今日(5月25日)は、「有無の日」。
第62代天皇・村上天皇の967(康保4)年の忌日。
村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことからだそうだが、誰が登録したのかは知らないが面白い名の記念日を作ったものだね~。
goo国語辞書で、うむ 1 【有無】をみると、(1)あることとないこと。あるなし。(2)承知と不承知。諾否。などが、あるが、気にいらないことは、しなかったのじゃ~ないかな・・・。
村上天皇(926=延長4年ー967=康保4年名)は成明。平安時代中期の第62代天皇で、醍醐天皇(第60代天皇)の第14皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。保明親王・朱雀天皇(第61代天皇)は同母兄。保明親王とその子慶頼王が皇太子のまま死去し、朱雀天皇にも男子がなかったため、944(天慶7)年に立太子。2年後の946(天慶9)年に朱雀天皇の譲位を受けて即位。この時21歳。先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、949(天暦3)年に忠平が亡くなり、翌950(天暦4)年、藤原師輔の娘藤原安子に男子が生まれると、これを立太子した。藤原忠平死後、忠平の子藤原師輔を補佐として在位した21年間は、摂関を置かず、天皇親政の形式をとった。後世、村上治世は天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視され、同じく天皇親政が行われたとする10世紀前期の醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれた。
しかし、実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期にあり、様々な改革が展開した時期であるが、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられおり摂関家が政治の上層を独占、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。政治の実権は摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、実際に政務をリードしたのは太政官筆頭である左大臣藤原実頼であった。
延喜・天暦の親政は単なる表象(ひょうしょう)にすぎず、この聖代視は11世紀以降に、摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族により、延喜・天暦期を理想の治世とする考えが、意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれたという。
このような、表面上と実際とは異なる政治が行われているとき、・・・あなたなら、政治にやる気が起こりますか・・・?村上天皇が、急な事件のほかは政治を行わなかった・・・という気持ちがわかるような気がする。なにもしてもらわない方が藤原一族にとっては都合が良かっただろうからね。今のどこかの党の幹事長のようなものではない。幹事長は、親分の言っていることを素直に聞いているだけでよいのだから・・・。でもあの人は、余程人が良いか大物なのだろう、つまらにことを言っては、笑われているけど、なんとも思っていないようだものね・・。
村上天皇は文学と和歌・琵琶に生きる。中でも、とりわけ和歌を好み、951(天暦5)年に梨壺に和歌所を設け、源順・清原元輔・紀時文・坂上望城・大中臣能宣らを召して『万葉集』の訓点と『後撰和歌集』の撰進を行わせた。そして、多くの歌合を主催したことでも知られ、とくに960(天徳4)年の内裏歌合は晴儀歌合の典範として後世重んじられた。家集は『村上天皇御集』、『後撰和歌集』以下の勅撰集に57首入集。
歌の心を知る村上天皇に関連して「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事 について、書いておこう。
村上天皇の御代、清涼殿の梅が枯れてしまいこれを残念に思った天皇は、代りの木を求められた。そして、 ある屋敷で良い梅の木を見つけてそれを勅命で宮殿に献上させた。
そしてその木を植えてみたところ、屋敷の女主人が歌を書いて、その梅の枝に結びつけていた。
その歌は 「勅なれば いともかしこし 鶯(うぐいす)の 宿はと問(と)はば いかがこたえむ」 とあった。”勅命ならば有難いことです。しかし、あの鶯が来て、私の宿はどこへ行ってしまったのですかと尋ねられたら、何と答えればよいのでしょうか。”・・・風流を解する天皇は、その見事な歌に驚かれ、その梅に「鶯宿梅」と名付けて返された。その歌を詠んだのは紀貫之の娘・紀内侍だったというのである。この梅は、いま京都の林光院にある。寺伝によれば、西ノ京二条にあった 紀内侍屋敷跡に建てられたそううで、寺の移転にともない、庭の梅も移されたものだとか ・・・。
(画像は鶯宿梅の花。)
参考:
村上天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
村上天皇
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S061L200.HTM
村上天皇 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/murakami.html
第62代村上天皇陵
http://inoues.net/tenno/murakami_tenno.html
延喜・天暦の治- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%B2%BB
京都の伝説・鶯宿梅
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-26.html
