今日(10月27日)は、「世界新記録の日」
1931(昭和6)年の今日(10月27日)、神宮競技場で行われた体育大会で、日本初の世界新記録(南部忠平の走り幅跳び7m98、織田幹雄の三段跳び15m58)が誕生したことから。
1931(昭和6)年、第6回明治神宮体育大会(夏季 - 10月2日~4日、秋季 - 10月27日~11月3日) が催された。
明治神宮競技大会は「明治天皇の聖徳を憬仰し、国民の心身の鍛練、精神の作興に資す」ことを目的に、明治神宮外苑競技場 を主会場に、1924(大正13)年から1943(昭和18)年にかけ14回にわたって行われた総合競技大会である。明治神宮外苑競技場は明治神宮外苑内に1924(大正13)年から1956(昭和31)年まで存在した陸上競技場で、施設は、一周400メートル、幅10メートルのトラック。15,000人収容のスタンドに沿って200メートルの直線コースがあり、スタンド反対側の芝生観客席は約50,000人収容。この競技場は、1912(明治45)年のストックホルムオリンピック開催のために建設されたストックホルム・オリンピアシュタディオンを模して設計されたものだそうだ。(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場を起工するため解体された。)
因みに、このストックホルムでの大会は近代オリンピックの基礎が確立された大会と言われており、28の国と地域から2490人の選手が参加したが、日本にとってはこの大会がオリンピック初参加である。
明治神宮競技大会の第1回~第2回大会の主宰が当時、国民の統制に権力を振るった内務省であることや大会の目的を見ても分かるように、この大会は、大正デモクラシー運動への流れの中で揺らぐ天皇制の補強を目的とするもので、極めて国家主義的、軍国主義的色彩の強い競技会だったようであり、明治神宮体育大会は国内最高水準であることが求められたそうだ。(以下参考に記載の「2002world.com・日本サッカーの歴史」参照)
この1931(昭和6)年の今日(10月27日)行われた第6回明治神宮体育大会にて、走り幅跳びの南部忠平が7m98、三段跳びの織田幹雄が15m58の日本初の世界新記録を出した。
南部のこの時の走り幅跳びの記録は相当にレベルが高く、70年以上たった2007年現在でもいまだに日本歴代13位に位置している。ゆえに40年近く日本記録として残り、1970(昭和45)年6月7日に山田宏臣が8m01を跳ぶまで破られなかった。現在でもこの記録をマークすれば、ことによれば日本選手権優勝もありえる。当時は土の助走路でスパイクも旧式であり、現在のタータン(陸上競技場のグラウンド。以下参考に記載のかにまろの気まま日記 走幅跳参照)と最新のスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。
また、織田は、1928(昭和3)年のアムステルダム・オリンピックでは、日本選手団の主将として出場するとともに、三段跳びで見事金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなていた。また、南部は、三段跳びで4位入賞であった。
因みに、このアムステルダムの大会では、長らくクーベルタンらの反対で見送られてきた女性の陸上競技への参加が初めて認められ、日本からは人見絹枝が出場し、800m走で銀メダルを獲得している(日本最初の女子メダリスト)。 この大会では、他にも、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得、(日程が三段跳びよりも6日遅れだったため、日本人金メダル第1号とはなれなかった)、 競泳男子800m自由形リレー(米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男)で、銀メダル、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダル を獲得している。
その翌・1932(昭和 7)年、世界大恐慌下でのロサンゼルスオリンピック では、大不況のため欧州各国が参加選手を減らし、参加選手数が前回の約半分の小型大会であり、しかも、、満州事変の勃発(1931年9月)などで国際世論の風当たりが強い中、日本は逆に前回の3倍の192人の選手・役員団を派遣、開催国アメリカに次ぐ陣容であった。 日増しに悪化するアメリカとの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それらに耐え、選手たちはメダルに挑んだ。陸上競技では南部が三段跳びで15m72を飛んで優勝。南部は前年の走り幅跳びで世界記録を出していたが、三段跳びは専門外で殆ど練習をしていなかったと言う。ところが、本命視されていた走り幅では記録が伸びず銅メダルであった。そして、気持ちをきりかえて臨んだ三段跳び5回目のジャンプで、織田の持つ記録を塗り替える世界新記録で優勝したのであった。彼は、早大時に100m、10秒8をマークした俊足の持ち主であること、それと、”お国のために絶対に勝つ”という強い信念があっての勝利だったのだろう。
このロサンゼルス大会で、日本は金7、銀7、銅4計18個のメダルを獲得。国民はラジオと新聞が伝える選手の活躍に狂喜し、日本中で「バンザイ」を叫び続けたと言う。恐慌とファッシズムの靴音。「米国をやっつけろ」。オリンピックが満州国建国をめぐっての反米感情の捌け口となっていたのだろう。日本の国策にマスコミが強力・・・。オリンピックは暗い時代を一時忘れさせてくれた・・・ことだろう・・・・???。
(画像は、南部忠平。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
日本陸上競技連盟(日本陸連)
http://www.rikuren.or.jp/
OC - オリンピックの歴史
http://www.joc.or.jp/olympic/history/003.html
1931年のスポーツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1931%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84
2002world.com・日本サッカーの歴史
http://www.2002world.com/history/japan/index.html
大正デモクラシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
南部忠平 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%BF%A0%E5%B9%B3
織田幹雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84
満州事変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
