今日(5月10日)は「四迷忌」『浮雲』の作家・二葉亭四迷の1909(明治42)年の忌日である。前年から朝日新聞社特派員としてロシアに渡り、病気で帰国の途中インド洋上で客死した。
二葉亭四迷(ふたばていしめい)は、1864(元治元)年、江戸に尾張藩士の長男として生まれる。本名は長谷川辰之助。明治新政府の官吏となった父親の島根県赴任にともない、松江に移り、内村友輔の相長舎で儒学を学ぶ。14歳の時、ロシア脅威論に刺激され、軍人になろうとして陸軍士官学校を志望、受験し失敗。次いで外交官志望に転じ、東京外国語学校露語科に入学、中退。ロシア文学・社会主義の影響を受けたという。坪内逍遥の知遇を得て文学で立つ決意をする。
1886(明治19)年『小説総論』』を発表。翌1887年、坪内逍遥の推薦により、『浮雲』第一篇を坪内雄蔵名義で出版し、はしがきで初めて二葉亭四迷と名乗る。このペンネームは、”くたばってしまえ”の語呂合わせで、父親に言われたらしい。その翌年第二篇、翌々年第三篇を発表する。写実主義の描写と「言文一致」の文体で当時の文学者たちに大きな影響を与えたが、早過ぎた試みはここで行き詰まる。この年、内閣官報局の吏官となり、小説の筆を絶つ。その後、吏官を止め満洲をめぐる状況が緊迫してくると、1902(明治35)年大陸にわたるが、翌年帰朝後、大阪朝日新聞東京出張員となり1906(明治39)年、『其面影』、1907(明治40)年『平凡』(明治40)などを書く。1908(明治41)年、ロシア特派員としてロシアへ、1909年5月10日、赴任からの帰途、肺結核の悪化で帰国途中インド洋上で没した。
二葉亭四迷の『浮雲』は、わが国最初の本格的口語体小説として知られており、またツルゲーネフの『猟人日記』の一部を翻訳した『あひゞき』は言文一致運動のひとつの完成として評価されているようだ。
言文一致体(げんぶんいっちたい)とは、明治時代に、今までの文語体文にかわって日常語を用いて口語体に近い文章を書くことを主張し、実践した運動と、書かれた文章を指すが、話した通りに文章として書くという意味ではない。それまでの擬古文体(「~なりけり」)や候文(「~にて候。」)に変わって、「~です」「~だ」で書いてみようなどという試みで、文字通り、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとする文体であり、現在用いられる口語文体の、先駆けといえる。
二葉亭四迷の『余が言文一致の由来』(「青空文庫」)を見ると、
「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじふ)の顛末さ。もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。・・・・」・・・とあるように、円朝の落語を手本にして文を書いた、というような苦労話が出ている。
「言文一致」は、当時の作家たちがはじめた、いわば「下からの日本語改革」ともいえるものであるが、このような新文体への挑戦は文学の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の新聞や雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。ただ、最後まで口語にならなかったのは、法律とお役所の文書である。終戦直後の新憲法で、やっと法令文の言文一致が実現した。このことが、お役所の構造改革がいかに困難かを証明しているようだね。(^0^)
しかし、最近のインターンネット上に書かれている文章を見ていると、改めて、「言文一致」を考えなくてはならないのではないかと思われる。前にも書いたが、「言文一致」は、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとするものであるが、話した通りに文章として書くという意味ではない。最近の言葉の乱れは、酷く、TVのキャスターなど、マスコミの関係者でもへんな言葉を平気で使っているが、特に若者の言葉など何を言っているのかさっぱり分らない。恐らく、日本人の日本語の乱れは世界でも類を見ないであろう。しかも、インターネット上などでは、そのようなわけの分らない日常使っている言葉が平気で文章化されている。
親しい者どうしの間で交わす、肩のこらない、日常の会話体もそれなりに悪いとは言わないが、これからのネット時代。多くの人が、ネット上で文章を書くのが普通の時代になってくると、今様の新しい「言動一致」を考えるときに来ているなのではないだろうか?。皆さんは、どう、思われますか?
