
様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年パリで開催されたものが最初期のものである。次いで19世紀にパリで度々開催され、徐々に規模が大きくなっていった。ベルギー・オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851(嘉永4)年に第1回国際博覧会がロンドンで開催されることになったのである。1928(昭和3)年には、国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局が設置された。
この国際博覧会である万国博に日本政府が公式参加をしたのは、1873(明治6)年ウィーン万博からである。明治・大正頃の博覧会では、日本の芸妓が接待役を務め、フジヤマ・ゲイシャを広くアピールした。日本の展示館は、シカゴ万博では宇治平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)、1900(明治33)年パリ万博では法隆寺風のものなど、伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。しかし1900年パリ万博では日本の出品物は酷評され、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』誌を発行するなど、日本の芸術・産業にも大きなインパクトを与えたという。明治の日本は、西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた。そして、明治政府は、国民に一等国を目で確かめるため為に、万国博覧会の誘致を計画した。博覧会は、資本主義の格好のよい数々の所産を陳列することが出来、また、殖産興業の実も挙げることが出来るので、博覧会の開催に力を注いだ。日本国内の博覧会では、明治4年京都西本願寺で京都博覧会、明治5年湯島聖堂で文部省博覧会が開催されたほか各地で地方博覧会が開催される。明治10年には上野公園で第1回内国博覧会、この時、荒木小平がジャガード機を出品。1879(明治12)年、第1時農業博覧会、1881(明治14)年上野公園で第2回内国勧業博覧会、この時、沖牙太郎がエジソン式送話機を出品。1883(明治16)年上野公園で第1回水産博覧会、1890(明治23)上野公園で第3回内国勧業博覧会、この時、東京電燈会社が、会場内にスプレーグ式電車2台を展示、運転(日本初の電車)。1895(明治28)年京都で第4回内国勧業博覧会、この時、市街に市電が登場した。1903(明治36)年、大阪で第5回内国勧業博覧会、この時、会場ー梅田間をバスが運行。夜間のイルミネーションが注目を集めた。第1回内国勧業博覧会以降、規模・出品作品・入場者数は次第に高まりこの第5回目では会場敷地11万余坪、開催日数153日、出品作品27万点、入場人員500万人を超えるものになったという(週刊朝日・日本の歴史)。そこには、ヨーロッパ・アメリカなどから10数カ国が参加したこともあって、日露戦後の西園寺内閣は日本大博覧会と称する日本では初めての万国博の開催を決意した。そして、開催のための事務局も開設され、日本大博覧会会長に就任した金子賢太郎は、万国博の目的を「世界列国ノ物産ノ実況ヲ目撃シ、自国ノ製品ヲ以テ他国ノ需要ニ応ズル方法ヲ研究スル」ことを第1とし、日本が列国と肩を並べるに至ったことを強調した。しかし、財政難が理由となって「幻の万国博」に終わってしまった。その代役として、1907(明治40)年、東京博覧会(東京勧業博覧会)、1914(大正3)年、大正博覧会が、いずれも東京・上野公園を会場として盛大に行われた。そして、日本で、初めて、悲願の万国博の開催が出来たのは、1970(昭和45)年の大阪万博であった。
西洋への劣等感をバネに急速な近代化を進めた日本は、今やフランスやイギリスを抜き去り、世界屈指の工業国となった。大阪万博が「人類の進歩と調和を」謳いあげる一方で、国内では公害が最大の社会・政治・経済問題となっていた。そして、昨2005年3月25日より、愛知県で「愛知万博(愛・地球博)」が開催された。 日本での万博は、大阪万博以来、沖縄国際海洋博などに続き5回目の開催となる。そして、その反省から、この万博では、自然の環境を生かしたものを行う予定だったが、実際には、従来の科学万博と変わりのないようなものであったと思われるのだが・・・。大阪万博が行われた3月15日は「万国博デー」となっている。この日の記念日のことは、私のブログ「今日(3月15日)は「万博デー」)でも書いたので興味のある方は見てください。
(画像は1970年大阪で行われた日本万国博覧会のパンフレット。シンボルタワーの「太陽の塔」は、故岡本太郎によるデザイン。)
参考:
万国博覧会とは?(外務省ホームページ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html
国際博覧会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A