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「旅の日」松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へ旅立った日

2006-05-16 | 記念日
今日(5月16日)は「旅の日」
日本旅のペンクラブが1988(昭和63)年に制定。せわしない現代生活の中で、ともすれば忘れがちな「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日だそうだ。1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へ旅立った日である。
近世期を通じて、各層の人々に広く愛されている文芸に俳諧がある。松尾芭蕉は貞享から元禄にかけての約10年間、蕉風と呼ばれる独自の作風を示して、当時の新興文芸である俳諧に高い文芸性をもたらした。芭蕉は1644(正保元)年、伊賀上野(三重県上野市)に農民の子として生まれたようだ。芭蕉は、伊賀で京都の古風な貞門俳諧の影響下にあったが、1672(寛文12)年、発句合(ほっくあわせ)『貝おひぬ』をまとめ、それを携えて江戸に下り、その地で出版した。芭蕉独自の蕉風俳諧は、1684(貞享元)年の旅と、旅先の名古屋で成った連句集『冬の日』によって、確立したとされている。その旅の記は冒頭に、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句を揚げるところから『野ざらし紀行』と呼ばれる。翌年4月末に芭蕉は江戸に帰ったが、蕉風開眼の句として知られる「古池や蛙とびこむ水の音」が作られたのは、その翌年の1686(貞享3)年のことである。さらに芭蕉は、貞享4年から5年にかけて、10ヶ月に及ぶ『笈の小文(おいのこぶみ)』『更級紀行』の旅などによって心境を深め、蕉風俳諧は次第に完成の域に近づいた。『笈の小文』冒頭の、「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の一句によっても『野ざらし紀行』の場合と、旅に向かう態度が大きく異なっていることがわかる。1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)、46歳の芭蕉は、江戸をたち、東北・北陸をめぐる旅に出た。芭蕉は旅に出ることによって古人や歴史と深く交わり、旅の記によって、理想的な風雅の世界を描いた。8月下旬、大垣に着くまでの約5ヶ月の旅の記が、後にまとめられた、『おくのほそ道』である。それは、人生は旅であり、又、旅は人生であるとの言葉に始まり辺境な土地にまで風雅を追い求めるその態度や、発句と散文とが、時に照応し、時に一体となる出来栄えによって、蕉風俳諧の一つの到達点を示すものとされている。
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」、「五月雨を集めて早し最上川」、「荒海や佐渡に横たふ天の川」など、よく知られている名句が収められているのも『おくのほそ道』である。その旅の後、芭蕉は暫く近畿の地にあって、1691(元禄4)年には、蕉風俳諧のいま1つの達成と見られる『猿蓑』を、門弟の去来(きょらい)・凡兆(ぼんちょう)に編纂させて刊行した。その書名は巻頭の芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」によるものである。1691(元禄4)年冬、江戸に帰った芭蕉は、しばらく江戸にあったその間、新しく「かるみ」の風潮を工夫する。最晩年に江戸でまとめられた蕉門の選集『炭俵』は「かるみ」をよくあらわしているものだとされている。「梅が香につと日の出る山路かな」は、その巻頭の歌仙連句の発句である。1694(元禄7)年夏、江戸を立った芭蕉は、途中、故郷で月見の会を催したりしたが、その後、大坂に出て、病の床につく。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して、12月12日にこの世を去った。『奥のほそみ道』は、紀行文であるが、旅の実際を忠実に記録したものではない。それは、曽良の「随行日記」によって、事実と作品の違いが指摘されているが、それは、『おくのほそ道』が、旅を素材にして、理想の世界をつくりあげた文学的作品であり、表現効果の為に虚構が用いられているものと言われている。
文人墨客の旅といえば、松尾芭蕉の「おくのほそ道」などを思い浮かべる人が多いが、芭蕉ばかりではなく、遥か昔から風雅を愛する人たちの間では、古跡を尋ね、由緒ある古寺を訪れては古(いにしえ)を偲ぶ旅がされていた。その例としては、平安末期の旅人西行法師があり、戦国時代の連歌師・紫屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)もその1人である。宗長は、連歌を全国に広めたことで知られる。
