1955(昭和30)年の今日(5月24日)は、昭和天皇が戦後初の大相撲観戦をした日。
「すもう」は動詞「すま(争)ふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものを元とする語で、いつしか転訛して「すもう」になり、仏教経典として伝わった「相撲」(「あいうつ」と読むことのできる格闘・を意味する漢語)という字に充てられたという。そして、人間にとって対立した者同士が互いにひっつかんで組み合い、相手を倒そうとするというのは本能的な行為であって、そうした力くらべとしての「相撲」は、日本の国技とは別に人類史とともに世界中に自然発生したとされている。
わが国での相撲の起源も非常に古く、『古事記』の”出雲の国譲り”の話の中にも、天照大神が出雲国を支配していた大国主命に、出雲の国を譲るよう使者をつかわした。大国主命の子の建御名方神(タケミナカタ)は、使者の建御雷神(タケミカヅチ)に対し、“力くらべ”によって事を決めようと申し出て、二人の神が相撲を取り、建御雷神が勝ったので、平和裡に国譲りが行われたという話が見られる。また、神ではなく、力士として人間同士の戦いで最古のものとして、『日本書紀』の垂仁天皇7年7月7日に、出雲の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が天皇の前での天覧相撲をとったという記述がある。これは史実というより伝説的な話であるが、この伝説から、勝者の野見宿祢は日本相撲の始祖として、永く祀られるようになった。『古事記』『日本書紀』以外にも『続日本紀』『日本後紀』等々にも、相撲の記述が見られ、鎌倉時代には、源頼朝が、戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した。そして、江戸時代のはじめ(17世紀)頃、興行としての相撲が組織化され、職業としての相撲が始まるが、江戸のほかにも、この京都や大坂に相撲の集団ができたというよりも、こちらの方が古くからできていたらしい。そして、興行における力士の一覧や序列を定めた番付も、このころから出来た。江戸後期には、勧進相撲などの事務をとり、渉外的な斡旋や力士の養成に当たる「年寄」により構成される、(今の協会に相当する)相撲会所も設立された。しかし、明治維新によって江戸幕府が崩壊。新しい時代を迎えると、文明開化の中、断髪令はかろうじて免れたが「相撲はしょせん裸踊りで野蛮そのもの」という見方が強くなり、「相撲禁止論」が浮上したこともある。また、版籍奉還によって、興行を打っても会所から力士へ収益が廻らなくなり、力士の生活はどん底状態になるなど相撲界は危機的な状況に陥った。
そうした状況下で相撲界が危機を回復するきっかけとなったのが、自らも相撲をとることの多かったという明治天皇とその意を受けた伊藤博文たちの尽力により1884(明治17)年に天覧相撲が実現し、相撲が社会的に公認されることになったからであろう。そして、1889(明治22)年に相撲会所は「東京大相撲協会」へと生まれ変わり、1909(明治42)年には国技館が誕生。当時、鉄筋構造ドーム屋根の東洋一の大きさをもつ「国技館」は、従来の相撲場が直前に木材を組んで作り、興行が終わればすぐ取り壊す掛小屋だったことを考えると、革新的なものであったが、この国技館設立の目的には単に相撲場の改革というだけではなく、相撲道の改革もあった。相撲を品位あるものとし、真のプロスポーツにすることを目指したもので、これを機に、投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制の導入、力士報酬制度の改善などが行われ、近代化を果たしていく。そして、1925(大正14)年4月29日、時の摂政宮(後の昭和天皇)の誕生祝日に、赤坂東宮御所で天覧相撲が行われた。その際、東京大角力協会に慰労として御下賜金があり、協会はこの御下賜金をもって銀盃を製作したのが賜杯のはじまりであり、当初は摂政宮賜盃であったが、即位後は天皇賜杯と称されるようになった。昭和天皇は大変相撲を愛好され、戦前には11回もの天覧相撲が行われた。本場所の番付では中央の蒙御免(ごめんこうむる)と書かれる部分に賜天覧(てんらんをたまわる)と書いた天覧相撲専用の番付も現存するが、現在では本場所が増えた影響か別個の天覧相撲は行なわれず東京本場所でのみ天覧相撲が行なわれるため専用番付が用意されることもない。
最初に天皇が國技館で本場所を観戦したのはその場所の10日目の1955(昭和30)年5月24日(戦後初の天覧試合)であった。戦後、この1955(昭和30)年の観戦から1986(昭和61)年までの33年間に、国技館への行幸は40回に達している。