(画像は「浮雲 」岩波文庫。二葉亭 四迷作、十川 信介校注)
参考:
二葉亭四迷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E4%BA%AD%E5%9B%9B%E8%BF%B7
作家別作品リスト:No.6/二葉亭 四迷
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person6.html
【浮雲】二葉亭四迷 ,第一篇/第二篇/第三篇:書籍デジタル化委員会 ・電子図書館
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/futabatei/ukigumo.htm
松岡正剛の千夜千冊『浮雲』二葉亭四迷
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0206.html
早稲田と文学(二葉亭四迷)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/h/hu018/hu018p01.htm
二葉亭四迷(ふたばていしめい)は、1864(元治元)年、江戸に尾張藩士の長男として生まれる。本名は長谷川辰之助。明治新政府の官吏となった父親の島根県赴任にともない、松江に移り、内村友輔の相長舎で儒学を学ぶ。14歳の時、ロシア脅威論に刺激され、軍人になろうとして陸軍士官学校を志望、受験し失敗。次いで外交官志望に転じ、東京外国語学校露語科に入学、中退。ロシア文学・社会主義の影響を受けたという。坪内逍遥の知遇を得て文学で立つ決意をする。
1886(明治19)年『小説総論』』を発表。翌1887年、坪内逍遥の推薦により、『浮雲』第一篇を坪内雄蔵名義で出版し、はしがきで初めて二葉亭四迷と名乗る。このペンネームは、”くたばってしまえ”の語呂合わせで、父親に言われたらしい。その翌年第二篇、翌々年第三篇を発表する。写実主義の描写と「言文一致」の文体で当時の文学者たちに大きな影響を与えたが、早過ぎた試みはここで行き詰まる。この年、内閣官報局の吏官となり、小説の筆を絶つ。その後、吏官を止め満洲をめぐる状況が緊迫してくると、1902(明治35)年大陸にわたるが、翌年帰朝後、大阪朝日新聞東京出張員となり1906(明治39)年、『其面影』、1907(明治40)年『平凡』(明治40)などを書く。1908(明治41)年、ロシア特派員としてロシアへ、1909年5月10日、赴任からの帰途、肺結核の悪化で帰国途中インド洋上で没した。
二葉亭四迷の『浮雲』は、わが国最初の本格的口語体小説として知られており、またツルゲーネフの『猟人日記』の一部を翻訳した『あひゞき』は言文一致運動のひとつの完成として評価されているようだ。
言文一致体(げんぶんいっちたい)とは、明治時代に、今までの文語体文にかわって日常語を用いて口語体に近い文章を書くことを主張し、実践した運動と、書かれた文章を指すが、話した通りに文章として書くという意味ではない。それまでの擬古文体(「~なりけり」)や候文(「~にて候。」)に変わって、「~です」「~だ」で書いてみようなどという試みで、文字通り、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとする文体であり、現在用いられる口語文体の、先駆けといえる。
二葉亭四迷の『余が言文一致の由来』(「青空文庫」)を見ると、
「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじふ)の顛末さ。もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。・・・・」・・・とあるように、円朝の落語を手本にして文を書いた、というような苦労話が出ている。
「言文一致」は、当時の作家たちがはじめた、いわば「下からの日本語改革」ともいえるものであるが、このような新文体への挑戦は文学の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の新聞や雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。ただ、最後まで口語にならなかったのは、法律とお役所の文書である。終戦直後の新憲法で、やっと法令文の言文一致が実現した。このことが、お役所の構造改革がいかに困難かを証明しているようだね。(^0^)
しかし、最近のインターンネット上に書かれている文章を見ていると、改めて、「言文一致」を考えなくてはならないのではないかと思われる。前にも書いたが、「言文一致」は、“言”話しことばに、“文”書きことばを一致させようとするものであるが、話した通りに文章として書くという意味ではない。最近の言葉の乱れは、酷く、TVのキャスターなど、マスコミの関係者でもへんな言葉を平気で使っているが、特に若者の言葉など何を言っているのかさっぱり分らない。恐らく、日本人の日本語の乱れは世界でも類を見ないであろう。しかも、インターネット上などでは、そのようなわけの分らない日常使っている言葉が平気で文章化されている。
親しい者どうしの間で交わす、肩のこらない、日常の会話体もそれなりに悪いとは言わないが、これからのネット時代。多くの人が、ネット上で文章を書くのが普通の時代になってくると、今様の新しい「言動一致」を考えるときに来ているなのではないだろうか?。皆さんは、どう、思われますか?
(画像は「浮雲 」岩波文庫。二葉亭 四迷作、十川 信介校注)
参考:
二葉亭四迷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E4%BA%AD%E5%9B%9B%E8%BF%B7
作家別作品リスト:No.6/二葉亭 四迷
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person6.html
【浮雲】二葉亭四迷 ,第一篇/第二篇/第三篇:書籍デジタル化委員会 ・電子図書館
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/futabatei/ukigumo.htm
松岡正剛の千夜千冊『浮雲』二葉亭四迷
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0206.html
早稲田と文学(二葉亭四迷)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/h/hu018/hu018p01.htm