1930(昭和 5)年の今日(10月3日)、 市川右太衛門プロ制作の映画『旗本退屈男』が封切られた。これが、長く続くシリーズ第一作である。
市川右太衛門は、1907(明治40)年2月25日 香川県丸亀市出身の俳優で、本名は浅井善之助。同じく俳優である北大路欣也の実父でもある。両親が芸事好きなこともあって、5歳で日本舞踊を習い始め、小学校卒業後、歌舞伎俳優・2代目市川右團次に入門、歌舞伎の世界で役者修行を開始。市川右一の芸名をもらう。1925(大正14)年、阪東妻三郎が、独立しプロダクションを設立後のマキノ・プロ(牧野省三プロダクション)に入り、芸名を市川右一から市川右太衛門に代え、「黒髪地獄」で銀幕デビュー、このとき18歳であった。日舞仕込の身のこなしを生かした美しい太刀裁きでファンを魅了し、折からのチャンバラ映画ブームに乗り、美剣士スタートして脚光を浴びた。
阪妻の独立プロダクション設立をきっかけに、時代劇スターたちが相次いでプロダクションを興し、昭和初期はスタープロダクションの全盛時代となった。1927(昭和 2)年には、右太衛門も自らのプロダクションを設立した。(同年嵐 寛壽郎が独立、翌年片岡知恵蔵が独立)彼等は、大手の会社に儲けを搾取されることを嫌って独立したのであって、必ずしも芸術的野心が動機での独立ではない。その作品の大多数はB級の安物に過ぎなかったが、そこは家族的な小プロダクションの良さで、まだ駆け出しの若者も才能を認められば異色の作品でデビューする機会もあった。
1927(昭和2年)阪妻が独立し、『雄呂血』(goo映画「大殺陣 雄呂血」(1966年)参照)を発表。この映画は初め『無頼漢』と言う題だったが、検閲当局から題名が好ましくないと変更指されたものだという。「この『雄呂血』に盛られているものは、終始一貫弱者の怒りの爆発で、封建的階級制度に対する不満、疑義、反抗が飛沫をあげてほとばしっている」(1953年7月26付けスポーツニッポン)といわれるように、その虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなった。当時は、このようなラディカル([radical] 過激な。極端な。急進的な。)な傾向の映画が盛んに作られていたときでもあり、右太衛門も独立と同時に奈良あやめ池に撮影所を建設し、自由な気風の中伊藤大輔監督の「一殺多生剣」などを発表したが、彼が作りたかったのは、娯楽中心の時代劇であり、そんなときにめぐりあったのが佐々木味津三の小説『旗本退屈男』だった(作家別作品リスト:佐々木 味津三参照)。格好の原作を得た右太衛門は、娯楽一辺倒の映画作りを徹底。モノクロ映画の時代にもかかわらず、彩りも華麗な衣装を劇中で着替え、諸羽流青眼崩しや額(ひたい)の三日月傷、名台詞などでファンの心をひきつけた。1930(昭和5)年の今日(10月3日)第1作が公開され、以後、右太衛門の当り役として戦後の1963(昭和38)年まで、31本の「旗本退屈男」に主演している(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
終戦を迎え、GHQによる時代劇規制の時代が訪れるが「お夏清十郎」(46)など、本数を落としながらも右太衛門はあくまで時代劇映画にこだわった。1949(昭和24)年、千恵蔵らと共に東横映画(後の東映)に移り、規制のため時代劇製作が困難な中、時代劇風味の現代劇諸作にも出演(“髷をつけない時代劇”といわれた)。規制の対象外となった時代劇作品にも無論出演したが、その中心になったのはやはり「退屈男」だった。そして1951(昭和26)年、本格的な時代劇製作解禁の時代となり、東横が改組して設立された東映に、千恵蔵ともども取締役兼任のスターとして迎えられる。京都在住の右太衛門は邸宅のある地名をとって「北大路(北大路通参照)の御大」(当時の京都の家は後に売却)と呼ばれて尊敬された。
右太衛門は、生涯の当たり役「旗本退屈男」こと早乙女主水之介に代表される明るく豪快な演技で親しまれたが、その立ち回りの見事さは、舞踊の素養(藤間寛蔵の舞踊名を持つ)が生かされているからである。かっての時代劇スターの立ち回りの基本は舞踊である。だから見ていてその立ち居振る舞いが絵になっていた。
「北大路)の御大」の次男である。北大路欣也もいい俳優である。
1988(昭和63)年~1994(平成6)年にテレビ朝日系列で放映された東映制作の単発テレビ時代劇シリーズ『ご存知!旗本退屈男』は北大路欣也主演で9本制作された。本当に親子だけあって、良く似ているが、やはり、この役は、親父にはかなわないな~。
(画像は、『旗本退屈男』シリーズ第1作、1930年歌右衛門プロ古海卓ニ監督。右が 市川右太衛門。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
Category:剣劇俳優-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%89%A3%E5%8A%87%E4%BF%B3%E5%84%AA
市川右太衛門(映画)
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0152640.htm
市川右太衛門 (イチカワウタエモン) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106771/index.html
旗本退屈男 江戸城罷り通る - goo 映画
http://210.150.25.164/movies/PMVWKPD27485/index.html
旗本退屈男(チャンバラワールド)
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/hatatai/taikutu1.htm