天覧相撲は、古くは女性が相撲を見ることを禁じられていた影響か皇后は同席しなかったが、現在では天皇と皇后の2人で観戦することになっている。最初に天皇と皇后が揃って本場所を観戦したのは1960(昭和35)年5月場所であった。天皇陛下が行幸になる天覧相撲の日には、幕内力士は「御前掛かり」(ごぜんがかり)と称される土俵入りを行う。 行司の先導で、呼出の析(き)を合図に力士が花道から登場する。順に土俵に上がり、全力士が正面を向き、柏手(かしわで)を打って、右2回、左1回の四股(しこ)を踏む。さらに蹲踞(そんきょ)して、一人一人が紹介された後、立礼をして土俵を下りる。天覧相撲の日が奇数日の場合は東方から、偶数日の場合は西方から、幕内土俵入りが披露される。
特に、戦後における数々の天覧相撲は、相撲の復興に大きく影響を与えた。
相撲界は若貴引退以降、長期低落傾向にあったが、最近は横綱朝青龍、大関の琴欧州、この3月場所後新大関となった白鵬など外国人力士の活躍で、人気が復活していると聞く。上位は全て外国人力士が占めてしまう勢いだ。世間には、日本の伝統的な国技だからと言って、日本人だけで相撲をとっていると相撲が廃れるので、伝統的なしきたりさえ守れば、外国人力士ばかりが上位を占めるようになってもそれは、それでよいではないかといった意見もあるようである。この5月場所も日本人力士、西関脇雅山が頑張ったが、結局、決定戦では、モンゴル出身の新大関白鵬の寄り切りで破れ、外人力士の白鵬に優勝を譲ってしまった。
いよいよ、これからは、もう、日本人力士は脇役に追いやられ、外人力士の優勝争いの時代に入りそうだ。
私は古風なのか知らないが、どうも、そのような相撲を日本の伝統相撲として観る気にはなれない。。天皇陛下などは、どのような思いで観ておられるのだろうか・・・????
(画像は「延遼舘天覧相撲横綱之図」早稲田大学図書館所蔵。ここをクリックすると大きな画像を見にゆけます。)
参考:
日本相撲協会ホームページ
http://www.sumo.or.jp/index.html
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲情報
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/sumo/default.htm
大相撲大辞典
http://sumou.bonsainosekai.com/index.html
こんな時代だから・・・国技『相撲』特集 -ナイスポネット
http://www.naispo.net/news/20060119/
「すもう」は動詞「すま(争)ふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものを元とする語で、いつしか転訛して「すもう」になり、仏教経典として伝わった「相撲」(「あいうつ」と読むことのできる格闘・を意味する漢語)という字に充てられたという。そして、人間にとって対立した者同士が互いにひっつかんで組み合い、相手を倒そうとするというのは本能的な行為であって、そうした力くらべとしての「相撲」は、日本の国技とは別に人類史とともに世界中に自然発生したとされている。
わが国での相撲の起源も非常に古く、『古事記』の”出雲の国譲り”の話の中にも、天照大神が出雲国を支配していた大国主命に、出雲の国を譲るよう使者をつかわした。大国主命の子の建御名方神(タケミナカタ)は、使者の建御雷神(タケミカヅチ)に対し、“力くらべ”によって事を決めようと申し出て、二人の神が相撲を取り、建御雷神が勝ったので、平和裡に国譲りが行われたという話が見られる。また、神ではなく、力士として人間同士の戦いで最古のものとして、『日本書紀』の垂仁天皇7年7月7日に、出雲の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が天皇の前での天覧相撲をとったという記述がある。これは史実というより伝説的な話であるが、この伝説から、勝者の野見宿祢は日本相撲の始祖として、永く祀られるようになった。『古事記』『日本書紀』以外にも『続日本紀』『日本後紀』等々にも、相撲の記述が見られ、鎌倉時代には、源頼朝が、戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した。そして、江戸時代のはじめ(17世紀)頃、興行としての相撲が組織化され、職業としての相撲が始まるが、江戸のほかにも、この京都や大坂に相撲の集団ができたというよりも、こちらの方が古くからできていたらしい。そして、興行における力士の一覧や序列を定めた番付も、このころから出来た。江戸後期には、勧進相撲などの事務をとり、渉外的な斡旋や力士の養成に当たる「年寄」により構成される、(今の協会に相当する)相撲会所も設立された。しかし、明治維新によって江戸幕府が崩壊。新しい時代を迎えると、文明開化の中、断髪令はかろうじて免れたが「相撲はしょせん裸踊りで野蛮そのもの」という見方が強くなり、「相撲禁止論」が浮上したこともある。また、版籍奉還によって、興行を打っても会所から力士へ収益が廻らなくなり、力士の生活はどん底状態になるなど相撲界は危機的な状況に陥った。