第62代天皇・村上天皇の967(康保4)年の忌日。
村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことからだそうだが、誰が登録したのかは知らないが面白い名の記念日を作ったものだね~。
goo国語辞書で、うむ 1 【有無】をみると、(1)あることとないこと。あるなし。(2)承知と不承知。諾否。などが、あるが、気にいらないことは、しなかったのじゃ~ないかな・・・。
村上天皇(926=延長4年ー967=康保4年名)は成明。平安時代中期の第62代天皇で、醍醐天皇(第60代天皇)の第14皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。保明親王・朱雀天皇(第61代天皇)は同母兄。保明親王とその子慶頼王が皇太子のまま死去し、朱雀天皇にも男子がなかったため、944(天慶7)年に立太子。2年後の946(天慶9)年に朱雀天皇の譲位を受けて即位。この時21歳。先代に続いて天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、949(天暦3)年に忠平が亡くなり、翌950(天暦4)年、藤原師輔の娘藤原安子に男子が生まれると、これを立太子した。藤原忠平死後、忠平の子藤原師輔を補佐として在位した21年間は、摂関を置かず、天皇親政の形式をとった。後世、村上治世は天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視され、同じく天皇親政が行われたとする10世紀前期の醍醐天皇の治世(延喜の治)と併せて、延喜・天暦の治と呼ばれた。
しかし、実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期にあり、様々な改革が展開した時期であるが、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられおり摂関家が政治の上層を独占、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。政治の実権は摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、実際に政務をリードしたのは太政官筆頭である左大臣藤原実頼であった。
延喜・天暦の親政は単なる表象(ひょうしょう)にすぎず、この聖代視は11世紀以降に、摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族により、延喜・天暦期を理想の治世とする考えが、意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれたという。
このような、表面上と実際とは異なる政治が行われているとき、・・・あなたなら、政治にやる気が起こりますか・・・?村上天皇が、急な事件のほかは政治を行わなかった・・・という気持ちがわかるような気がする。なにもしてもらわない方が藤原一族にとっては都合が良かっただろうからね。今のどこかの党の幹事長のようなものではない。幹事長は、親分の言っていることを素直に聞いているだけでよいのだから・・・。でもあの人は、余程人が良いか大物なのだろう、つまらにことを言っては、笑われているけど、なんとも思っていないようだものね・・。
村上天皇は文学と和歌・琵琶に生きる。中でも、とりわけ和歌を好み、951(天暦5)年に梨壺に和歌所を設け、源順・清原元輔・紀時文・坂上望城・大中臣能宣らを召して『万葉集』の訓点と『後撰和歌集』の撰進を行わせた。そして、多くの歌合を主催したことでも知られ、とくに960(天徳4)年の内裏歌合は晴儀歌合の典範として後世重んじられた。家集は『村上天皇御集』、『後撰和歌集』以下の勅撰集に57首入集。
歌の心を知る村上天皇に関連して「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事 について、書いておこう。
村上天皇の御代、清涼殿の梅が枯れてしまいこれを残念に思った天皇は、代りの木を求められた。そして、 ある屋敷で良い梅の木を見つけてそれを勅命で宮殿に献上させた。
そしてその木を植えてみたところ、屋敷の女主人が歌を書いて、その梅の枝に結びつけていた。
その歌は 「勅なれば いともかしこし 鶯(うぐいす)の 宿はと問(と)はば いかがこたえむ」 とあった。”勅命ならば有難いことです。しかし、あの鶯が来て、私の宿はどこへ行ってしまったのですかと尋ねられたら、何と答えればよいのでしょうか。”・・・風流を解する天皇は、その見事な歌に驚かれ、その梅に「鶯宿梅」と名付けて返された。その歌を詠んだのは紀貫之の娘・紀内侍だったというのである。この梅は、いま京都の林光院にある。寺伝によれば、西ノ京二条にあった 紀内侍屋敷跡に建てられたそううで、寺の移転にともない、庭の梅も移されたものだとか ・・・。
(画像は鶯宿梅の花。)
参考:
村上天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
村上天皇
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S061L200.HTM
村上天皇 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/murakami.html
第62代村上天皇陵
http://inoues.net/tenno/murakami_tenno.html
延喜・天暦の治- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%9A%A6%E3%81%AE%E6%B2%BB
京都の伝説・鶯宿梅
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-26.html