作家別作品リスト:佐々木 味津三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person111.html
市川右太衛門は、1907(明治40)年2月25日 香川県丸亀市出身の俳優で、本名は浅井善之助。同じく俳優である北大路欣也の実父でもある。両親が芸事好きなこともあって、5歳で日本舞踊を習い始め、小学校卒業後、歌舞伎俳優・2代目市川右團次に入門、歌舞伎の世界で役者修行を開始。市川右一の芸名をもらう。1925(大正14)年、阪東妻三郎が、独立しプロダクションを設立後のマキノ・プロ(牧野省三プロダクション)に入り、芸名を市川右一から市川右太衛門に代え、「黒髪地獄」で銀幕デビュー、このとき18歳であった。日舞仕込の身のこなしを生かした美しい太刀裁きでファンを魅了し、折からのチャンバラ映画ブームに乗り、美剣士スタートして脚光を浴びた。
阪妻の独立プロダクション設立をきっかけに、時代劇スターたちが相次いでプロダクションを興し、昭和初期はスタープロダクションの全盛時代となった。1927(昭和 2)年には、右太衛門も自らのプロダクションを設立した。(同年嵐 寛壽郎が独立、翌年片岡知恵蔵が独立)彼等は、大手の会社に儲けを搾取されることを嫌って独立したのであって、必ずしも芸術的野心が動機での独立ではない。その作品の大多数はB級の安物に過ぎなかったが、そこは家族的な小プロダクションの良さで、まだ駆け出しの若者も才能を認められば異色の作品でデビューする機会もあった。
1927(昭和2年)阪妻が独立し、『雄呂血』(goo映画「大殺陣 雄呂血」(1966年)参照)を発表。この映画は初め『無頼漢』と言う題だったが、検閲当局から題名が好ましくないと変更指されたものだという。「この『雄呂血』に盛られているものは、終始一貫弱者の怒りの爆発で、封建的階級制度に対する不満、疑義、反抗が飛沫をあげてほとばしっている」(1953年7月26付けスポーツニッポン)といわれるように、その虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなった。当時は、このようなラディカル([radical] 過激な。極端な。急進的な。)な傾向の映画が盛んに作られていたときでもあり、右太衛門も独立と同時に奈良あやめ池に撮影所を建設し、自由な気風の中伊藤大輔監督の「一殺多生剣」などを発表したが、彼が作りたかったのは、娯楽中心の時代劇であり、そんなときにめぐりあったのが佐々木味津三の小説『旗本退屈男』だった(作家別作品リスト:佐々木 味津三参照)。格好の原作を得た右太衛門は、娯楽一辺倒の映画作りを徹底。モノクロ映画の時代にもかかわらず、彩りも華麗な衣装を劇中で着替え、諸羽流青眼崩しや額(ひたい)の三日月傷、名台詞などでファンの心をひきつけた。1930(昭和5)年の今日(10月3日)第1作が公開され、以後、右太衛門の当り役として戦後の1963(昭和38)年まで、31本の「旗本退屈男」に主演している(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
終戦を迎え、GHQによる時代劇規制の時代が訪れるが「お夏清十郎」(46)など、本数を落としながらも右太衛門はあくまで時代劇映画にこだわった。1949(昭和24)年、千恵蔵らと共に東横映画(後の東映)に移り、規制のため時代劇製作が困難な中、時代劇風味の現代劇諸作にも出演(“髷をつけない時代劇”といわれた)。規制の対象外となった時代劇作品にも無論出演したが、その中心になったのはやはり「退屈男」だった。そして1951(昭和26)年、本格的な時代劇製作解禁の時代となり、東横が改組して設立された東映に、千恵蔵ともども取締役兼任のスターとして迎えられる。京都在住の右太衛門は邸宅のある地名をとって「北大路(北大路通参照)の御大」(当時の京都の家は後に売却)と呼ばれて尊敬された。
右太衛門は、生涯の当たり役「旗本退屈男」こと早乙女主水之介に代表される明るく豪快な演技で親しまれたが、その立ち回りの見事さは、舞踊の素養(藤間寛蔵の舞踊名を持つ)が生かされているからである。かっての時代劇スターの立ち回りの基本は舞踊である。だから見ていてその立ち居振る舞いが絵になっていた。
「北大路)の御大」の次男である。北大路欣也もいい俳優である。
1988(昭和63)年~1994(平成6)年にテレビ朝日系列で放映された東映制作の単発テレビ時代劇シリーズ『ご存知!旗本退屈男』は北大路欣也主演で9本制作された。本当に親子だけあって、良く似ているが、やはり、この役は、親父にはかなわないな~。
(画像は、『旗本退屈男』シリーズ第1作、1930年歌右衛門プロ古海卓ニ監督。右が 市川右太衛門。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
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市川右太衛門(映画)
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0152640.htm
市川右太衛門 (イチカワウタエモン) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106771/index.html
旗本退屈男 江戸城罷り通る - goo 映画
http://210.150.25.164/movies/PMVWKPD27485/index.html
旗本退屈男(チャンバラワールド)
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/hatatai/taikutu1.htm
作家別作品リスト:佐々木 味津三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person111.html