1931(昭和6)年の今日(10月27日)、神宮競技場で行われた体育大会で、日本初の世界新記録(南部忠平の走り幅跳び7m98、織田幹雄の三段跳び15m58)が誕生したことから。
1931(昭和6)年、第6回明治神宮体育大会(夏季 - 10月2日~4日、秋季 - 10月27日~11月3日) が催された。
明治神宮競技大会は「明治天皇の聖徳を憬仰し、国民の心身の鍛練、精神の作興に資す」ことを目的に、明治神宮外苑競技場 を主会場に、1924(大正13)年から1943(昭和18)年にかけ14回にわたって行われた総合競技大会である。明治神宮外苑競技場は明治神宮外苑内に1924(大正13)年から1956(昭和31)年まで存在した陸上競技場で、施設は、一周400メートル、幅10メートルのトラック。15,000人収容のスタンドに沿って200メートルの直線コースがあり、スタンド反対側の芝生観客席は約50,000人収容。この競技場は、1912(明治45)年のストックホルムオリンピック開催のために建設されたストックホルム・オリンピアシュタディオンを模して設計されたものだそうだ。(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場を起工するため解体された。)
因みに、このストックホルムでの大会は近代オリンピックの基礎が確立された大会と言われており、28の国と地域から2490人の選手が参加したが、日本にとってはこの大会がオリンピック初参加である。
明治神宮競技大会の第1回~第2回大会の主宰が当時、国民の統制に権力を振るった内務省であることや大会の目的を見ても分かるように、この大会は、大正デモクラシー運動への流れの中で揺らぐ天皇制の補強を目的とするもので、極めて国家主義的、軍国主義的色彩の強い競技会だったようであり、明治神宮体育大会は国内最高水準であることが求められたそうだ。(以下参考に記載の「2002world.com・日本サッカーの歴史」参照)
この1931(昭和6)年の今日(10月27日)行われた第6回明治神宮体育大会にて、走り幅跳びの南部忠平が7m98、三段跳びの織田幹雄が15m58の日本初の世界新記録を出した。
南部のこの時の走り幅跳びの記録は相当にレベルが高く、70年以上たった2007年現在でもいまだに日本歴代13位に位置している。ゆえに40年近く日本記録として残り、1970(昭和45)年6月7日に山田宏臣が8m01を跳ぶまで破られなかった。現在でもこの記録をマークすれば、ことによれば日本選手権優勝もありえる。当時は土の助走路でスパイクも旧式であり、現在のタータン(陸上競技場のグラウンド。以下参考に記載のかにまろの気まま日記 走幅跳参照)と最新のスパイクの性能を考えると、いかに南部の記録が突出していたかがわかる。
また、織田は、1928(昭和3)年のアムステルダム・オリンピックでは、日本選手団の主将として出場するとともに、三段跳びで見事金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなていた。また、南部は、三段跳びで4位入賞であった。
因みに、このアムステルダムの大会では、長らくクーベルタンらの反対で見送られてきた女性の陸上競技への参加が初めて認められ、日本からは人見絹枝が出場し、800m走で銀メダルを獲得している(日本最初の女子メダリスト)。 この大会では、他にも、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得、(日程が三段跳びよりも6日遅れだったため、日本人金メダル第1号とはなれなかった)、 競泳男子800m自由形リレー(米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男)で、銀メダル、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダル を獲得している。
その翌・1932(昭和 7)年、世界大恐慌下でのロサンゼルスオリンピック では、大不況のため欧州各国が参加選手を減らし、参加選手数が前回の約半分の小型大会であり、しかも、、満州事変の勃発(1931年9月)などで国際世論の風当たりが強い中、日本は逆に前回の3倍の192人の選手・役員団を派遣、開催国アメリカに次ぐ陣容であった。 日増しに悪化するアメリカとの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それらに耐え、選手たちはメダルに挑んだ。陸上競技では南部が三段跳びで15m72を飛んで優勝。南部は前年の走り幅跳びで世界記録を出していたが、三段跳びは専門外で殆ど練習をしていなかったと言う。ところが、本命視されていた走り幅では記録が伸びず銅メダルであった。そして、気持ちをきりかえて臨んだ三段跳び5回目のジャンプで、織田の持つ記録を塗り替える世界新記録で優勝したのであった。彼は、早大時に100m、10秒8をマークした俊足の持ち主であること、それと、”お国のために絶対に勝つ”という強い信念があっての勝利だったのだろう。
このロサンゼルス大会で、日本は金7、銀7、銅4計18個のメダルを獲得。国民はラジオと新聞が伝える選手の活躍に狂喜し、日本中で「バンザイ」を叫び続けたと言う。恐慌とファッシズムの靴音。「米国をやっつけろ」。オリンピックが満州国建国をめぐっての反米感情の捌け口となっていたのだろう。日本の国策にマスコミが強力・・・。オリンピックは暗い時代を一時忘れさせてくれた・・・ことだろう・・・・???。
(画像は、南部忠平。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
日本陸上競技連盟(日本陸連)
http://www.rikuren.or.jp/
OC - オリンピックの歴史
http://www.joc.or.jp/olympic/history/003.html
1931年のスポーツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1931%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84
2002world.com・日本サッカーの歴史
http://www.2002world.com/history/japan/index.html
大正デモクラシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
南部忠平 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%BF%A0%E5%B9%B3
織田幹雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84
満州事変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89