文人のような自分を究めるための高尚な文学のための旅ではなくても、知らない土地に行き、その地の古跡や由緒ある古寺を訪ね古を偲ぶことは、楽しくもあり意義のあることである。しかし、そのような難しいことは別としても、東京には、大きな建物が建っていること、大勢の人がひしめき合って仕事をし、生活をしていること、若い人が多くいること、電車に乗って座っている人は眠っている人が多いこと、また、京都に行き、街の区画がスッキリして判りやすいこと、夏暑く冬寒いこと、蝉の声がうるさいこと、大阪は食べ物屋が多くて安いこと、電車に乗るのも信号待ちも余りルールを守らないこと、非常にせわしなく歩くこと、名古屋へ行けば、ギャルが多いこと、風俗店が多いこと、長崎へいってタクシーに乗るといくら車が込んでいても運転手がブーブー言わせないこと(観光都市で仕方ないことを認めている)などなど、その土地の知らないことを知り、又、知っていてもそれを見聞きするだけでなく実際に体感することによって、本当にその土地のことがよく理解できる。テレビや本で見たことのある観光名所も自分が実際に旅行をし自分の目で見た所であれば、テレビや本などの情報だけで知っているところが、以外に、それより悪かったり又、逆に良いことがわかり、テレビや本の情報にも関心が深くなる。知らない土地の風景・風俗・習慣・産物・人などを知ることは、本当に人の心を豊かにする。
先日北陸に家人と二人で小旅行をした。初日金沢に宿泊したが、「奥の細道」の旅で芭蕉は、日本海沿いに南下し、越後、越中を経て金沢に入ったのは、7月15日(陽暦8月29日)であった。芭蕉と曾良は、金沢城下北の玄関口、浅野川のほとりで宿(京屋吉兵衛方)をとり、金沢に10日間滞在している。そして、私達も歩いた金沢を代表する犀川の大橋南詰めの近くには、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の芭蕉句碑が立っている。この一句には、目にはさやかに見えないけれども、かすかに忍び寄ってくる秋を感じ、その季節の変わり目を描いており、背後には、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)があるのだとか。そして、私達は次の日山中温泉に止まり、小松にある那谷寺へ観光に行ったが、芭蕉も又、山中温泉・和泉屋に7月27から8日間宿泊。那谷寺にも来ている。この寺は、西国三十三ヵ所の別格、巨大な岩の上に建てられたお寺として有名。『おくのほそ道』には、このお寺は、花山法皇が三十三カ所の観音堂の巡礼をすまされたのちに、ここに観音像を安置したこと、那谷の名前の由来は、那智、谷汲の二字をわかち合わせたものだということ。そして、「奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也」と記している。境内には、ここで詠んだ芭蕉の句碑「 石山の石より白し秋の風 」が立っているが、これは、「那谷」の秋は、ここ白山の白い石よりもっと澄明な秋だ。風水から、秋の色彩は白と決まっている。 ・・・といった意味があるそうだ。北陸の地には他にも多くの芭蕉の句碑があるが、これ以上は書くのはよそう。・・・旅に出かける前に、又、旅先の観光案内所などで貰ったパンフレットなどにより、ほんの少しでも予備知識を持てば、旅の楽しみ方は、数段良くなる。多くの方がこの、ゴールデンウイークには、有意義な旅を楽しまれたことでしょうね。
(画像は、那谷寺の芭蕉句碑)
参考:
日本旅のペンクラブ
http://www.tabipen.com/
芭蕉のふるさと伊賀上野「芭蕉翁記念館」
http://www.ict.ne.jp/~basho-bp/
芭蕉庵ドットコム(学校教育教材・生涯学習教材提供サイト)
http://www.bashouan.com/index.htm
芭蕉db・芭蕉総合年表
http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
奥の細道 芭蕉と金沢(教育用画像素材集)
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku11.htm
芭蕉ゆかりの地を訪ねて(金沢)
http://www.cute.to/~tokusabu/basyou02.htm
松岡正剛の千夜千冊『おくのほそ道』 松尾芭蕉
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0991.html