そうした状況下で相撲界が危機を回復するきっかけとなったのが、自らも相撲をとることの多かったという明治天皇とその意を受けた伊藤博文たちの尽力により1884(明治17)年に天覧相撲が実現し、相撲が社会的に公認されることになったからであろう。そして、1889(明治22)年に相撲会所は「東京大相撲協会」へと生まれ変わり、1909(明治42)年には国技館が誕生。当時、鉄筋構造ドーム屋根の東洋一の大きさをもつ「国技館」は、従来の相撲場が直前に木材を組んで作り、興行が終わればすぐ取り壊す掛小屋だったことを考えると、革新的なものであったが、この国技館設立の目的には単に相撲場の改革というだけではなく、相撲道の改革もあった。相撲を品位あるものとし、真のプロスポーツにすることを目指したもので、これを機に、投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制の導入、力士報酬制度の改善などが行われ、近代化を果たしていく。そして、1925(大正14)年4月29日、時の摂政宮(後の昭和天皇)の誕生祝日に、赤坂東宮御所で天覧相撲が行われた。その際、東京大角力協会に慰労として御下賜金があり、協会はこの御下賜金をもって銀盃を製作したのが賜杯のはじまりであり、当初は摂政宮賜盃であったが、即位後は天皇賜杯と称されるようになった。昭和天皇は大変相撲を愛好され、戦前には11回もの天覧相撲が行われた。本場所の番付では中央の蒙御免(ごめんこうむる)と書かれる部分に賜天覧(てんらんをたまわる)と書いた天覧相撲専用の番付も現存するが、現在では本場所が増えた影響か別個の天覧相撲は行なわれず東京本場所でのみ天覧相撲が行なわれるため専用番付が用意されることもない。
最初に天皇が國技館で本場所を観戦したのはその場所の10日目の1955(昭和30)年5月24日(戦後初の天覧試合)であった。戦後、この1955(昭和30)年の観戦から1986(昭和61)年までの33年間に、国技館への行幸は40回に達している。
天覧相撲は、古くは女性が相撲を見ることを禁じられていた影響か皇后は同席しなかったが、現在では天皇と皇后の2人で観戦することになっている。最初に天皇と皇后が揃って本場所を観戦したのは1960(昭和35)年5月場所であった。天皇陛下が行幸になる天覧相撲の日には、幕内力士は「御前掛かり」(ごぜんがかり)と称される土俵入りを行う。 行司の先導で、呼出の析(き)を合図に力士が花道から登場する。順に土俵に上がり、全力士が正面を向き、柏手(かしわで)を打って、右2回、左1回の四股(しこ)を踏む。さらに蹲踞(そんきょ)して、一人一人が紹介された後、立礼をして土俵を下りる。天覧相撲の日が奇数日の場合は東方から、偶数日の場合は西方から、幕内土俵入りが披露される。
特に、戦後における数々の天覧相撲は、相撲の復興に大きく影響を与えた。
相撲界は若貴引退以降、長期低落傾向にあったが、最近は横綱朝青龍、大関の琴欧州、この3月場所後新大関となった白鵬など外国人力士の活躍で、人気が復活していると聞く。上位は全て外国人力士が占めてしまう勢いだ。世間には、日本の伝統的な国技だからと言って、日本人だけで相撲をとっていると相撲が廃れるので、伝統的なしきたりさえ守れば、外国人力士ばかりが上位を占めるようになってもそれは、それでよいではないかといった意見もあるようである。この5月場所も日本人力士、西関脇雅山が頑張ったが、結局、決定戦では、モンゴル出身の新大関白鵬の寄り切りで破れ、外人力士の白鵬に優勝を譲ってしまった。
いよいよ、これからは、もう、日本人力士は脇役に追いやられ、外人力士の優勝争いの時代に入りそうだ。
私は古風なのか知らないが、どうも、そのような相撲を日本の伝統相撲として観る気にはなれない。。天皇陛下などは、どのような思いで観ておられるのだろうか・・・????
(画像は「延遼舘天覧相撲横綱之図」早稲田大学図書館所蔵。ここをクリックすると大きな画像を見にゆけます。)
参考:
日本相撲協会ホームページ
http://www.sumo.or.jp/index.html
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲情報
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/sumo/default.htm
大相撲大辞典
http://sumou.bonsainosekai.com/index.html
こんな時代だから・・・国技『相撲』特集 -ナイスポネット
http://www.naispo.net/news/20060119/